パルフェタムール


 砂を噛むような日々だった。

 年下の彼の一挙一動に振り回され、蓄積されていく不満を吐き出せぬままに反芻し続ける。

 反芻し続けた不満はいつの間には細かく堅い粒となり、なにか言おうと口を開く度にじゃりじゃりと不快な音を立てるのだ。

 そんな音を約三年間、聞き続けた。

 その砂を洗い流そうとしている雨。

 梅雨だった。


 渋谷の駅ビルの窓辺に佇んだ彼女は、雨空を見上げる。

 彼女の耳で揺れるお気に入りのスワロフスキーガラスのような雨の雫は、雑踏から湧き出た憂鬱じみた音を閉じ込めては静かに流していく。

 穏やかな心地だった。

 雨は嫌いじゃない。

 それなのに、彼女は居心地悪そうに耳の横で跳ねる髪を撫で付ける。

 まだ慣れないのだ。ショートのパーマが。

 顎のラインよりも短くしたのは小学生以来だ。よくお似合いですよと美容師は愛想を言ってくれたが、うまく返事ができなかった。鏡の中から見つめ返す自分に、ちんちくりんという言葉が浮かんだから。

 思い切り過ぎたかなと、小さな溜め息をついた彼女は、再び髪を撫で付ける。

 暗転したままのスマホは家に置いてきた。

 今の彼女には必要ない。

 手にした幾つかの紙袋には、ここから踏み出すための仕度品が詰まっていた。

 女が失恋すると髪を切ったり、イメージチェンジしたりして変わるのは、当たり前だと思う。

 大多数の女は、付き合った男の好みになる自分を擬態しているから。というか擬態してしまうから。

 多少無理してでも。

 男が喜ぶし、それでますます好かれる。

 そして、好かれる自分が好きだと思い込めるから。

 女が男に尽くしてしまうのは原始的な本能だと思う。

 男に合わせる自分は今までにない新しい自分だし、男が好いてくれさえすれば、そうあり続けることに意味が生まれる。例え、自分が一人でいる時には見向きもしないような恰好でも、思いつかなかったような行動であっても。男が好いてくれさえするならば、無駄ではないし、滑稽でもない。

 製菓報酬型のインセンティブ。

 結婚まで漕ぎ着ければ更に価値は跳ね上がる。

 女の幸せなんて、結局なんだかんだ言っても男の存在が不可欠。

 女だらけの一生なんてまっぴらご免だ。

 未亡人の祖母や母親、未だ処女の姉妹、未婚の叔母達を思い出すだけで嫌気が指す。

 何かにつけて集まって近況を聞きたがるのは、本当は一人だけ勝手なことをしていないか、出し抜いていないかを互いに確かめ合っているだけ。

 くだらない足の引っ張り合い。

 誰もが孤独死を恐れている。

 ならもっと積極的に婚活でもなんでもすればいいのに。

 そこは捨て切れないくだらないプライドが邪魔をしているらしい。それと、いつか運命の人的な理想。

 年甲斐もなく。

 陰口悪口が好物で見栄はって可愛くもなれない年増女を誰が相手にするのか。

 バカじゃない? でも、

 三十路の私はその仲間入りをしてしまったのだなと一陣の悲しさが滲んだ。

 恋愛や結婚に対しての理想や夢なんて、若い間だけの特権。

 三十路は、世間一般で言わせれば若くない。

 血管が目立ってきた手を翳す。

 私は現実が見えていなかったのかしら?


 歩き出した彼女の、今日の予定は特にない。暇な身だ。

 空っぽになった家に帰るだけの。

 引っ越ししたいと彼女は思う。

 だけどすぐには無理だ。資金がない。貯めないと。そのためにはもっと、もっと仕事を増やさないと。コンパニオンだけじゃ食べていけない。

 体調不良の口実で休業していたアロママッサージの仕事を再開しよう。

 アロマの資格を持っている彼女は、それまで勤めていたエステで身につけた技術を掛け合わせ、女性専門の出張型アロママッサージサービスを行っていた。

 最初は、コンパニオン仲間に薦められて始めたアロママッサージは、仲間内だけの娯楽のようなものだった。けれど、極めるのが好きな彼女の拘りから徐々にレベルが上がり、コンパニオン仲間が触れ込んでくれたお陰で完全紹介制のアロママッサージとして仕事が成り立つようになったのだ。

 そのうちに、金銭的に余裕のある暮らしを実践しているワーキングウーマン層にも口コミで広がり、決して安いマッサージ料でないにも関わらず二年先まで予約は埋まっていた。万全のコンディションを整えて望みたいのと、時間に追われたくないので一日一軒と決めているので余計だった。時折、知り合いに頼まれて短時間だけ出向くこともあったが稀だ。

 コンパニオン業との兼用なのもあり、尚更予約が取りにくくなっているのだった。

 彼女は、コーラルピンクのマニキュアが上がってきた爪が揃った自分の手に再度視線を滑らせる。

 乾燥した手の甲は鳥の足のようだ。

 最近、商売道具の手入れを怠ってしまっている。美容を売りにするのなら、まずは自分からだ。

 溜め息混じりの視線は手の皮膚から筋、指の皺と順に追って爪に辿り着いた。

 爪先を凝視しているうちに、だんだんコーラルピンクが気に入らなくなってきた。

 この色は彼が好きだったものだ。

『そういう派手な仕事してる女ってさ、どうなのって、オレ、ダチに言われちゃったんだよねー』

 紙袋で痺れた指を擦っていると、不意に元カレの言葉が浮かんだ。

 嫌悪感を露にした彼の表情。

 嘘つき。

 嘘つき嘘つき嘘つき。

 言われたんじゃなくて自分がそう思ってたくせに。

 だから、普段の恰好にも「合コン」とか「斬新」とかさり気なく否定的なコメントをする。

 それを聞き流せなかった彼女は、無難なTシャツとジーパンしか選ばなくなった。

 家庭的な女を一生懸命演出して、手料理を含めた家事全般、しっかりやれるんですアピール。

 結果「実家みたいで落ち着く」と言わしめた。

 彼は彼女より八歳ほど年下で、浮かれた大学生に毛が生えたような外見と考えで。だから、年上のしっかり者の姉さん女房気取りだった。

 甘えてくる彼に母性本能をくすぐられるようで頗る気持ちがよかったのも事実だ。

 いつからか、外食での会計は彼女が持つようになって、デート代も彼女が全て捻出した。

 彼が喜んでくれるのが嬉しくて。

 彼の無邪気な笑顔が可愛くて。

『今までこんなに愛されたことない。オレすっごい幸せだよ』と言ってくれることで彼女の自意識は満たされる。

 それまで年上にしか興味がなかった彼女。

 こんなにのめり込むなんて思っていなかっただけに、これはこれでアリかもと、新しい自分を発見したような気分で夢中だった。そうして二十代最後の時期を費やし、三十の誕生日に別れを切り出されたのだ。

『オレ、家庭的な女って、重過ぎて無理』

 プレゼント代わりの言葉をもらった途端、彼女に殺意が芽生えた。同時に、ああこれが世に言う「可愛さ余って憎さ百倍」というやつなのだと瞬時に理解したのだ。

 彼は、彼女が作ったバースデーケーキに筋張った指を突っ込んで味見すると顔をしかめ、そのまま出て行った。

 残された彼女はあまりに滑稽過ぎて涙すら出てこなかった。

 代わりに自分で作った二人分の料理を食べる。

 ワインもラッパ飲みして、初めて挑戦したケーキも食べた。お腹がはち切れそうなほど膨らんだが気にせず黙々と食べ続けた。

 食べ終わると、彼の使っていた歯ブラシや寝間着などを全て集めて透明なゴミ袋に入れ、その上から嘔吐し始めた。そんなに吐き出すものがあったのかと驚くくらいに彼女は実に三日三晩嘔吐しまくった。

 忌々しい物品はゲロで塗れて原型を止めていない。

 それは、彼女の愛情の成れの果てとしてのゲロに塗れた彼への愛情だ。

 胃液しか出てこなくなると、彼女はゴミ袋を縛って下のゴミ置き場に捨てにいき、シャワーを浴びて眠りについた。そして、そのまま三日間ほど眠り続けたのだ。その間のマッサージの仕事は全てキャンセルしてしまった。

 軒下から垂れる雨音の音で彼女が目覚めた時、季節は新緑の季節から梅雨に移り変わっていた。


 彼女は、トイレに籠って、先程買った仕度品に着替えていく。

 彼とお揃いで買ったキャラクターTシャツとジーパンを脱ぎ捨てて、袖と裾の透け感が美しい仕様のプラダの黒ドレスに。擦り切れたスニーカーからダイアナの黒いエナメルパンプスに履き替えた。

 それから手洗い場の鏡に向かって真紅の口紅をひく。

 大丈夫。

 今の私なら、今までの私に負けない。

 服装に不似合いな安っぽいコーラルピンクの爪が並んだ手が気になって仕方なかった。

 私この色、嫌いだわ。

 黒っぽい色が欲しいと思った。黒すぐりみたいに黒い紫や赤。深いワインレッドでもいい。

 どうしてもその色のマニキュアを手に入れて爪に塗らなければいけない気がした。

 彼女は、それまで着ていた服やスニーカーをまとめてゴミ箱に突っ込むと、理想の色をしたマニキュアを求めて、雨の渋谷を彷徨うことに決めたのだ。


 エナメルのパンプスは雨を弾き、真新しいピンヒールは濡れた渋谷に靴音を響かせた。

 ドレスの端に舞う雨滴はまるでラインストーンのように散る。

 今の私、最強。

 女は、身に着けるもので弱くも強くもなれるものだから。

「雨宿り、ですか?」

 マニキュア探しに疲れてカフェで一息ついていると、声をかけられた。

 振り返った彼女は仰天した。

 よく見慣れた無邪気な笑顔がアルマーニのハンカチを差し出している。

 彼なのだ。

 いや、顔の作りは彼にそっくりだが服装や声、物腰が違う。

 サーファーを気取る彼は、アルマーニに興味などない。こんなハイソな恰好はしない。

 それに、男の目尻には烏の足跡。

 彼、では、ない・・・

 別、人?

 彼女は動揺を悟られまいと顔を背けると、人違いですと慌てて手を振った。

 恰好に不似合いなコーラルピンクが視界に入ったのが恥ずかしくなってテーブルの下に引っ込める。弾みに、飲んでいたカフェオレをひっくり返しそうになってしまう。

 相手の男は、彼女の様子を見て戸惑っているようだった。

「ああ、あの、気にしないで。今したいと思ったことをしているだけですから」

 視線を泳がせながら彼女は慌てて言い直す。

 言い直してから嫌になった。

「ああ」なんて間抜けな声と「あの」なんて、気弱な指示語。「ですから」なんて誰に対しての丁寧語?

 私は誰に謙遜しているのだろう。

 けれど、男からほっと胸をなで下ろす気配がした。

「そうですか。なんだかそれって羨ましいですね」

 男の烏の足跡が深くなる。

 次いで筋張った手で照れくさそうに頭をさすり始める。

 照れた時の彼の癖。

 けれど、この人は、カレデハナイ。

 頭をさするのは一般的な男性の癖として多い動作だ。

 彼女は深呼吸を一つしてから首を傾げる。

「自分が今したいと思っていることを、できることが羨ましいです」

 頭から手を離した男は言い直した。

 温かそうな色をした掌が彼女の目に飛び込んでくる。彼と同じような。カレデハナイのに・・

 あなたはいつだって自分の直感に従って、私を振り回しながら好き勝手やってきたじゃないと、不満が口をついて出そうになったのを寸でのところで飲み下した。

 危ない。

 目の前の男は彼ではない他人なのだと言い聞かす。

 カレデハナイカレデハナイ。

 テーブルの下、膝の上で握りしめた拳にぐっと力を籠めた彼女は男を見据えた。

「やるしかないから。私は」

 肩甲骨を寄せて背筋を伸ばした彼女はドレスの裾をひらめかせる。

「羨ましい。ボクは、自分がなにをしたいのかが、まずわからない」困ったような笑みを浮かべる男は、ロレックスがキラリと光る腕をゆっくり組んで首を左右に傾げた。

「それどころか、こうしてあなたに話しかけている自分が何者なのかすらわからないんだ」肩を竦める。

 もしかして、と彼女の期待が頭を擡げるのと同時にそれってと言葉が出る「記憶喪失ってこと?」

「わかりません」更に肩を竦める男。

「病院には?」

「保険証が見当たらないので、行けません」掌を目の前に出してひらひらと振る。

「身分証も?」

「あったらとっくに自分の正体、わかってますよ」

 あはははと明るく笑う男。その崩れた笑顔は、彼じゃない。

 彼の笑顔は無理をしているような強ばった顔。

 まったくの別人だ。

 カレデハナイ。

 それで、嘘臭い。

「じゃあ、あなたはどうしてここにいるの?」

「気付いたら、いました」コーヒー飲んでたら寝ちゃったみたいですね、とカップを口許に持っていく仕草をする。

「そうしたら、あなたが入ってきました。びしょ濡れなのに、困っても慌ててもいなくて。なんかそういうの、いいなって思いました。それで、気付いたら声をかけていました」男の指が、まるで雨だれが落ちるような動きを何度か宙に描く。

 要はナンパってことねと腑に落ちた彼女は、オーケーわかったと掌を振った。

 再出発しようとするこんな日に、寄りにもよって別れた男にそっくりな男と出会うなんて、一体全体この世の中は私になにをさせたいんだかわかりゃしないわ。

 私の気持ちを試そうとでも言うのかしら。私に蟠っている未練を?

 ないわよ。そんなもん。

 全部吐き捨てたんだから。それに、その時の私も、ついさっきゴミ箱に捨ててきた。だから、大丈夫。

 私は自分に遠慮する必要なんてないのよ。この元カレのそっくりさんにも同様に。

 彼女はカフェオレを一口飲むと、立ちっ放しの男に向き合った。

 とりあえず、座ったら? と向かいの席を指差した。

「それで、あなたはどうしたいの?」彼女は、両手を組んで頬杖をついた。

「それがわからないから、もうかれこれ3時間ほどここに逗留しているんです」困った笑顔。カレデハナイ。

「あぁそもそもが、そういう設定だった」堂々巡りになりそうな会話。

「そういう設定です」いかにも困った顔を作って大袈裟に頷く男。変な人。彼女は段々おかしくなってきた。

「その設定では、ここに、このカフェに留まり続けることになっている?」

「うーん・・・そこが問題なんです。ここでいくらコーヒーをお代わりして思い出そうとしても、ちっとも思い出せないので」

 額に皺を寄せながら口許に持っていった男のコーヒーカップは既に空だった。カップを持つ短く切り揃えられた爪が並ぶごつい手には微かに毛が生えている。血管が盛り上がる白くも黒くもない男性らしい大きな手だ。

 ああ、いけないとお代わりを注文しようと上げかけたその手を、それならと彼女は制した。

「出ましょうよ」


 まだ夕刻だというのに街並は沼の中のようにどんより沈み、雨脚は増していた。

 スワロフスーガラスの粒ではない。如雨露から満遍なく注がれるじっとりと浸透していく類いの雨だ。

 一人は雨を堪能し、一人は記憶喪失という設定なのでどちらも傘を持ち合わせていない。

 霞む街灯やネオン灯、店の看板を頼りにして二人は軒下から軒下へと放浪した。

 お互い終始無言だ。

 彼女の頭には、マニキュアの不安が常にあった。

 このわけのわからない状況下で、せめて爪先に強さが欲しい。

 揺らぐことのない確固たる強い色を今すぐに塗りたいのだ。

「あそこへ」

 宵闇が充分深まった頃に男が指差したのは鬱蒼とした木々に埋もれた古びた扉。

 扉だとわかるのはスズラン形の照明が扉を照らしていたからだ。男は躊躇なく扉を引いた。

 呟くような低いウッドベースと洒落たピアノの囁き、それに絡まるしっとりと湿度を纏った女性の歌声に包まれた。さっきまで彷徨っていた憂鬱な世界とは異なった非現実な空間に踏み込んだような錯覚を覚える。

「いらっしゃいませ」

 初老のバーテンダーが男に丁寧なお辞儀をすると、男もお辞儀で返したので彼女も軽い会釈をした。

「よく来るの?」

 カウンターのイスを引いて彼女を座らせ、自分も落ち着くとボトル棚に素早く視線を走らせる男。

 手慣れている動作に彼女が訊ねると、JanisIanですねと両手を組んでトンチンカンな返答をよこした。

 やはり、カレデハナイ。

 まぁいいか。どのみち今日は行き当たりばったりで過ごそうと決めていた。彼女もカラフルな棚に目をやる。

「選択肢が多過ぎることは、自由に見えて、案外不自由なのかもしれないわね」

 五分ほどボトル棚の上を上下左右に彷徨っていた視線を落とした彼女が両手で腕を抱いた。

 男が不思議そうに振り返る。

「たった一杯の飲み物すら決められない」

 それは一種の防衛反応ですね、とカレデハナイ男は笑いながらカウンターに乗った両手を広げると、確認するように何度か開いて閉じた。

「人は未知の事態に遭遇すると、判断ができなくなり原始的な反応しかできなくなってしまう。防衛本能からの即ち思考停止状態です。そうなると、それまで正常に機能していた全てが疑問の塊と化してしまう。どんな完璧な人でも、ね」

「そういうものかしら?」ボクがそれだ、と彼女を振り向く男。どこまでが本当なのかわかったものではない。

「あなたの記憶喪失は、今までの知識や経験ではどうにもできない事態になって、更に選択を迫られたから、その防衛反応として発動した。そういうこと?」

 そうなりますね、と男は面白そうに笑みながら頬杖をついて、空いた指先で空をなぞる。どうやら立方体を描いているらしい。彼女は男の指を目で追いながら、自分の爪が見えないように掌を上にした手をそっと重ねた。

 不敵で柔らかな笑みを貼付けた男の目的や結論を探ること事態が、きっと無駄なのことなのだろう。

「ブルームーンなんかいかがですか?」二度ほど立方体をなぞった指を今度は顎にあてがいながら男が彼女を振り返った。

「ブルームーン?」

「素敵な名前でしょう。カクテルです。そうですね、ちょうど今日の雨みたいな色をしています」

 そう言って、男の手はリズムを取るように宙を滑らかに動く。この人の手は、まるでタクトね、と彼女は思う。骨張ったゴツいタクトを指揮者のように振って、全体の演奏を統率しつつ、次へと繋げる。

「リザーブしているパルフェ・タムールがあるはずです。それを使います」

 男が目眴せすると、心得たバーテンダーが一つのボトルを出してきた。ボトルネックにかかった金色のプレートにはフランス語らしき文字が並んでいる。眉間に皺を寄せた彼女が解読できそうにないことを見て取った男はスラスラと読む上げた。

「日本語にすると、人生を慈しむ一杯を。このリキュールをくれた老人に言われた言葉です」

「人生を、慈しむ・・・?」

「慈しむは愛しむとも言います。自分自身の人生を可愛がって愛する。老人と出くわした当時のボクにとっては、まさに青天の霹靂。衝撃的な言葉でした。自分の人生を愛するなんて、まったく思いも寄らなかったんだ」

「あなたみたいな人でも、そんなことを思うのね。失礼だけど意外だわ」

「心外だな。ボクだって人並みに落ち込みもすれば、憂鬱にもなります。立ち直れないほどの経験も片手じゃ足りません。ごく一般的なタイプの人間ですよ。当時のボクもそうだった。詳しいことは話したくありませんが、要は失恋した後だったものでね。お恥ずかしい話ですが、荒んでました。そんなんで人生を愛せよ? できるわけがないだろうって否定的でしたね」

 男は苦笑いを浮かべながら、大きな溜め息をついた。筋肉質の幅広い背広の肩が上下する。

「極めつけがこのリキュールだ。この、パルフェ・タムールはフランス語で、完璧な愛という意味なんです。愛を喪失したばかりなのに、なにが完璧な愛だと余計に腹が立ちました。完璧な愛でもって人生を慈しめだと? こんな時に、人をコケにするのかって怒鳴ってやりたかった。ですが、なにも知らない老人の親切心ですので、そこは堪えて渋々受け取りましたよ。ですが、その足で真っ直ぐここに来たんです。マスターに事情を話して引き取ってもらいました。自分には不要だと判断したんです。こうして話すのは、恥部を曝しているようで苦痛なのですが、仕方ありません。まだ青かったんです」

「大丈夫よ。どんなに完璧な人でも、失敗した経験なんて片手くらいは持ってるものだもの」

「そう言っていただけると救われます」男は拳を口許にあてて一回咳払いをすると続けた。

「現品を手放しはしたものの、一度起こった出来事が記憶から抹消されることはなく、その言葉はなにかにつけてボクの思考に割り込んできました。人生を慈しむ完璧な愛とはなんなのか。恐らく老人は、全くそんなつもりはなく、偶然これを渡してきたに過ぎなかったのでしょう。ですが、この世に偶然という現象はないと言います。あるのは必然だけ。老人との出会いは、自分にとって大切な気付きのきっかけだったのではないだろうかと考え始めました。一体なんの気付きなのだろうか?と」男はそこで言葉を切ると、チェイサーを一口飲んだ。それから、バーテンダーの方を向いて軽く手を上げた。

「時間がかかってしまい申し訳ない。マッカランのロックを。こちらの女性にはブルームーンをお願いします」

 バーテンダーは承りましたと言ってお辞儀をすると、グラスを並べて準備をし始めた。それを横目に男が再び口を開く。

「ボクたちは往々にして愛と恋とを履き違えている場合が多いのです。恋とは一方的なものなのです。愛の反対は憎しみではなく無関心である、という文句はご存知ですか? マザーテレサの言葉です」

 首を振る彼女を見てか見まいか、男の独白のような饒舌は続く。

「愛とは、自ら愛することで存在し、愛されることとは関係がない次元のものです。愛することで失うものはなにもなく、傷付くこともない。その上、完璧とは一つの欠点なく完全無欠であることだ。完璧な愛とは、一つの疑いや曇りがなく純粋な愛情だということになる。愛する対象は自分の人生ですから、もちろん完璧でないといけません。中途半端な気持ちや無関心では人生を台無しにしてしまう恐れだってあるから」

「それじゃあ、人生は愛するか無関心かの二択ってことになるのね?」

「まぁそういうことです。ですが、よく考えてみれば当たり前のことかもしれません。自分自身の人生を信用して受け入れていなければ、生きることすら辛いでしょう。自分の人生に無関心でいるなんて死んでるのと同じです。愛するなんていうと大袈裟かもしれませんが、今の自分を形作っている過去の愚かだったり失敗したような恥ずかしい自分も引っ括めて自分なのです。それを誰でもなく自分自身で慈しむべきである。まさにボクに足りないことだったのです」

「あなたは今、人生を慈しんでいる?」

「そのつもりです。だが、自分自身を愛するということは、なかなかに手強い」誰かを愛する方がわかりやすく簡単かもしれません、と目尻と額に皺を寄せて、気まずそうにはははと笑う。

「ですが、自分自身を愛することができなければ、他の誰かを愛することはおろか、生きることさえ侭ならなくなってしまうでしょう。死ぬのに理由は要りませんが、生きていくためには理由が要りますからね」

 納得したように何度も頷く男。おしゃべりな上に騒がしく掴み所がないこの男に彼女は不思議な感情を抱いた。

「自分自身を愛する・・・生きていくための理由・・・」

 男と同じように、今までそんなことを考えて生きてきたことはなかった。

 そもそも愛するってなに?

 私は誰かを愛してきたのかしら? 彼の顔が浮かぶが怪しかった。 

 愛とは無償のものでなにも失わないという。けれど、自分は思いっきり傷付き、彼からの見返りの言葉を期待し、挙げ句に失くした。私の彼に対しての気持ちは愛情ではなかったということなのだろうか?

 彼女が悶々と思いを巡らせていると、注文した品が出てきた。

 細身のカクテルグラスで出てきたそれは、青というより紫を濁らせたような液体だ。

 ブルーっていうよりヴァイオレットね、と彼女は思考を中断した。

「紫色なのに、どうしてブルームーンなのかと思いますよね。そう。実際にブルームーンを見たことがない人はそう感じるでしょう。ボクはブルームーンを一度だけ見たことがあります。摩周湖でね。湖面に映る影と共にとても美しかったのを覚えています。その時の景色は青というよりも紫に近い青とでも表現すればいいでしょうか? 似ていますよこの色に。幻想的な色でした。ボクはその時にも今日のように記憶喪失になりましたっけ」

 だいぶ思い出せているみたいでなによりね、と彼女は男の饒舌に耳を傾けながらブルームーンに口をつけた。

 思いのほか甘くなかった。男が例えたように、今日の雨はこんな淡い味がするのかもしれない。

 雨樋を伝うリズミカルな音が微かに聞こえる。

 店内の空調で濡れたドレスはすっかり乾いたので軽い。まるで穴蔵にでもいるような心地いい気分だ。

 彼女はアルコールも手伝い、カレデハナイ男の横顔を眺めながら思いに耽ってぼんやりし始めた。

 完璧な愛、ねぇ・・・

 彼は男友達から紹介してもらったのだ。

 後輩だと会わされた彼は童顔で真っ黒で、暗闇だと同化してしまい歯と白目だけしか見えないような有様だった。垢抜けない仕草が新鮮で可愛く感じたのは、愛ではないと思うが、危なっかしくて頼りなくて守ってあげたくなるようなあの気持ちは母性愛の類いだったような気もする。それは辛うじて愛? でも、

 『筆おろしとして紹介しただけだぜ。それがなに? あいつマジになっちゃったって? うわーそれはグロいな。まさかの、おまえみたいな田舎坊主が好みだったとか。ねーわ』

 聞いてしまった。偶然。彼と彼を紹介した男友達が話しているのを。

 彼は終始、そうなんっすよーサバサバ系かと思ってたんですけど、重くてマジ困ってますわーと苦笑いをしていたっけ・・

 そんなことを聞いてしまったのに、私は彼を受け入れ続けてしまったのだ。あれは、

 あんなものは愛なんかじゃない。私は、常に苦しかった。気を抜いたら、叫び出してしまいそうだった。どろっとした黒いものに浸食されていく感覚。私は私自身をも傷つけていたのだ。疎かだった。私はなにに浮かれていたのだろう。

 バカみたいだ。本当に・・・

 バーテンダーと話し込んでいたカレデハナイ男が、咄嗟に彼女を振り向いた。

「いけないいけない。雨漏りだ」そう言って彼女にアルマーニのハンカチを差し出した。

 彼女の頬を水滴が伝っている。

 頬杖をついた手にぽつぽつっと落ちたことに気付いた彼女は、慌てて立ち上がった。

 一刻も早く濃い色のマニキュアを探さなきゃ。

 カレデハナイけれど彼のような顔をしたこの男といると私は私に負けてしまう。

「ゆっくりでもいいじゃないですか!」

 怒鳴るような調子のカレデハナイ男の言葉が、扉に手をかけようとしていたコーラルピンクの爪が並んだ彼女の手を止めた。

 彼女の頬には雨滴が流れ続けている。

 悲しい雫がドレスに散っていく。

 彼女の視界でぼやけていくコーラルピンク。

「恐れることはありません。焦らなくても大丈夫です。徐々にでいい。徐々に人生を慈しめるようになればいいんですよ。大丈夫。誰もあなたを脅かしたりしませんから」

 怖々振りまいた彼女の前で真剣な顔をしていたのは、彼とは似ても似つかないカレデハナイ男だった。

「それでも傷が疼くなら、その傷の存在自体を喪失しちまえばいいんですよ。ボクみたいに」

 そう言って掌を顔の前で戯けて振ってみせる男に、彼女は確かにどこかで会ったような気がしたが、思い出せなかった。






 ※パルフェ・タムール(クレーム・ド・ヴァイオレット、クレーム・イヴェット)

 色彩の艶容さとニオイスミレの甘い香りが人気の「完全な愛」と名付けられたこのリキュールは、1760年フランスのロレーヌ地方において、ニオイスミレの香りを溶かし込んだ酒を作った酒商が媚薬的効果を全面に出して売り出したのが始まりと言われる。発売当初は、赤や黄色などカラフルな展開だったが、セクシーな紫だけが広く受け入れられ残る形になったようだ。十九世紀に入ると知的階級の間で、新たにニオイスミレの香りと色を強調したクレーム・ド・ヴァイオレットが生まれ、1890年にはアメリカでクレーム・イヴェットというイタリアのパルマ産ニオイスミレを使用した紫色のリキュールが生まれた。いずれも「ニオイスミレの色と香りを写し取った酒」と称され同一のものと見なされる。世界に三百種ほど存在するスミレの中でもリキュールに使われるニオイスミレ(スイート・バイオレット)は、西洋産の園芸用に使われる種である。やや甘味の強いリキュールだ。

 代表的なカクテルは「ブルームーン」である。ドライ・ジンとレモンジュースを加えてシェイクしたこのカクテルはスッキリとした飲み口も去ることながら、その淡い色合いも楽しめる。他にも、ジンをウォッカに変えた「アズール」や、ジンにブランデーとシャルトリューズ・ジョーヌとペルノを加えた「パッセンジャーリスト」などの紫を基調にしたカクテルがある。紫の色合いをストレートに楽しみたいなら「バイオレット・フィズ」のように炭酸やトニックで割りレモンジュースとシロップを混ぜたものがオススメだ。

 「ブルームーン」とは「青く見える月」という意味だが「月に巡ってくる二度目の月」でもある。青く見えるかどうかはその時々の空気の不純物などにもよるが、見れればラッキーだ。

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