ノチェロ

 密閉型ヘッドセットの神聖な音空間に、引き抜いたジェンガを最上段に慎重に積んだ時のような微かな音が、そっと忍び込んできた。

 同時に、空腹を誘導される匂い粒子が空気中に混ざり始めたのを鼻腔が感知。

 ドラゴンやユニコーンが住む原生林が広がるパソコン画面と一体化していた意識が、薄暗い部屋へと急速に引き戻され、憂鬱な現実味を帯びていく。

 彼はゆっくりと背後を振り返った。

 ゴミが詰まったビニール袋で無造作に装飾された扉は、施錠されたまま沈黙を守っている。

 扉の向こうからは、既になんの気配も感じられなかった。


オレ     ーすんまそん(−_−;)エサ供給されたんでイチキタする

ノチェロ   ーエサてwww(*゚▽゚*)おk

オレ     ー15分あれば

ノチェロ   ーゆっくり食べて。あたしもフロリダ(^ω^)ノシ

オレ     ー( ̄^ ̄)ゞ


 ヘッドホンを外した彼は、億劫そうに体を伸ばしてイスから立ち上がった。

 体の動きに合わせて、腹周りについた贅肉が、だるそうに揺れる。

 扉まではたった二、三歩の距離だ。距離と呼ぶにはあまりに短過ぎるので間隔と言ってもいいくらいのその移動が、最近、小学校の遠足で行った高尾山に登頂でもしているような滅入る気分にさせてくれる。

 太ったのはもちろんある。それ以上に、外界を隔てる禁断の扉へと自らの足を向かせているような緊張感に陥るのだ。

 けれど、空腹という欲に気付いてしまった彼はその扉を開けなければいけない。

 一度実感してしまった空腹は、満たさない限り永遠に彼を脅かし続けるからだ。だが、扉を開けることは外界と触れることを意味する。彼を拒絶している外界の空気を感じることになる。更には、扉の外側に残留している視線。諦めと失望それに困惑。それから惻陰の情。腹立たしい。

 彼は夕飯が乗ったお盆を取り上げると、素早く部屋に引き入れた。

 その際、汁物がいささかこぼれてしまったが気にしない。彼は、肉じゃがとお浸しと白米を一緒くたに混ぜてガツガツかっ込む。まさにエサ。それを食らう豚のように肥えた自分。

 彼が部屋に引き蘢ったのは、超有名国立大学の受験に失敗した春の終わりからだ。

 最初は、夏の終わりまでのちょっとしたロングバケーション感覚だった。けれど、いつのまにかクーラーをつけていると肌寒く感じるようになり、毛布を引きずり出してまもなく年が明けたことを知り、それから花粉で鼻がやたらとムズムズする期間がさらっと二回通り過ぎた。

 それでも彼は自分に言い訳をしながら、引き蘢り続けた。

 いつまで? いつから? このままでいいの? そんな疑問を孕んだ言葉達が一つまた一つと彼の中からその存在を消していく。

 そしてとうとう、子どもと大人の完璧な境界線である二十歳すら彼を素通りしていたという事実が発覚してしまう。

 もう後戻りはできない。そんな覚悟とも恐怖ともつかない切迫感が彼に芽生えた。

 食事を終えた彼は、空のペットボトルの山から飲み物を探す。

 飲み切ってしまったらしく見つからなかった。仕方なくキーボードの横にあるモンスターを流し込むと、再びヘッドセットを装着してパソコンに向き合う。

 ロールプレイングゲーム内での彼は、黒い長髪を後ろで粋に括った大剣使いのアタッカーで、いかにも女にモテそうな白い歯を見せた清涼感たっぷりの笑い方をする若い男性アバターだ。

 引き締まったソフトマッチョな肉体に、日に焼けた健康的な肌色。おしゃれな首飾りと赤を基調にした色合いの衣装を着こなし、頬の傷が百戦練磨の強者を思わせる。

 何ヶ月も洗っていない湿気った匂いがする黒っぽい色味の部屋着を着た、黄色い歯と吹き出物だらけの自分と共通しているのは、黒髪であるということと切れ長の目と立ち耳の形だけだった。


オレ     ーイン( ̄^ ̄)

ノチェロ   ーおか(*´ω`*)

オレ     ーΣ(・□・;)レスはや

ノチェロ   ーカラスの業水

オレ     ー行きますか( ̄^ ̄)

ノチェロ   ーよろ*\(^o^)/*


 ノチェロとは、このゲーム内で知り合った。

 白を基調にしたヒーラーの愛くるしい装備を身に纏う女の子アバター同様、言葉使いを見る限りでは十代の女性プレイヤーではないかと彼は推測している。ネカマではないはず。

 彼と同じように時間に囚われずにログインしているようなので、不登校の女子中学生か女子高校生とかではないだろうか。オレと似たような境遇なんかなぁと時々お互いに曝け出して傷を舐め合ってみたい衝動に駆られるが、そんなことをしたところで増々惨めになりそうな気がして止める。

 彼には彼の褒められない事情があるように、彼女には彼女の複雑な事情がきっとあるのだろう。

 それを見ず知らずのゲーム仲間になんて暴露したりなんて絶対しない。ゲーム仲間は非現実な世界での相手でいい。

 リアルな事情なんて辛い要素は仮想世界には必要ない。だが、視覚と聴覚と脳は非現実な世界に行けても、味覚や臭覚を始めとしたその他の感覚は現実に停まらざる負えないのだ。

 臭覚が機能したことによる空腹感の認識。

 いくらゲームに熱中していても、空になったペットボトルが消えるわけでも再び液体を満たすでもないし、敵を倒しても報酬としてジュースやお茶がもらえるわけでもない。悲しいながら、喉の渇き一つ癒すことはできない。だから、ほんとうはどこかでわかっている。現実逃避をしても、所詮は逃避なのであって、いくら逃げて避けても結局はなにも癒すことはできはしないということを。わかっていてわからない振りをしているだけ。今更向き合うのが怖くて。

 全ての視線が怖くて。痛くて。しんどくて。だから。

 時刻を確認した彼は生唾を飲む。

 深夜を過ぎたら、飲み物補充のためにコンビニに行かなければいけない。

 親は、飲み物はわざと汁物しか添えないし、買い物の用を聞きには来ない。それをしたら最後、彼は部屋から出ることはなくなり、完全なる廃人になってしまうと危惧しているのだ。なので、なにか飲みたければ下に降りてくるか、自分で買いに行きなさいと、時々食事盆に乗っている小銭で無言の指示を出してくる。それは、彼からしてみれば生きるか死ぬかの選択だが、親としては正しい判断だと思う。なので、彼は時々深夜に徘徊する。


オレ     ーこの狩場Mob多いな(ㆀ˘・з・˘)

ノチェロ   ーMobに混じってPKいるみたい(´・ω・)

オレ     ー( ̄(工) ̄)あいつ?

ノチェロ   ーフランジェリコ

オレ ーGM通報されとらんのかいΣ(-᷅_-᷄๑)

ノチェロ   ーよ(・ω・`)

オレ     ーPvP容認?

ノチェロ   ーチートにならないのかも(˘・з・˘)

オレ     ーマジか晒せ( ̄Д ̄)ノ

ノチェロ   ーPSヤバいしレベチの無敵人

オレ     ー弱者は黙ってろか(c" ತ,_ತ)

ノチェロ   ーgkbu:;(∩´﹏`∩);:


 この世界でも、強者が弱者を脅かして好き勝手に闊歩しているのだ。

 所属するパーティーやギルド内の礼儀やルールを重んじ、フレンドを増やし経験値を重ねてステータスを上げ、強くなっていかなければ仲間の足を引っ張ることになり、迷惑をかける。

 一人では遊ぶことすらできないのだ。

 彼は遣り切れない思いに駆られる。

 始めた当初は当然戸惑った。若葉の彼は勝手がわからず、誤爆やスタンを連発。必死に攻略を勉強するも実践が追いつかず、パーティからキックさせられたことは何度もある。党同伐異。仲間と呼ばれるメンバーは、誰一人彼を庇ってはくれなかった。彼はその度に心を痛め、現実が辛くて逃避してきたはずなのに、どうしてこんなところでも見ず知らずの他人から誹謗中傷され慮外な言葉を目にしなければいけないのかとぶつけようもない憤りを抱えた。

 この世界においても自分は拒絶されるのかと退会を考え始めた頃、同じくお一人様のノチェロと偶然共闘したことで救われたのだ。

『あたしも若葉で折れそうだった』ゲーム内で初めて得られた体温のある言葉に女神だと思った。

 それ以来、ずっと一緒だ。

 ノチェロは多弁ではない。必要最低限だが、ストレートな表現をするところも気に入っている。


オレ     ーレベ上げしてPKKになったる٩(๑`^´๑)۶

ノチェロ   ー o(≧▽≦)o 8888

オレ     ー死亡フラグ立つかも

ノチェロ   ーサポートする(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾

オレ     ーサンガツ( ̄^ ̄)ゞ

ノチェロ   ーレベリングがんばるᕦ(ò_óˇ)ᕤ

オレ     ーwktko(^▽^)o


 時刻を確認すると、深夜一時を回っている。外出の頃合いだ。

 彼はノチェロに買い出し休憩を告げると、スマホと鍵をスウェット素材のズボンポケットに突っ込んで扉を開けた。

 人が活動している時間帯には近付くだけで極度の緊張と恐怖を伴い、まるで冥界と現世を塞ぐ道反岩のような禍々しい存在感を発している扉も、誰もが寝静まっている時間帯ともなれば、いとも簡単に通過できる。

 足音を忍ばせ極力気配を消して玄関へと降り、音をさせないように解錠すると外に出る。

 慎重に鍵をかけると、自宅前の住宅道路に踏み出した。

 新鮮な夜気に混じって花の香りがする。見上げると白く煙るように梅が満開だ。その背後に広がる星空がこんな非常識な時間にうろつく彼の背徳感をほぐしていく。

 これは何度目の春だ?

 自分だけが、この世界の時の歩みから遁れているような錯覚を捨て切れない彼は、疑問こそ抱けど、己の歳が今いくつなのかすら知ることを拒絶していた。

 オレには関係ないな。そう割り切ることにしている。そうしないと、圧し潰されそうな不安が、狂いそうな焦りが、忘れたはずの恐怖が怒濤の如く押し寄せてくるから。

 かつて彼は、有名進学校に通う、いわゆる頭脳明晰な男子高校生だった。

 彼は両親の自慢の息子。

 ご近所でも神童と噂されるほど幼い頃から優秀な子どもだった。

 一介のサラリーマンに過ぎない父と女子校を卒業してすぐに結婚した平凡な母という鳶夫婦から生まれた鷹。彼自身もそうであると疑わなかった。学校でも塾でも成績上位をキープし続け、すべからく東大にいくのだろうと当たり前のように期待され、彼自身もそのつもりでいた。けれど、

 魔が差した。そうとしか言いようがない。

 東大の受験時、余裕綽綽で回答し終えた彼は、まだ手を動かし続けている隣のツンケンした態度の整った顔立ちをした女子がどんな回答をするのかが不意に気になった。

 彼は躊躇せずに、彼女の答案用紙を覗き込もうとした。その拍子に試験監督に指名されてしまったのだ。

 カンニング行為に及んだとして、彼は不合格の烙印を押される羽目に。のみならず、誰もが知る東大でカンニング者が出たという話題性からニュースでも大々的に取り上げられる事態となってしまう。

 彼は未成年なので名前や学校名は伏せられはしていたが、どこからともなく在籍校や彼の情報がネット上に流れ出し、瞬く間に有名人になった。もちろん悪い意味でのだ。

 親族を始め教師やクラスメートなど彼を取り巻くほぼ全ての人間から卑劣だの陋劣だの悪辣だの恥知らずと罵倒され、挙げ句に疎外された。

 両親に至っては、不慮の息子という存在を持て余しているようだ。

 不遇を託つつもりは毛頭ないし、自業自得だと認識はしているが、じゃあそこからどうすればいいのかはわからない。なぜなら、これまでの努力を水泡に帰すような愚かなことをした彼に一番混乱していたのは、誰でもない彼自身だったから。

 現実の自分にバフをかけられず、かといって彼を取り巻く煩わしい連中にデバフを施すこともできないまま、ただ逃げて遮断するしかなかった。

 時々苦々しく思い出しても、どうして自分はあんなことをしてしまったのかは心情をいくら探ってみても未だわからず終いのままだ。きっと自分はヘイトが高かったんだと思うことにしている。なので正確には、彼は超有名国立大学である東大の受験に失敗したのではなく、自ら成功を投げ捨てたのだが、それだと体裁が悪いので事情を知らない人(ネット内で主にゲーム内、主にノチェロ)に聞かれた場合には失敗したのだと告げるつもりでいる。

 天下の東大だもん無理もないよで、確実にすんなりと納得してくれるだろう。それにしても・・・

 彼は視線を上げると、一際目立つオリオン座をゆっくりとなぞる。

 オレ、いつまで、こんな体たらくで、いるんだろう?

 誰に言われなくても自分で充分過ぎるほどわかっている。このままじゃいけないことくらい。

 わかってはいても時間が経てば経つほど、ゲーム内でレベルアップすればするほど動けなくなっていくのだ。それでも、ログインすればノチェロがいる。彼女がいれば、このままの人生でも大丈夫な気がしてくるから不思議だ。

 これは、恋だろうか?

 彼のうちにほわっと温かい気持ちが灯る。まるで、星空に立つあのコンビニの看板灯のようだと行く手を仰いだ。

 自分とノチェロは、かけがえのないパートナー。だが、この想いを告げる日が訪れることは永遠にないだろう。

 告げたところでどうなるものでもない。所詮、現実世界での生身の自分と彼女は他人。

 それに、彼女はあまり変わらないのかもしれないが、自分はアバターとは似ても似つかない醜男なのだ。

 彼女を失いたくはない。

 現状維持のまま、その年の春を迎え、夏が終わり、秋が消え、大晦日まで十日を切り、カウントダウンが始まった。

 世間が年内の追い込みで忙しい中、彼の生活は変わらない。ノチェロとの関係も維持されていた。

 迎えたクリスマス、毎年恒例のクリスマス限定イベントに二人で参加し、フォトスポットでSSしてはしゃぎ、まるで、クリスマスデートをしているような気分で盛り上がっていた。


オレ     ー今年もクリぼっち回避Thx

ノチェロ   ーこちらこそ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

オレ     ー来年もよろ(v^_^)v

ノチェロ   ー(´・ω・`)


 曖昧な顔文字で返答してきた理由を、もっと突っ込んで聞いておけば良かったと彼は後々後悔することになる。

 クリスマスを終えた数日後の大晦日を迎えるカウントダウンの最中に、ノチェロは忽然と消えてしまったのだ。

 折しも冬から勃発したロシアと隣国ウクライナの戦争が悪化の一路を辿り、なかなか終結しそうにはない不安定な世界情勢を抱えての年越しであった。

 彼は、来る日も来る日も異世界にノチェロを探し求めた。が、ノチェロの行方は要として知れず、彼女のログが確認できないまま窓の外で鶯が鳴き始めた。

 もしかして、彼女の身になにかあったのかもしれないと気付いたのは、ある春の晩。

 彼は例の如く夜中の買い物に出ていた。

 パーカーのフードを被り、両手をポケットに突っ込んだ彼に桜の花びらが散り掛かってきた。それを見上げていた彼の脳裏に豆電球を点ける具合に浮かんだのは、ノチェロは現実世界と折り合いをつけられたのではないかということだった。だから、引き蘢る理由がなくなったのではないだろうか。いや、まさか。

 でも、オレは現実世界でのノチェロのことはなにも知らない。

 オレは敢えて聞かなかったし、彼女から打ち明けてくることもなかった。ノチェロとの付き合いは三年ほどに及ぶ。その間、変わったことはなかった。オレと同じ。だから、勝手に自分と同じ状況なのだと思っていた。なにも根拠がないのに、思い込んで、思い込もうとしていたんだ。だけど、それが全て勘違いだったとしたら?

 彼女はとっくに現実世界と和解して、二次元を卒業していたとしたなら?

 それなら、この不在も説明がついてしまう。

 どす黒い色の感情が彼の中に渦巻き始めた。

 裏切りという言葉が浮上し、祝福という言葉に引き摺り下ろされた。彼女の幸せを願う気持ちが沸いたと思うと、独りぼっちで置いて行かれた怒りと悲しさが被さった。

 彼女は、オレの唯一の心のよりどころだったんだ。オレは彼女が、好きだった・・・のに。

 どこにも打っ付けようがない憤りが込み上げてきて、彼はポケットの中で拳を握りしめる。不安が広がり始めたのだ。

 なにも唐突に行方をくらまさなくったっていいじゃないか。なにか言ってくれたっていいじゃないか。あんなに信頼しあったパートナーだったのに。まるで、全てが嘘だったかのような虚脱感が彼を襲う。

 オレは、オレは、オレは・・・!拳で太腿を叩いて、声にならない叫びを上げる。

 そんな彼を、街灯に照らされた灯りの中からじっと見つめていた者があった。

「かなしいのかい?」

 顔を上げた彼が見たのは、車イスの老人。と思しき人影だった。

 言い切れる自信がなかったのは、スポットライトのように当たっている街灯のお陰で、老人の顔は目の上と鼻とほお骨以外が闇に沈んでいる状態だったからだ。よく言えば、舞台上で役者が独白でもする目玉シーン。悪く言えば得体の知れない化物でも現れたようなホラーシーン。こちらに向けている目だけが街灯を反射してビー玉のように光っているから余計だ。更には、こんな夜更け。早寝早起きの年寄りがうろついているはずもない。彼の背中を悪寒が走った。

「誰だよ、あんた」

 握る拳がじっとりと汗ばんでくる。老人は車イスを操って、少しずつ彼に近付いてきた。

「かなしいのかい?」再度問い掛けてくる。

「あんたには関係ないだろ!」思わず語気が荒くなる。強がってはいるが幽霊や妖怪などオカルトの類いは苦手だ。文化祭ではクラスの出し物だった手作りのお化け屋敷にすら入れず、それがバレないように呼び込みに徹底していたくらいだ。後退る彼を追い詰めるようにして、ジリジリと得体の知れない老人が迫ってきた。

「やめろよ!来るな!悪かったよ、オレが悪かったから!」

 彼は震える唇を動かすが、ほとんど言葉になっていない。すると、彼の直前で老人が前進を止めた。それから、緩慢な動きで体を捻ってなにかを探っている。

「人生に飛び出す一本を!」

 唐突に黒いなにかが突きつけられた。仰天した彼は尻餅をついて目を瞑った。攻撃されると思ったのだ。今の自分は、剣も回復薬も持っていない三次元の弱っちい自分。いくら車イスに乗った年寄りだからと言っても、この世界の人間はわからない。もしかしたら、年寄りに化けている殺人者かもしれないし。どのみち殴られでもされたら、ラードの塊と化している自分はひとたまりもないだろう。・・終わりだ!もうダメだ!こんな思わぬ所で、こんなにあっけなくオレの人生は幕を閉じるのか!こんなことなら、もっと・・・

「人生に飛び出す一本を!」再度、老人の声が聞こえて、彼は怖々目を開けた。

 彼の視界を丸みを帯びた黒いボトルが遮っている。それを両側から掴んで顔から離して見ると、ゴールドラベルに『ノチェロ』と読めた。ノチェロ・・・だと?

 どういうことかと彷徨う彼の視線はけれど、そこにいるはずの老人を捉えることはできなかった。老人は闇に溶けてしまったかのように消え失せていた。

「・・・え?」狐にでも摘まれたような気分だった。だが、両手には酒のボトルがしっかりと握られている。彼はそのままの恰好でしばらく踞っていたが、不快な濡れを股間に感じたので立ち上がった。

 今夜の買い出しは中止だ。彼はジャージの前を気にしいしい帰路についた。

 それからと言うもの、不思議な老人からもらったその『ノチェロ』という名がついた酒瓶を眺める日々が続いた。

 『ノチェロ』という名の女性が消えて、『ノチェロ』という名の酒が現れた。偶然にしてはでき過ぎている。

 これはなにかの啓示なのか? なにかが隠されていると言う事なのか? あの老人はそもそも何者なんだ?

 考えれば考えるほど謎は深まるばかり。ネット上でいくら検索をかけても、ヒットする項目はゼロだ。わかったのは、『ノチェロ』とはイタリア産のクルミのリキュールだということ。だからどうした。なんの手がかりにもならない。

 いや、そもそもこんなことを考えるだけ無駄なんじゃないだろうか。そもそも、この酒は彼女とはなんの関係もないんじゃないだろうか? そうだよな。そうだ、きっと、そうだ。だって、おかしいじゃないか。あんなどこの誰とも知らないジイさんが、いきなり彼女と同じ酒をくれてきたなんて。単なる偶然だ。彼女とはなんの関係もないに決まってる。そうだよ。そうに決まってるよ。バカバカしい。彼女が現実世界に立ち戻ったとしたのならさ、オレがいくら苦悩してても意味なんてないんだ。だって、

 彼女はオレを見捨てたんだから・・・女々しいな。我ながら情けなかったが止められなかった。

 あー苛々する!沸騰した頭を搔き毟った彼はクーラーのボタンを押す。

 夏が近付いているのを感じる。オレは今年の夏もこのまま現状維持なのかなぁ。ノチェロがいなくなったとはいえ、引き蘢りを解除するのに己を納得させられるだけの理由にはならなかったのだ。

 今更、さぁ・・・二十歳を過ぎて学歴も半端なニートデブ男が、今更世間に出てどうするよ。働くのか? つっても、こんな経歴でどこが雇ってくれんのよ。また比較検討されながら生きる世界に戻るのか? また他人の期待が重力となっている世界で生きるのか? また視線に突き刺されながら生活するのか? 無理だ。無理無理。どう考えても無理だ。今更、オレがこの部屋を出たところで一体なにができると言うのだ。現実のオレは身を守る剣を持っていないし、回復させてくれてバフをかけてくれる頼れるヒーラーだっていない。無理だよ・・・無理なんだよノチェロ。

 その時、パソコン画面にDM通知が表示された。

 けれど、腕に顔を埋めて絶望する彼は気付かない。考え疲れた彼は、突っ伏したまま眠ってしまった。

 彼がそのダイレクトメッセージに気付いたのは、翌日の朝だった。


『突然消えてごめんなさい。

 きっと、あなたは心配していると思う。

 あたし、ほんとは日本人じゃない。

 ウクライナに住んでいて日本のことが好きで日本語を勉強してスラングを覚えた。

 でも戦争が酷くなって、あたしのパパが仕事帰りに殺されて、ロシア兵が家の近くまで来るようになって。

 毎日が怖くてたまらない。あたしも殺されるかもしれない。

 こうして、隠れてメッセージを打っている間にも爆弾が飛び込んできて死ぬかもしれない。

 ハイスクールにも行かずに家に引き蘢っていた罰としてこんなことになっているような気さえする。

 ごめんなさいといくら懺悔しても戦争は終わらない。

 でも、あなたと会えた。感謝してる。

 あなたと会えたことで、夢が見つかった。

 日本に住んでゲームデザイナーになりたい。

 お別れが言えなくてごめんなさい。

 今までありがとう。楽しかった。

 もし、生き延びられたら、夢を叶えるために絶対に日本に行く ノチェロ』


 彼は目を疑った。嘘だろ? いつものスラング調ではない言葉に戸惑っているのもあるが、それより何よりノチェロが日本人ではなく、戦争中のウクライナにいるという事実が落雷のように彼を直撃した。

 なにかの冗談だろ?

 確かにこのゲームは世界中からアクセスできるし、外国人のプレイヤーもよく見かける。彼は英語が苦手ゆえにあまり交流したことはないが、時々参戦してくることもある。それにしても、

 それにしてもだ。

 あまりに非現実過ぎる。

 戦争は現実に起こっていることなのだが、ゲーム世界よりも馴染みがなく未知だ。そこにノチェロがいる?

 ノチェロというハンドルネームのハイスクールに通う年頃の幼気な少女が、無惨に親を惨殺された少女が、銃を持った敵兵や爆弾や戦車から逃げ隠れて泣きながら震えている・・・だと?

 彼は、伸びっ放しになった頭を抱えた。理解が追いつかない。

 ノチェロは自分と似たような環境にいるのだとばかり思っていた。戦争なんて無縁のこの日本のどこかに。

 引き蘢っているのだと。でも、違ったのだ。

 彼女はなうで戦争という現実に向き合わざるおえなくなって、必死に生き延びようとしている。

 ノチェロが!

『人生に飛び出す一本を!』

 彼の脳裏に老人の言葉が鳴り響く。ああ、そうだ。

 オレは、こんなところで、こんなことをしている場合じゃないと彼は立ち上がった。そして、扉を蹴り開ける。

 扉の外は昼間で差込む日差しが廊下にコントラストを作っている初夏の午後だ。

 彼は階下に駆け下りた。

 呆然と口を開けている母親に床屋代を欲求し、同時にボランティア活動をしに海外に行く旨を伝える。

 白髪が目立ち始めた母親は、彼の言いなりに頷くと床屋代をくれた。それを掴んだ彼は家を飛び出し、炎天下の中を床屋まで疾走した。

 熱中症がなんだ!脱水がなんだ!ノチェロのいる環境に比べれば屁みたいなもんだ!オレは、行くぞ!

 髪を刈り上げた彼は、その足でウクライナ現地への派遣ボランティアを募集している団体を訊ねたのだった。

 彼は、ノチェロとのゲームを通して、どの世界でも努力と思いやりが必要だと学んだ。そして、生きていくには、どの世界においても、どうしても理由が必要になってくるのだとも。

 ノチェロと過ごす時間の中でいつのまにか、彼女の存在そのものが、彼にとっての生きていく理由そのものとなっていたのだ。

 彼女がどんな姿であっても構わなかった。彼の姿を知った彼女に嫌われても構わないと思った。

 彼はただ、彼女と彼女が生きる環境が平安であって欲しいと願ったのだ。

 そのために自分ができることを探そうと決意した。


 飛行機が離陸するのを待ちながら、凸ビックリするだろうなぁと浮かび、次いで奇跡的に彼女と再会できたあかつきに一緒に飲もうと持参したトランクに眠るリキュールのことを彼は考えた。

 彼女がミドルネームとして選んだノチェロにはもしかしたら彼女の本命に繋がる糸口が隠れているかもしれない。そんなことを考えながら手を置いた腹周りの贅肉は以前に比べるとだいぶ少なくなっている。

 不意に、PKのフランジェリコが浮かんだ。

 ヤツも外国人なのかもしれない。だとしたら、フランジェリコの野蛮な行為もなんとなく頷けた。

 これって差別か?

 いや、日本人はモラルや集団に縛られるあまり意気地なしで根暗なんだ。それを知ってか知らずか攻撃するフランジェリコ。

 彼はふっと口角を上げた。痛快じゃないか。くだらないチー牛なんて全滅させちまえ。

 オレ、フランジェリコ好きかも。今度もし、ログインする機会があったら探してフレンド申請してみよう。

 そんなことをつらつらと考える彼を乗せた飛行機は、雲一つない真っ青な空に消えていった。



 ※ノチェロ

 イタリア産クルミのリキュールである。製造元は、第二次世界大戦終結の1945年に創業した酒造メーカートスキ社。エミリア・ロマーニャ州ヴィニョーラという小さな街の酒造メーカーだ。黒くつや消しされたぼってりとしたボトルには、赤いシーリングワックス(残念ながら現在流通するボトルにはなくなってしまったようだ)に三角形の木がモチーフになったトスキの刻印。高級感のあるゴールドラベルに、クルミの形を象ったキャップがついている。ノチェとはイタリア語のクルミの意味。中性イタリアでは、女子の誕生と共にクルミの木を植え、結婚する時にその木で作った家具を持たせる風習があったとか。現在でも花嫁を祝福してクルミを投げる風習は続いているらしい。そんなクルミを主原料にしたノチェロは、アルコール度数24度のリキュールだが、クルミの芳醇な香りと僅かな苦味がアクセントとなり、さっぱりとした味わいが楽しめる。同系列のナッツ系リキュールとしてはヘーゼルナッツリキュールのフランジェリコと人気を二分する。

 飲み方としては、コニャックやミルクで割るのがスタンダードだ。また、クルミの風味を生かした製菓材料としても使われる。オメガ3脂肪、ポリフェノールを始めとした抗酸化成分の含有量が他のナッツと比べるとだんとつに多いクルミ。更には各種ビタミンやミネラル、マグネシウムなどの体に必要な成分が豊富であるがゆえに、食物アレルギーによるアナフェキシラーショックが起こりやすいと言われる。健康長寿を願って止まない人間は、栄養価が高い食物と見れば飛びつく傾向にあるが、栄養にせよ何にせよ取り過ぎるのは考えものということだろう。ありとあらゆるものを口に入れなければ気が済まないような欲塗れの雑食主義の人間は、木の実や果物だけのシンプルな食生活をしているリスのようにはなれないのである。

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