パッソア

 掃き掃除が終わった地面に張り付いたガムを、ヘラを使って丁寧に刮げ取っていく。

 雨にも負けず風にも負けず夏の熱さや冬の寒さを乗り切ってしまったガムの粘着性は弱まるどころか強化されてしまっているようで、表面は崩れるもののキレイには取り除けない。

 ガムに混ぜられた苺やミントなどの人工香料が鼻腔をくすぐり、忌々しさを手助けする。

 一体どんなやつが葬儀場の駐車スペースなんかにガムを噛んで吐き捨てるのか。近頃の日本人は、と常識自体を疑いたくなるほどの量のガムが見渡す限り水玉模様になっている。

 彼はうんざりと溜め息をついた。

 世も末だ。憤れない虚しさを抱えながらも、彼はガムを剥がす手を止めない。

 告別式の時間が迫っていた。今日は昼の出棺だ。急がなければ。

 遺族が出たら、控え室とトイレを含めた館内清掃を二時までには完了させないといけない。四時からは、違う家の納棺式が入っている。

 彼は薄くなってもしつこく地面にしがみついている粘ついた物質を睨む。

 とりあえず三つやっつけられれば・・・

「ちょっとちょっと、あんた!なにやってんの!柩車の邪魔だよ!」

 鋭い罵声に顔を上げると、自動ドアの前に不細工な雪だるまのような風貌をした館長が腕を振り上げている。

 いつの間にか彼の背後で霊柩車が駐車スペースに入れなくて立ち往生していたのだ。

 慌てて飛び退くと、中年のドライバーが、弱々しい笑顔を浮かべながら会釈して通り過ぎていった。

「危ないよ!あんた、ダメだよ!周りを確認しながらやらないと、引かれてたとこだ!」

 神経質で有名な館長は禿げ上がった頭まで紅潮させて、のんのん近付てくると、ちょうど彼が刮げ途中のガムの上で止まった。

 黒を基調とした制服が今にもはち切れそうだ。コミカルな見た目と反して、分厚い眼鏡の奥には野性味を感じる鋭く細い両目が鎮座している。その目が今、彼を捕えていた。

 マズイマズイマズい。彼は汗をかきながら平謝りした。

 霊柩車を駐車し終えたドライバーが、気の毒そうな視線を投げながら足音を忍ばせてホールに入っていく。

「すみません・・・その、うっかりしていたもので。すみません!気をつけます。すみません!」

「そうして、くれなきゃ、困るんだよ!こっちだって、過失だ、労災だなんて、言われたんじゃ、かなわないんだ!」

 強調するためにわざと区切って言ってくる館長。読点で息継ぎをする度に交互に足を踏み鳴らすので、せっかく取れかかったガムは再びコンクリートの模様の一部になっていく。

 あああああぁーと項垂れる彼が反省していると取ったのか、館長はバッと腕時計を見ると、時間になる時間になると呟きながら慌てて走り去った。

 もう今日は、ガム剥がしは諦めよう。

 彼は外用掃除用具をまとめ始めた。

 ついてない。館長が担当だとわかっていたら、もっと目立たない清掃しかやらなかったのにと確認を怠った後悔が今更立った。それにしたって、館長自らわざわざ霊柩車を迎えていなくてもよさそうなもんだ。

 いやいや。不満などとんでもない、と彼は頭を横に振る。

 駅から遠い寂れた工場街の端っこにひっそりと佇むこの葬儀場の清掃員の職は、就活の泥沼の底を這い回っていた彼がやっと得ることができた希望の光だった。

 半年間、面接と履歴書送付の数だけ不採用通知を受け取り続け、僅かな蓄えも底を尽き危うく住む場所まで失うところだった八方塞がりの彼を救ってくれたのだ。もちろん、恩義を感じている。

 館長がどんなに神経質な変わり者であろうと、不条理なことで怒鳴られようとも。こんな自分を受け入れてくれている。有難いことだと感謝の心だけは常に忘れないようにしているつもりだ。

 館内に入ると、先程の霊柩車ドライバーの男が煙草を吸っていた。

 彼に気付くと、ふっと曖昧な笑みを浮かべる。それから、煙草を揉み消すと周囲を見回しながら近寄ってきた。

「災難でしたね。ここの館長は虫の居所がコロコロ変わる要注意人物ですからね。私達の間でも気をつけるべきリストに載ってますよ」男は、煙草臭い小声でそう囁くと苦笑いをする。

 彼は、はぁと引き攣った笑みを浮かべながら「気付かなかった私も悪かったので、仕方ありませんよ」と返した。

 彼のその返答が的外れだったのか、男は苦笑いはそのままに、音もなく離れていく。もしかして、なにか返答をとちったのかもしれないと彼が気付くのはその数十分後、トイレ清掃をしている時だ。

 出棺時にすれ違ったドライバーの態度が、冷ややかな気がした。

 彼は磨いていた便器に向かってふぅと息をつく。人の死を扱う特殊な業界だからだろうか。変わった人が多いように感じるのは。以前所属していた団体も、上に行くに従って変わり者が多かったが、また違った種類だった。

 働き始めて早二ヶ月。

 彼は、この業界になかなか馴染めずにいた。


 日曜日だ。

 早朝から目が覚めてしまうのは、長年染み付いた習慣。

 日曜日には集会がある。あった。ついこの間まで。

「おはようございます。よろしくお願いします」

 事務所の開けっ放しの扉を入り、挨拶しても特に返事はない。誰もいないわけではない。

 館長を含んだお揃いの制服を着た数人の若い男女が、険しい顔をしてパソコンに向かっていた。いつものことだ。それでも挨拶はしっかりしたほうがいいからと仕事を教えてくれたおばちゃん先輩に教わった。

 おばちゃん先輩は、孫の世話をするのだと嬉しそうな顔をして彼と入れ替わりで辞めたのだ。

 ホワイトボードに視線を滑らせると、今日は夕方からの施行しか入っていない。

 駐車場のガムを昨日の分まで取れそうだなと気合いが入る。

 彼は手早く掃き掃除を終わらせると、四つん這いになってガムを刮げ始めた。

 水色折り紙のように斑がない青空から降り注いでくる日差しは春を感じさせるほど暖かい。

 猫柳のような雲が浮遊している。つい先日まで吹いていた北風が嘘のようだ。

 彼は着ていた防寒着を脱いで腰に巻き付けると何度か肩を回した。

 どこの国か忘れたが、ガムアーティストというのがいるらしい。その国は、路上にくっ付いたガムがあまりに多いため、それを憂えた画家がガムに絵を描こうと思い立ったのがきっかけだったと話していた。

 道路や歩道に張り付いたガムは公共物ではないので罰せられることもない。外国ならではの発想だ。ここでそれをやったら、どうなるかなんて火を見るよりも明かだ。なにしろ葬儀場だ。描くとしたらなにを描くのか。

 お経? 梵字? イエスキリスト像? 花? いずれにしても館長に怒られて首になるのは間違いないだろう・・・

「だから実行せずにいるっていうのか? 弱虫にもほどがあるだろう」

 突如聞こえた声にぎょっとして顔を上げると、這いつくばった彼の少し先、足だけが見える目隠しパネルが貼られたネットフェンスで隔たれた通路を、よく磨かれた黒と茶色の革靴が闊歩している。

 通路は、この葬儀場を包囲する恰好で建つ巨大な生産工場の敷地内にある従業員用通路だ。それが、この葬儀場の駐車場をぐるっと囲む形に敷かれ、そこを通る工場の従業員の足だけが見えるのだった。

「弱虫でもいいさ。最優先は現状維持だ」砂利が敷かれた通路を、ざっざと規則正しい音をたてて近付いてくる二つの革靴。

「なにを眠たいことを言ってるんだよ。やるなら今しかないんだぞ」

「・・・少し、考えさせてくれないか」思案げな靴音が彼の横を通過していく。クラップみたいだと思った。

「だが、あまり時間はないぞ」

「わかっている。パッソア」神妙な声と共に二つのクラップ音は通用口に消えた。

 言葉のイントネーションや話し方は完全に日本語だったが、妙な名前で呼んだなと少し引っ掛かったが、看板屋のトラックが入ってきたので、思考の中断を余儀なくされた。


 不採用は、続くと、自分のこれまでの人生や人格まで否定されているような気になってくるものだ。

 最初のうちは、縁がなかったと割り切れるが、当たり前のように続くと、前向きには考えられなくなってくる。

 ああ、またダメだった。

 ここもダメだった。

 あそこもダメだった。

 またダメだった。

 まただ。

 まただ。

 また、また、また、またまたまたまた・・・・

 この連続でメンタルを抉り取っていく。不採用通知を受ける度、採用連絡がない度に、社会に不要な人間だという烙印を押されるような心持ちがしてくる。そのうち、求人情報を見ることにすら吐気が襲ってくる。

 彼は特にそれが顕著だった。彼の性格に難があるわけでも学歴に問題があるわけでも、パソコンスキルがない訳でもない。原因は、一重に以前勤めていた職場だった。

 彼は、某有名大学卒業後から四十過ぎまで、ある宗教団体で働いていた経歴を持っていた。

 その宗教団体は、大学時代にサークルの先輩に誘われて入会した。サークルは登山部だ。

 聡明で優しく男勝りの憧れていた美人の先輩はどんな要素で構成されているのか興味があったので、つい友人数名でフラフラついていってしまった。そこで、先輩は二世なのだと知る。

 自動的に洗礼を受けさせられ、安っぽい数珠と怒り狂うMマウスのような絵が描かれた薄っぺらい小さな冊子をもらった。

 友人の何人かは逃げ出したが、逃げ出す要素の見当たらなかった彼はなんとなく残った。憧れの先輩が手を握ってくれたからだ。ね、と発した艶やかな唇から、接近してきた長いまつ毛から、彼女が纏う麝香のような匂いから彼の理性は逃げられなかった。その日から、信者となる。

 宗教に偏見を持っていたが、怒れるMマウスへの偶像崇拝以外は、嫌なこともなく、他の信者はなににつけても親切で、思ったよりも居心地は悪くなかった。なにより彼女と親密な時間を過ごせる。全然悪くない。

 彼女は彼以外にも親密な時間を過ごす相手が夜毎に変わる。それを御祓というらしい。それでも若い彼は気にならなかった。なにせ、選り取りみどりだ。若い女性信者は案外たくさんいるし、定期的に夜伽も廻ってくる。

 厄介なのはお布施だ。

 すぐに貯金が底をついた。バイトで繋ぐも親に勘当された身なので生活費に消えてしまう。

 先輩に相談したところ、ここで働ければいいわと幹部に掛け合ってくれた。お陰で協会の雑用係として長いこと勤められたのだ。お布施分を差し引いた僅かばかりの給与をもらえ、信者御用達の格安賃貸アパートも紹介してもらった。至れり尽くせりだ。

 勧誘の電話をかけたお陰で友人はいなくなったが、運命共同体とも言える新たな仲間ができた。

 自分は一生、世間とは無縁のこの場所で仲間と共に生きていくのだろうなと信じていた。あの日までー


「その後、首尾はどうだ?」

 黒い安全靴を履いた灰色の作業着のズボンと、焦げ茶色の革靴が並んで歩いてくる。クラップの如く。

 彼が例の如く四つん這いになって、ガムと格闘していた昼下がりだ。

 気候が穏やかになるに伴い落ち着いたのか、夕方施行だけの暇な日が続いている。けれど、彼の仕事は変わない内容だ。時間に追われなくなったのは気楽だが。靴音と同時にTom Waits「Bone Chain」が彼の脳内に再生され始めた。

 彼の大好きなTom Waitsは、教団に勧誘してきた先輩から教わった。清純そうな顔をして随分と反骨精神の塊みたいな尖った音楽を聞いてるんだなと度肝を抜かれたが、聞き込むうちに自由と渋さとカッコよさを備えた中毒性の高い音楽性にすっかり虜になってしまった。今もそれだけは変わらない。むしろ、彼が唯一聞く音楽かもしれなかった。

「試作品ができ上がった。これまでの性能を飛び越えたかなりパワフルな代物だ」

「いよいよ決意は固まったということだな?」革靴が立ち止まった。それにつられて安全靴も立ち止まる。

「・・・ああ、満了一致だ」そうかと重々しい返答のあと沈黙があった。

 彼の頭上を、コルクを回すような音を出しながら小鳥が飛んでいく。

「I’m Still Here」に切り替わる。Tom Waitsの嗄れた声がよく似合う雲一つない晴天。

 平和な眠気を誘う緩やかな日差しが、ヘラを自動的に動かし続ける彼の背中を温めていく。

「・・・健闘を、祈ろう」

「ああ、リリーフ、パッソア」動き出した二足の靴は通用口に吸い込まれて行った。

 湖に沈んだ城みたいに沈黙を守っている葬儀場。スタッフは昼寝でもしているのか人の気配はない。

 彼は、夢うつつになりながら、白く伸びながらヘラに絡み付いてくるガムと対話する。

 リリーフが追加された。パッソアは先日の男の名前ではないのだな。まあそうだろうな。パッソアは酒の名前だ。大学時代によく飲んでいた可愛いピンク色のジュースみたいなヤツ。一口飲めばご機嫌な南国へ瞬間移動できる。今もまだあるのかな? 教団では、あの手のカラフルな酒は邪道だと言って飲むのを禁止されていた。久しぶりに飲んでみたいな。それにしても、リリーフってなんだ? 救援って意味だ。なんの? パッソアの? 酒の救援? 飲み会? わけがわからない。

『全ての人類の救援を目指す!』

 教団には至る所にそんなスローガンが掲げられていた。だから、あんなバカなことしたのだろうか・・

 一部の幹部が水面下でなにかを企てているという噂は、下っ端の彼の耳にも聞こえてきていた。

 雑用の傍らで同僚がヒソヒソと交わし合う言葉から、その幹部達が大規模なテロ計画を練っていることを知ったのは、事件の一週間前。どうやら電波塔をジャックするつもりらしいのだ。

 こりゃあ大変なことになるな、と一瞬過りはしたものの彼は他人事だった。正直バカげていると思った。

 ジャックした電波を使って教団の教えでも説くのか? それとも、なにかショッキングな映像なんかを流して政府かどこかに欲求でも突きつけるつもりか? いずれにしてもバカげていた。

 大体、ジャックする無線ってなんだ。まさかFMラジオなんかの地味な媒体チャンネルなどではないだろうし、アマチュア無線のチャンネルなんかでもないだろう。

 なんの電波をジャックするのかは知らないが、コンマ一秒すら惜しんで稼働し続けている経済に影響するような重要な電波だとしたら、だいぶハイリスクな行為だ。不良少年が、首から自分の住所指名電話番号、所属している学校名を書いた札をぶら下げながら悪さをするのと同じようにリスキーだ。まだ、テロっぽくどこかを爆発させるなりしたほうがマシだ。バスをハイジャックするとかさ。殺人は、行き過ぎにしても。

 どうせ、そんなことをしたところで、一過性の話題になるだけで、世の中の人間の好奇心はそう簡単には集められない。それどころか、教団に関して嫌悪感が増長するだけだ。そんなこと自分でもわかると彼は首を捻っていたが、昼休憩になったのでそのまま忘れた。

 その日の昼食は、新しく入信した女の子たちと共にするのだ。どんな子がいるのか楽しみにしていた彼は、いそいそと別館に移動した。別館もテロの話題で持ち切りだった。他の信者達も彼と同じ意見を交わしている。

 教団の幹部は、超がつくほど有名な大学や大学院を首席で卒業したエリート揃いだと聞く。まさか、そんな原始的でノーリターンなことを実行するわけがないし、他の幹部が阻止して中止になるだろう。そう、彼らは結論づけた。

 ところが、


「あなた、いつも地面に這いつくばってるね。いったいなにやってんの?」

 故人が出て空になった安置室で掃除機をかけている時、香炉を下げようとして入室してきた館長がふと話しかけてきた。職務質問のような口調に彼は身を強ばらせる。

「あ、はい。その、駐車スペースに張り付いたガムを剥がしています」

「ガム? そんなものが張り付いてるって? ここの駐車場に?」

 館長は線香台の上に乗った香炉を新しいのに換えると散らばった灰を払う。掃除機をかけ終わったばかりの畳に灰が落ちる。もう一度かけなきゃなと彼が視線を落とすと、怪訝な皺を目元に寄せた館長が振り返る。

「ガムが? どうしてよ?」

「さあ・・・どうしてかはわかりませんが。私はてっきり、夜中に若者の屯す場にでもなっているのかと思ってましたが、違うんですかね?」

「知らないよ!だが、これは問題だ!軽犯罪法違反だ!」夜警さんは知らないのかとブツブツ言いながら館長は肩を怒らせて出て行った。後には線香台の前に散乱する灰と、館長の白い足跡が部屋の出口へと続いているだけ。彼は掃除をやり直さなければいけなかった。

 次の日、館長から手渡されたのはコールドスプレーだった。これを使ってさっさと片付けろということらしい。

 コールドスプレーの効果は抜群だった。いつも多くて四つしか剥がせないところを七つはいけるのだ。この調子なら終わりも近いなと彼が額の汗を拭いて顔を上げた時。彼の顔にボトっとなにか温かい物質が降ってきた。鳥糞だと咄嗟に判断した彼は、目を瞑って頭を激しく振る。が、糞は飛び散らず、どろっとした柔らかい感触が彼の眉間から片目にかけてくっ付いているのだ。甘ったるい匂いが鼻をつく。糞ではない。手で拭おうにも状態がわからないので、とりあえず鏡のある更衣室に向かった。

 目を開けて驚いた。大量のガムだ。しかも噛みたてほやほやの。それがねっとりと、彼の顔の三分の一を覆っている。

 なんてことだ!慌てた彼は、顔を洗うためにトイレに駆け込んだ。ところが、扉を開けた途端、誰かが個室に入っているのが見えた。今日、事務所に詰めている男性スタッフは館長だけ。マズい。彼は扉を閉めると、掃除用具をしまってある小部屋へと向かう。そこには、雑巾を洗うための水道があるのだ。とにかく、この状況をなんとか打破しないと。彼は感触がある部分を剥がすようにして水で洗った。なんなんだ? なんなんだ!オレが毎日のようにガムを排除しているから復讐なのか? 誰の? ガム星人? いるわけねーだろ。そもそも、このガムはなにもない空からいきなり降ってきた。ありえない。誰かが打ち上げたのか? 昔、なんかのアニメで見たトリモチ銃。まさか。ダメだダメだダメだ。ここのところ思考がおかしい。得体の知れない化物に食われそうな気分がした。

 ピンク色に染まった夕暮れの空の下、帰路につく。

 昼間のガムがくっついた髪が額を擦っていくのが鬱陶しい。早く帰って洗いたいと苛々しながら大股で歩いていると、車イスが立ち往生しているのに遭遇した。

 車イスに乗った老人は、顔を鬼灯みたいに真っ赤にさせて、うんうん言いながら掴んだタイヤを動かそうとしている。どうやら車輪の間になにかが挟まっているようなのだ。彼は走り寄るとタイヤの内側を覗いた。案の定、なにか白黒のものが挟まっている。手を入れてそれに触れた途端、思わず仰け反ってしまった。恐らく石だろうゴツゴツしているのに、触れた指にベトベトと絡み付いてくるのだ。ガムだ。しかも大量の。昼間、彼の顔を直撃したあのトリモチのようなガムと石のコラボレーションだった。

「なんだこれ。なんだってこんなところに」

 老人は相変わらず真っ赤になってうんうん唸っているだけで、彼の存在に気付いていないようだ。コールドスプレーが欲しかった。代わりになるようなものを探して、辺りを見回すと少し先にあるコンビニが目に入る。彼は飛んでいって氷を買ってきた。それを、車輪の間に入れ込んでガムを冷やした。暫くするとガムがボロボロと崩れ始め、石も取れるようになったのだ。

「たすかったー!たすかったよー!うれしい!うれしいなー!ありがとう!ありがとうございます!」老人が叫び始めた。

「どういたしまして。ボクも今日、コイツにやられた口のもので」あははと声だけで笑った彼は頭を掻いた。

「よくしてもらって、うれしいー!しあわせだー!おれいだ!おれい、おれいをしたいー」老人は後ろにかかった袋に手を突っ込んだ。

「いやいや。いいですよ。持ちつ持たれつ。礼には及びません」

 両手を振って立ち去ろうとすると彼の腕を、老人が待って待ってと思いのほか強い力で掴んできた。

「人生を変革する一本を!」

 差し出されたのは艶消しの黒塗りに、赤を基調に南国ちっくな色彩で描かれた椰子の木が懐かしいパッソアだった。

 タイミングがよ過ぎるにも程があるだろ? 唖然としている彼の手にパッソアを無理に押し付けた老人は、逃げるように走り去った。後にはパッソアを片手に掴んだ彼が呆然と佇んでいたのだった。


「奇襲をかけるって!」

 前方から白く丸っこいフォルムのスニーカーが一対、足取りも軽く近付いてきた。今日も彼はコールドスプレーをお供に、ガム剥がしに精を出している。通販で購入した肘宛てと膝宛てを装着し、腹には拾ったクッションを充てがって寝転んでいる。この姿勢にならないと腰痛に襲われるようになったからだ。

 鈴を振るように華やかなその声は、どんよりとした曇天の下、やけに不自然な響きを伴っている。

「すっごいことになるよ、きっと!めっちゃくちゃになる!」電話しているのか興奮した若い声だ。

「うん。そうそう。打ち上げるのはきっとそこから!一瞬で全世界の話題を攫うよ!明日、来るでしょ? 一緒に歴史的瞬間に立ち会おう!あーワクワクする!超楽しみー!」

 彼は手を止めずに隣の工場はなんの工場だろうかとぼんやり考えた。ストライキでも起こすつもりだろうか?

「合い言葉を忘れないようにね。ガムガム!リリーフ!パッソアー!」きゃはははとリズムをとるような足取りでスニーカーは通用口に消えた。

 リリーフ、パッソアってなんかの合い言葉なのかと彼は欠伸を一つした。そこにガムガムが追加された。ガムガム・・・

 ガム? ガムって、これのことか? このガムなのか? このガムのことなのか?

 一瞬小さな怒りの火が灯って消えた。

 このガムとは関係ないことだ。隣はガム工場で、大方、新作のガムでも開発して、それがパッソア味なんだろう。その新作発表が明日で、なにかを打ち上げるとか派手な演出を企画していると。まあ、そんなとこだろう。楽しそうだな。そういえば、先日老人からもらったのもパッソアだった。まだ開けずに置いてあるが、最近、なにかとパッソアが出てくる。なんなんだ一体。どのみちオレには関係ない・・彼は長い長い溜め息をついて、顔を伏せた。

 先日の奇妙な一件以来、空からガムが降ってくることはなかった。が、小心者の彼は、トリモチのように強い粘着力のある大量のガムが顔面に張り付いてきて、呼吸困難になる悪夢に何度か襲われるようになってしまった。

 恐ろしさに叫びながら飛び起きると朝になっていて、出勤する時間が迫っている。

 誰がやったか知らないけど、冗談じゃねーぞ。真面目に働いているだけの善良な人間に不快な思いをさせやがって。

 スマホを手に取った。

 かつて、教団のテロリスト達がジャックしたのは、当時急速に生活に浸透していた携帯電話の電波だった。

 携帯電話から超低周波と高周波を組み合わせた特殊な周波と電気信号を出して、国民の洗脳を試みたのだ。

 その結果、各地で事故が多発し、意識がなくなったり具合が悪くなったりする者が続出。

 暴動こそ起こらなかったものの、急に暴れたり自制を失う者も少なからず出たらしい。

 警察とメディアに追い詰められた教団は、たちまち解体に追い込まれ、彼のぬるま湯に浸かったような他力本願の生活は崩れ去ったー

 一部の幹部たちが起こしたこととはいえ、全国民から恨まれ非難の目を向けられるようになった信者達に行き場はなく、元信者だということをひた隠しにして存在自体を消して生きていかねばならない現実が待ち受けていた。

 こんな結果になるとわかっていたのなら、愚かな幹部達をなんとしてでも止めたのに。でも、きっと止められなかったけど。過ぎてしまったことをあれこれ言っても無駄なのだが。

 困ったのは、面接に漕ぎ着ける度に教団の意図を聞かれることだった。

 家族が被害を受けた。

 未だ後遺症が残っている。

 どうしてくれるんだ。お前達みたいなのがいなければ。

 私達の人生を返せ。オマエは罪を償うべきだ。どうしてなにもなかった顔をして普通に生きているんだ。

 償え!償え!償え!

 残された人生は変革というよりも、贖罪と呼ぶべきだろう。彼は長い溜め息をついて顔をなで上げる。

「・・・ガムガム、リリーフ、パッソア」クラップのような靴音が蘇る。

 彼の口から零れたのは、工場の従業員が言っていた合い言葉。

 呪文のように何度か唱えてみる。あと数時間後には、自分は這いつくばって潰れて張り付いたガム剥がしに躍起になっているのだろう。やっと手に入れた安定した生活なのだ。手放す気にはならない。だが、クラップは止む気配がない。

『奇襲をかけるって!』

 突如、瑞々しい若い声が彼の脳裏に蘇り、それがスイッチだったかのように「Lie To Me」が流れ始める。

 彼は激しく頭を振って、枕元に飾ってあるパッソアを掴むと、開封して直接口をつけた。酸味と甘味が濃厚に混ざったフルーツジュースのような液体が彼の味覚を刺激した途端に吹き出しそうになる。これ!

 先日空から降ってきたトリモチ状のガムが放っていた甘い匂いが鮮明に香り立ってきた。パッソアだった。

『人生を変革する一本を!』老人の言葉が蘇る。

 混乱する彼をよそに、スマホの通知音が鳴り、ニュース速報が画面に踊る。

 彼はそれを一瞥するなり、顔色を変えてアパートを飛び出した。

 手にはパッソアの瓶を掴んだまま、彼はどこかへ向かって踊るように走っていった。



 ※パッソア

 トロピカル風味の果実、パッションフルーツを使ったリキュール。パッションを「情熱」と解釈する人が多いが、実際はキリスト教でいう「受難」「殉難」という意味である。1610年、スペインの宣教師がパッションフルーツの原産地ブラジルに渡った時、この植物の花を初めて目にして衝撃を受けたという。三叉に別れた雌芯が十字架にかけられたキリストを連想させ、五本ある雄芯はキリストの遺体の五カ所の傷を、花冠の形状はキリストの頭の茨の冠を思わせたのだ。宣教師は思わず跪くと「パッション(殉難)の花」と呼んだそうである。そんな名前の由来を持つパッションフルーツは、ブラジルを始めとして日本でも沖縄や南九州、八丈島などでハウス栽培されるようになった。パッソアはフランスが原産国であるが、ブラジル産のパッションフルーツを主体にレモンジュースを加えて甘くエキゾチックな味に仕上がっている。赤や黄色の南国を思わせる椰子の木がプリントされた艶を抑えたブラックボトルからカラフルなピンク調のリキュールが出てくる意外性と、甘酸っぱく飲み易いフルーティーさから若者を中心に人気を得ているリキュールの一つである。

 パッソア初心者なら、まずはオレンジジュースやパイナップルジュース、グレープフルーツジュース、トニックなどの炭酸で割ってみるのがオススメ。ジュースの延長のようなトロピカルさに気分が上がること間違いなしだ。カクテルとして楽しむならば、ウォッカとスプライトで作る「ピンクパッション」や、ラムとオレンジジュースをシェイクした後にパッソアを沈ませる夕焼けのような色をした「香港サンライズ」。パッソアにブランデーと柘榴シロップとレモンジュース、卵白を加えて一緒にシェイクした「ファンファーレ」や、ホワイトラムとライムジュースを加えてシェイクした「パッションストローク」、ウォッカとグレープフルーツを合わせて最後にブルーキュラソーを垂らした朝焼けのような色合いの「グランブルー」など飲み易く多彩なカクテルの種類があるのも魅力だ。

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