ディタ

 学校のチャイムを思わせる間延びした音が鳴り響く。役所の昼休みの合図だ。

 役所の玄関へ向かうのは外食する者、近くの公園で弁当を広げる者、コンビニに買いに行く者様々である。けれど、玄関から出てまず目にするものは同じだ。

「おばあちゃん、またいるよ」

 誰の頭にも同様の台詞が浮かんでしまうくらい、その老婆は役所玄関正面に陣取る常連だった。

 役所のシンボルにもなっているソメイヨシノの老木を囲うブロックにちょこんと腰を下ろした老婆は、背中が丸く曲がり、白くフワフワの毛糸ケープを身に纏っているので羊を思わせる。

 ケープとお揃いのフワフワ白髪に縁取られた余分な肉の刮げ落ちた小さな顔を覆う薄い皮膚に穿たれた鼻の穴以外の切れ込みを塞ぎ、こっくりこっくりうたた寝をしている小動物的な様は、彼女を目にした者全ての視線を止めてしまう可愛らしさがあった。思わず親切心に駆られた何人かが吸い寄せられるように近付いて「おばあちゃん、お昼になりましたよ」と老婆の肩に優しく触れる。彼女は夢のような速度で瞼を開けると、色素が薄くなり始めた丸い目で相手を見上げるとあらあらと恥ずかしそうに笑むのだった。

 どこの役所でも、小規模な医療施設同様に、対した用はないが頻繁に出没する名物老人が多かれ少なかれいるものだが、彼女もその一人。独りぼっちで、家にいるのが寂しいので、誰かとおしゃべりしたくてつい来てしまう。

 病院や接骨院にも行くが、不調や痛みがないと行けないので、比較的親切な職員が大勢いる役所に足が向いてしまう。ここなら、お金を払わなくても痛いところがなくても、誰かしらは相手をしてくれるから。もちろん、用があればそれを口実にして長く相手を引き止めておけるかもしれない。彼女はとにかく会話に飢えていた。

「おばあちゃん、悪い人じゃないんだけどねぇ」

 四十路に足を突っ込んでしまった先輩が手作り弁当を広げながら、コンビニのパンの袋を破く眼鏡をかけた新入り男子に名物老婆のことを簡単に説明する。

「育ちがいいのね。きっと。言葉も人当たりもとっても柔らかいのよ。でもね、忙しい時には正直勘弁して欲しいって思っちゃうのよねぇ」うんざりと溜め息をつきながら、不細工な卵焼きを口に運ぶ。

 ああ確かに先輩は、忙しい時には殺気立っているから自分でも近付きたくないもんなと新人男子は眼鏡を押上げながら内心思うが口には出さずに黙々とパンを齧る。

「高齢者には親切にしなきゃいけないって頭ではわかってるんだけど、こう頻繁に、毎回似たような会話が繰り返されると、ああまたかってうんざりするし、いい加減に煩わしくもなるのよ」後半は先輩の単なる愚痴だった。

「大変っすね」パンを食べ終わった眼鏡男子はそう言うしかなかった。

「あのおばあちゃん、話を聞いてくれそうな人を見つけるのが得意だから、君、気をつけた方がいいよ」入ったばっかで、まだ任せられる業務が少ないから座ってるだけの時間多いでしょと後輩に同意を求めてきた。そういうことなら先輩はなにもやってない人だと見られているってことか新人男子は内心首を捻るが、はぁと適当な返答で濁した。ふと、売れ残った女の先輩ってめんどくせ、と思った。



「ねぇねぇ、綿花さんのこと聞いたぁ?」

 訪問介護派遣事業所内でのケアカンファレンス終了後、肩を回して伸びをするヘルパーが初めに口火を切った。

「綿花って・・・あだ名が適切過ぎて笑うから」吹き出したヘルパーの隣で、わかりやすっと笑い声が上がる。

 彼女達の話題になっているのは例のフワフワ白髪頭の老婆である。一人暮らしの老婆は、週に何度か訪問介護と訪問入浴を頼んでいた。気だてもよく大人しく扱いやすい高齢者なので、ヘルパーからの人気が高かった。

「ホラこの間、月曜日の担当者が急に病欠したじゃない? あの時、うちも人手が足りなくて、仕方なしにお局が代わりに行ったらしいんだけどー」マジ? お局がヘルパーとしてまだ稼働できるってことに驚きなんですけどっと素早くちゃちゃが入る。憎たらしい輩の鬱憤の捌け口を見つけたなら即利用は当たり前。

 お局と呼ばれる中年女性は、丸々と肥え太っており動くのもやっとという恰好なのだ。お局と呼ばれるだけあって、性格は神経質で皮肉っぽく、歯に衣着せぬ発言は新人のみならずベテランに対しても容赦がない。

 本人は風邪をこじらせたため本日は欠席しているので、日頃から嫌味を言われているヘルパー達はここぞとばかりに言いたい放題だった。無理無理、自分の介護で精一杯でしょーとどっと笑い声が起こる。発言者も腹を抑えながら話を続けた。

「綿花さんが、怒ったんだって」え、お局なにした? 綿花さん怒るってよっぽどじゃね? 動揺が広がった。

「私も詳しくはわからないんだけど、どうやらお局が、綿花さんが大事にしてたものを勝手に捨てちゃったらしいのよ。それで、綿花さんが激怒しちゃって」でも、捨ててもまた拾えばよくない? と疑問の声が上がる。

「それが、物がなんだかわからないんだけど、ゴミ収集に出したか、壊しちゃったかしたみたいで・・・」ヤバっ!と声が上がって、有り得ないんだけどと誰かが呟くと、先程までの姦しさはどこへやら沈黙が降りてきた。誰もが性悪のお局の手に寄って大切にしていた物を葬られた可哀想な綿花さんに同情を禁じ得なかった。

「綿花さん、何度も何度も事業所に電話かけてきて、終いには涙声で、ほんと可哀想だった。弁償するって言っても、滅多に代替え品なんてないじゃない? 特に綿花さんは九十五歳だから大昔のものだってこともあるしさ。ホラ、大正、昭和、平成、令和って四つの時代を生きてきてるから。弁償なんてできるわけないよ。さすがのお局も謝罪してたけど、あのふてぶてしい顔は、きっと反省なんてしてないね。その事件以降、綿花さん元気ないんだよ」綿花さん可哀想と蚊の鳴くような声で誰かが言って、だからなのかぁと誰かが寂しそうに納得した。

「綿花さんって、数年前に一人息子さん亡くしてるよね。確かお嫁さんが気が強くて、綿花さんに辛く当たるからって同居解消しちゃったんだよね。その時に、特養とかには絶対に入りたくないからって息子に初めて駄々捏ねたって本人から聞いたことある」だね、だねと頷き合う。

「でも、今となっては有料とか特養に入った方が良かったんじゃないかなぁって、よく思う。だって、息子さん亡くなってからずっと、綿花さん寂しそうなんだよね」わかるーと声が上がる。

「だから、あたし達が行かない日は役所とかに行ってるのかな? この間、用事があって役所に行った時に、玄関の桜の木の下に綿花さんが置物みたいに座って居眠りしててビックリしたのよー」

「アレ、てか綿花さんの旦那さんってどうしたんだっけ?」この問いには首を横に振る者の方が多かった。

「私、前にちょっとだけ聞いたことある。確か、旦那さんは満鉄の職員だったって言ってた。それで、終戦後に満洲から引き上げてくる時にロシア兵に殺されたって・・」

 カンフェレンスルームは水を打ったように静まり返った。誰もが小さな老婆に壮大な歴史を感じていたのだ。満洲鉄道に満洲引き上げなんて第二次世界大戦同様に歴史の教科書でちょっぴり齧った程度の知識しかない。

「綿花さん、ほんとに苦労したんだねぇ」誰かがしみじみと溜め息をついた。

「そんな綿花さんの大切にしていた物って、一体なんだったんだろう?」



 アパートの近隣住人は噂好きな主婦ばかりだ。

「そう言えば聞いた? あのアパートの」と、一人の主婦がそれまで盛り上がっていた子ども達のお受験の話題をさりげなく切り替えた。彼女の息子は有名私立学校にはとても合格できそうにない成績だったのだが、それをひた隠しにしていたので、学校だの塾だのの情報交換が苦痛で仕方なかったのだ。

「あのオンボロアパートに住んでるおばあちゃん。あの、カリフラワーみたいな頭の。そう。その人」ああ知ってる知ってる、いつも見かけるたびに毛量が多くて羨ましいなって思ってたのと片方が恥ずかしそうに口を隠す。アレ天パなのかしらと。思惑通り、他の二人がすぐに食いついてきたので、お受験の話題を回避することに成功した彼女は頭の中でガッツポーズする自分を浮かべた。

「バカね。天パなわけないでしょ。美容室でパーマかけてるのよ。うちの子の送り迎えの時に、よく美容室でパーマかけてる姿を見かけるもの」身綺麗にしてるのねぇ私達も見習わなきゃねぇーと話がまとまりそうな雰囲気だったが、どちらかと言えば気の強い仕切り屋タイプの片方が、で、その人がどうかしたの? と彼女に振り向いた。 

「あのおばあちゃん、通りすがりに目が合うと笑って会釈してくるおとなしそーな人でしょ? でもね、あたしこの間、見ちゃったの。あのおばあちゃんが、女の人をもの凄い剣幕で怒ってるのを」うっそやだ、ほんと? と片方が不安げに眉間に皺を寄せる。なにがあったのかしら? と仕切り屋が首を傾げた。

「わからないけど、ただ、もの凄い形相だったわ。オニババって表現がピッタリって感じの。まぁ見てないと、全然想像できないでしょうけどね」と肩を竦ます彼女に怪訝そうな視線を送っていた一人が少しして口を開いた。

「でもそれ、どこで見たの? きっと、外ではないんでしょうね。あなたが言うように尋常ではない様子なら近隣住民が放っておかないと思うの。まさか、アパートの窓から覗いたなんて下卑たことではないわよねぇ?」仕切り屋に強い口調で念押しされて、彼女はまさかぁーと不意打ちを食らった動揺から引き攣った笑みを浮かべた。ミスチョイスの話題だったかもしれないと今更ながら後悔が押し寄せてくる。あのオンボロアパートには、実は自分の浮気相手でもある年若い大学生が住んでいて、彼の部屋で逢引をした帰りにアパートの廊下で見た光景だなんて口が避けても言える訳がない。

「偶然、通りかかったのよ。そしたらアパートの前で、だったかしら? 大声だったから、つい目がいっちゃったわ」へぇーそんなに目立ってたのねぇーと事情を知らない二人をなんとか誤摩化せそうな気配だ。後一押しと思った彼女は、顔を見合わせ合っている二人より先に結論を口に出した。

「なんにせよ、子ども達には、もうあのアパートには近付かないようにキツく言っとかないとね」

 すぐに片方が確かにそうねと同意する。仕切り屋は腕を組んでなにかを考え込んでいたが暫くして口を開いた。

「そうしたほうがいいかもね。あのおばあちゃん優しいから、子ども達がやたらと懐いてるし」子どもの心配事になれば主婦は途端に目の色を変える。主婦にとって子どもの育成と見守りは仕事を通り越して使命だからだ。転ばぬ先の杖ではないが、子どもの行動の先回りや起こりうる予測をつけて予め危険を回避しておくのは基本だ。

「わかるわかる。なにかあってからじゃ遅いもんね」そうそうと他の二人が神妙に頷いた。

「それにしても、やっぱり人は見かけに寄らないもんねー」子ども達のためにあたし達が用心しなきゃいけないわねと主婦達は締めくくった。



「お、名物ばあちゃんの今日の話し相手がようやくご帰館したな」どうだった? と、前のめり気味に話す上司が、さっきまで役所のロビーで老婆の相手をしていた新入り男子に声をかけてきた。

 やることもなく、ただ席に座っていたら、ねぇちょっとちょっとと可愛らしい笑顔の老婆に手招きされたのだ。とりあえず用件だけを聞いて他の職員に回そうと思って近付いてみたところ、そのまま一時間ほどおしゃべりに付き合わされる形となった。と言っても、彼は一方的に話す老婆に適当な相づちを打っていただけなのだが。それが、いつか先輩が言っていた名物老婆だと気付いたのは、じゃあまたねぇと彼女が帰ってからだった。

「どうって・・・特には。ずっとライチの話をしてました」新人は表情のない顔にかけた眼鏡を押上げながら答えた。

「ライチぃ? って果物のライチのことか?」素っ頓狂な声を出した上司に、ええ恐らくと冷静に返す眼鏡男子。

「入れ歯がズレてしまうらしく、とても聞きづらかったので、ニュアンスぐらいしかわかりませんでしたが」

「小一時間もライチのことを語ってるなんて、よっぽどなにか強い思い入れでもあるんだろうな」

「あと・・・飲みに誘われました」うっそ、私そんなこと言われたことないんですけどぉーと近くにいた中年の女性職員が口を尖らせる。それを、まぁまぁと手で制しながら上司は苦笑いを浮かべた。

「あのばあちゃんも、その他大勢の老婆の例に漏れず若い男が好きなんだな。きっと。良かったじゃないか」と肩を叩かれた彼は、はぁ良かったんですかねと曖昧な笑みを一瞬浮かべただけだった。

「あのばあちゃんはな、ああ見えて、若い頃に満洲に渡ったっていう経歴の持ち主でな、日本史の生き証人なんだ。九十代が少なくなってる今の時代では希有な存在なんよ、実はな。ライチも満洲絡みかもなぁ。もしかしたら」早口に捲し立てる上司のテンポについていくので精一杯の新人男子は、やっぱりそのくらいの歳なんだと納得し、次いで、上司をしげしげ眺めながら、この人カップラーメンとか三分前に剥がすんだろうなと思った。

「すっかりうちの名物ばあちゃんだけど、歳が歳だけに、そうしていられる時間もあと僅かかもしれんしな。今からばあちゃんそっくりの銅像でも作って、ばあちゃんが座ってるところに設置しとくかー」縁起でもないこと言わないでください!と偶然通りかかった福祉課のつり上がり眉の女性職員に窘められてしまった。

「桜が咲く時期には、ばあちゃんが座ってるポイントがまた、絵になるんだからいいじゃないかよー」

「そのソメイヨシノが咲いたら」花見でもしないかってと付け加える彼を遮った上司は、飲む時は教えてくれよと口早に言って窓口対応に向かった。窓口にはいつのまにか眉間に皺を寄せた人々で混雑している。けれど、入職したばかりの彼にできる事は少ない。忙しく対応に走り回る他の職員を横目に席に着きながら、でもオレ飲めないんだよねと彼は小さく呟いた。



 一日の業務を終え、介護事業所に戻ったヘルパー達がパソコンと睨めっこをしながら介護記録を作成している。定時が迫っていた。どの顔も早く済ませて帰りたい一心なので、キータッチ音以外は一言も発しない。その鬼気迫る沈黙が破られたのは引っ詰め髪のヘルパーのそういえばという呟きだった。

「綿花さんがお局に捨てられたもの、自家製の果実酒だったって」本人から聞いた、と彼女が言い終わらないうちに、果実酒って焼酎かなんかに果物漬けとくヤツだよね、と一人が顔を上げる。なーんだそれならもう一度漬ければいいんじゃない? という空気が漂ったが一瞬で消えた。

「綿花さんが激怒したくらいなんだから・・・ソレ、ただの果実酒じゃあ、ないんでしょ?」ショートヘアの勝気な性格をしたヘルパーがストレートに訊ねる。引っ詰め髪のヘルパーは、まるで本当にあった恐怖体験でも話すような顔つきで、ゆっくりと頷いた。

「旦那さんが満洲で手に入れたライチの種から育てたライチが、漬けてあったらしいよ」うっわマジかーそれはマズいわ、どうしようもないやつじゃん、と絶望の声がいくつか上がった。

「綿花さん、大事に大事に育てたライチを長く味わいたくて果実酒にしてたんだって。毎年漬けて、熟成の度合いに合わせて少しずつ飲んでたみたい。でも、それを見たお局が体に悪いからって話も聞かずに勝手に全部捨てちゃった、らしい・・・」最悪じゃん、最低過ぎる、だねだねと眉を潜めて首を振るヘルパー達は、定時を過ぎてしまったことに気付いていない。「綿花さん可哀想」と誰かが同情を口にする。それを口火となって、ほんと可哀想!とヘルパー達は一斉に騒ぎ出した。

「どうにかしてあげられないかなぁ?」と口にするヘルパーに、いやいや無理でしょ、第一どうにかってお局が責任持ってどうにかしなきゃいけないんじゃない? あのデブにはどうにかしようとする頭なんてないよ、そうそうアイツの頭にあるのは他人の失敗だけ、今日の朝礼だってえっらそうにっさーこの間、新人が利用者を怒らせたことを取り上げて責任のある行動をとか垂れちゃってテメーがだろって感じ、ほんとほんとそんな時だけしゃしゃり出て鬼の首取ったみたいなドヤ顔ぶら下げちゃって腹立ったわ、などなど愚痴が機関銃のように飛び交う。

「今月、花見会を催すじゃない? その時になにかしてあげられないかなぁ」

「なにかするって、なにするの? またお局のチェックが、うるさいよ」アイツ、自分は口出すのが仕事だとか絶対思ってるから。人一倍食ったり飲んだりするくせに、ケッチ臭いんだよねーと又しても文句になる。

「だから・・・内緒で」

 その場にいた全員の視線が、提案を口にした引っ詰め髪に集まり、次いで部屋内外を素早く伺う。噂のお局は定時で帰っており、扉を隔てた隣室ではチーフと事業所長がそれぞれ電話対応中だった。

「マジで、やる気?」ゆっくりとけれど深く頷いた引っ詰め髪のヘルパーを見つめるたくさんの眼差しには、秘密のサプライズを企画するという興奮と期待が既に満ち満ちていた。にっくきお局を出し抜けるチャンスなのだ。

「おっけーじゃあ何から始める?」とショートヘアが囁くように聞いてきたので、自然と他の者も顔を伸ばして肩を寄せ合う形に集まった。そうしながら扉の向こうの気配に神経を尖らせる。

「なくなってしまったものは、あたし達にはどうにもできないから、そうね・・・全く違うけど似たようなものを用意するっていうのは?」それって、ライチのお酒ってこと? そんなのあるの? と疑問が上がる。

「今は色んな輸入食材だって簡単に手に入る時代なんだから、探せば絶対にあると思う」

「おっけーじゃあ、それに決まりね。各自で探して、後日結果報告。秘密厳守。それでいい?」ショートヘアの締め括りの言葉に、ヘルパー達は真剣な面持ちで小さく頷くと各パソコン前へと散って行く。そして、新たに発生したいかにも楽しそうなミッションに逸る気持ちを抑えながら、残った介護記録を完成させるべくキーボードを叩き始めたのだった。



 数日後、桜が咲き始めた。

 うっすらと淡く色付き始めた桜並木の通学路を、卒業生以外は普段変わらぬ登下校を繰り返して春休みを待ちわびる小学生がランドセルをガシャガシャ鳴らしながら下校している。彼らには春の花を愛でるなどという大人びた風流さはない。花は花でしかなく、ジャンクフードや菓子など彼らにとって好むものでもなければ、アニメやゲームのような娯楽でもない。大人が言うところの春であって、桜という風景なだけであった。

「おばあちゃん家には、行ったらいけないのよ!」ツインテールの女子が、男子に怒鳴っている。

「はあ? 勝手だろ。ダメだって誰が決めた?」と、ランドセルをぶんぶん振り回しながらアパートに向かおうとしていた男子数人が止まって腰に手を当てている女子を振り返った。男子のリーダー格はツーブロックだ。

「うちのママが言ってたんだから!」うちのママがぁーうちのママぁーと何人かの男子が彼女の口調を真似してゲラゲラ笑い転げ始める。ツインテールの子は林檎のように顔を紅潮させながら尚も続けた。

「あのおばあちゃんは優しそうに見えるけど、ほんとうは怖い人なんだって!怖い目に合うんだから!」

「オマエの母ちゃん、ばあちゃんが怖い人だってどこで知ったんだよ。怖い目ってどんな目だよ?」

「それは・・・」言葉に詰まってしまうツインテール女子。ほんとうのところ、彼女にもよくわからないし、よく知らない。ただ、ある日、ママに突然言い渡されたのだ。『あのおばあちゃんは本当は怖い人だから、絶対に近付いたらいけない』と。それも何度も。怖い顔で。だから、すべからく納得した。そうしないと怖いから。口答えするとママは、いいからママの言う通りになさいってすぐ怒るから。でも、確かに、男子が言うようにどうしてあのおばあちゃんが怖い人なんだろう?

「知らねーのに、言ってんじゃねーよ。バーカ」軽蔑が混ざった鋭い視線を彼女に突き刺したツーブロックの男子は、バーカバーカと連呼しているその他大勢と一緒にゲラゲラ笑いながら角を曲がってしまった。きっと、おばあちゃんが住んでいるアパートに行くんだ。

「ママに・・・」チクってやるから。いい考えだわと、ツインテール女子はニヤリと笑う。そうすれば、PTA役員の母親が学校に働きかけてくれるはずで、そうすれば先生から注意されるだろうから、それで、あの生意気で忌々しいツーブロックをぎゃふんと言わせることができるかもしれない。

「無理だよ」

 耳を氷で撫でられたような冷静な声が真横から聞こえて、ツインテール女子は飛び上がった。

 彼女の横をすり抜けていく眼鏡をかけた優等生の男子が読んでいた植物図鑑を閉じたところだったのだ。

「無理って、なんでよ!」自分から出た怒鳴り声が、母親の嫌いな声に似てるなと彼女は思った。

「おばあちゃんの孫だもん。彼」

 振り返ることもなく植物図鑑を脇に抱えた眼鏡男子も角を曲がっていった。それを唖然と見送りながら、だからなんなのよぉと彼女は喉元で痞えてしまった言葉を吐き出す。確かに、おばあちゃんは子ども達には誰にでも優しかった。この学校の子どもなら誰でも一回は必ず話した事がある。彼女は小学校一年生になった時に学校に行くのが嫌で仕方なくて、通学路の電信柱にこっそり隠れて生徒達を見送っていたことがある。その時に、どうしたのぉと優しい声で話しかけてくれたのがおばあちゃんだった。彼女が黙ったままでいると、オリンピック選手が愛用している勇気が出る貴重な飴なんだよと言って黒飴を二つ取り出したのだ。残りが二つしかないから半分こと言って一つ彼女にくれ、もう一つは自分の口に入れる。それから、彼女の背中を何度か優しくさすってくれたのだ。結局、彼女があの飴を食べたのは有名私立中学受験の模試の時。確かに勇気は出たが、試験の結果は散々だった。その時からずっと、ママは苛々している。パパも、最近あんまり帰ってこないし。やっぱ、言うのやめとこう。彼女は踵を返した。



 役所の前に植えられたソメイヨシノの老木が、今年も満開になった。

 いつものポイントに老婆の姿はない。今日は日曜日、役所は閉館している。けれど、新人役人の男子が一人、桜の木の下で佇んでいた。眼鏡を押上げながら見上げる桜は吸い込まれるように美しく、時々吹く風に白い花びらが舞い上がる。彼は一時間前からずっと人を待っていた。けれど、未だ現れる気配はない。

 自分で誘えって言ってたくせにな、と彼は猫の溜め息くらいの小さな息をつくと、歩き出した。指定された場所は、近所の運動公園。ここから五分もかからない。手土産になにを買おうかは決めていた。老婆が何度も口にしていたライチだ。生は取り寄せられなかったので、酒ならばどこにでもあるだろうと高を括って出かけた。ところがなぜか、どこに行ってもライチの酒が売り切れていたのだ。テレビかSNSかなんかで取り上げられてバスってんのか?

 五軒目も空振りで終わった彼が、外に出ると、車イスに乗った老人が居眠り運転をしていた。蛇行して走る車イスを通行人が器用に避けていく。危ないな。そう思った途端、差し掛かった坂道を猛スピードで下り始めた。

「あぁあぁあぁああぁぁー」さすがに目が覚めた老人は、大声を上げながら車イスにしがみついている。

 彼は走った。学生時代にはバレーボールの副キャプテンとして活躍していた彼は、敵陣から打ち込まれるどんな玉でもトスに変えることが得意だったのだ。車イスに追いつくとハンドルを握り、燕のように華麗な動きで百八十度向きを変えた。そのままゆっくりと坂を下り切ると、大丈夫ですかと老人に声をかけた。

「あぁあぁあーたすかった!たすかったよー!ありがとう!」ありがとうありがとうと拝むように連呼する老人に、大丈夫ですからと無表情で言って立ち去ろうとした。すると、老人は慌てて背後にかかった袋を弄って、一本の瓶を取り出した。

「いのちのオンジンにおれいを!これをうけとっておくれ!人生の出会いの一本を!」

 透明な瓶にディタと明記された赤いラベルが貼られている。ディタって・・・これ、なんの酒だ?

 彼が首を捻っている間に、老人はありがとうと嬉しいを大声で連呼しながら遠ざかっていった。

 まぁいいか。なんだかわからないが酒が手に入ったし、と老婆と待ち合わせしている公園に向かうことにした。

 運動公園が見えてきた。今日は快晴だ。花見する家族も多いのだろう。子ども達の賑やかな声が聞こえてくる。

 また一陣の風が過ぎて桜の枝を揺らしていった。青空に散っていく花びらを眼鏡に映した彼の鼻腔を、どこからか透明な果実の香りがくすぐった。



 ※ディタ(SOHO)

 フランスのペルノ・リカール・グループが1980年代後半に開発したライチリキュール。開発にあたり、アメリカ、アジア、ヨーロッパ各地の若者の嗜好やライフスタイルの変化などを始めとした情報をリサーチした。その結果、エキゾチックな東洋をイメージした中国南部原産のライチが注目される。かの楊貴妃も愛した果肉は上品な芳香を持ち、水分も多く、甘味も強い。だが、保存が利かない上に、収穫して二日目には香りが消失するという厄介なフルーツである。また上品な香りはじっくりと味わうと、苔っぽい風味が先立ってしまう。そうしたライチの特性をうまく抑えたディタは、優雅な香りだけを取り出すことに成功したリキュールだ。無色透明なライトタイプの酒は、チャイナローズを思わせる赤いラベルとキャップの可憐な外見をした透明なボトルに詰められ、日本以外ではSOHOという名称で売られている。

 ディタを使った代表的なカクテルとしては、なんといってもグレープフルーツジュースと合わせてブルーキュラソーを垂らした「チャイナ・ブルー」と、そこに桂花陳酒を加えてシェイクした「楊貴妃」だろう。どちらもスッキリとした優雅な飲み口で、初心者でも頼みやすい味となっている。また、ディタの香りを楽しむなら、フルーツジュースやシャンパンなどで割るのもオススメだ。上品なライチの香りを堪能できること請け合いである。原産地華南から長距離を早馬で運ばせたエピソードもあるほど楊貴妃に好まれたライチ。それを手軽に味わえるとは贅沢な限りである。

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