シャンボール
頭の中で「おまえなんか死ね。死んじまえ」って声が、するの。
目を開けると、見慣れた白い天井が、見えた。
繊細な模様をしたレースのカーテンを揺らしているのは、朝の風。
熱帯夜の底でくだを巻いている悪夢でぐっしょりと濡れた額を軽やかに、撫でていく。
瞼の裏にこびり付く残像。何度でもフラッシュバックしてくる鮮血が飛び散った様。
吐気が込み上げるほど強い胸の動悸は、続く。
意識を現実に引き戻そうとするように、油蝉が間近で鳴き出した。
求愛という唯一つの目的が込められた生命の声が私の鼓膜を占拠する。力強いな。必死だな。ゆっくりと眼前に手を翳した。それが合図だったかのように、蝉はばっと逃げていく。指を何度か開閉して目元を歪める。
生身の肉。と、関節。と、神経。と、細胞色々。私はここに、まだ生きている。ようだ。
強い日差しが、部屋の明度を上げていく。また、新しい一日が始まろうとして、いる。
「この資料、会議用に五十部ほどコピーしといて」
課長がデスク越しに滑らせてきた資料を手に取ると、昨日頼んだ打ち込みは終わってるかと聞かれた。
「八割型終わっているので、本日中には納品できます」
「そう。いつも仕事が早くて助かるわーどっかの誰かさんとちがってさあー」
あご髭を撫でる課長が見つめる先は、私の背後で資料整理に奮闘している男性社員、通称トンボさん。
分厚い丸レンズが昆虫のトンボに似ていることから、そう呼ばれている。
仕事が遅くミスも多いトンボさんは課長から目の敵にされていた。
「おいおい、それ、一週間前に頼んだ資料整理かあ? まだ終わってねーのかよ。おまえ一人の遅れのせいで、会社全体の業務効率が下がってるって自覚は、どーやら、ねーみたいだなあー」紅蓮の炎を目に宿した課長がトンボさんを睨みつける。
蛇に睨まれた蛙のごとく、トンボさんは「はぃいぃぃー・・・も、申し訳、あ あり、ありありありありありありま せんー・・・」と、畏縮してイスから転げ落ちた。その様子があまりに滑稽で、固唾を飲んで見守っていた従業員からどっと笑いが起こる。おまえいつから蟻になったんだよ、と課長は笑いを噛み殺しながら近づいて、トンボさんを雑に起こした。
目を白黒させながら土下座でありあり謝り続けるトンボさんは、なんだか憎めない。多分、全員そう思っている。
なんだかんだ言われても、愛されてんじゃんと冷ややかな視線を向けていることに気付いた私は自分を嫌悪した。くだらない。
私が一番、くだらない。
そんなトンボさんから、声をかけられた。昼休みのことだ。
私はコンビ二で買った、おいしくもないサンドイッチをちょっとずつ齧っているところだった。
「あの、ありがとうございます。その、この間、あの、手伝っていただいて・・・」
「いえ、礼には及びません。ちょうど暇だっただけなので」気にしないでと手を振って追い払おうとした。
「あの、でも、ボクは助かりました。その、あの、よかったら、その、今度、あの、ご飯でもー」彼の言葉を皆まで言わせず、私は冷酷にいいえと遮り、結構ですと席を立った。関わってこないで。
唖然と立ち尽くすトンボさんを睨みつけて、自席に戻った。さすがに言い方がキツかったかもしれないと自責の念に駆られたが、戻ってきたトンボさんのオドオドしているコミカルな様子が目に入ると霧散した。私に、関わってくんな。
週末の退勤後、ビルから一歩踏み出した途端、クーラーで冷えた体が解れていくのを感じる。
昼間の熱さで、鋭角なラインを溶かされてどろんとしたオフィス街を横切り、帰路につく。
昇っていく熱気とは裏腹に地表を這い回っているどんよりとしたものは憂鬱。
きっと今夜もあの悪夢をみるのだ。でも、それが、自分勝手だった私の業だから。
ー家族なんだから
鉛を飲み込んだように胸が息苦しくなる。
まだ夜じゃない。まだ早いよ。
潰れた蜜柑のような夕陽を眺めながら、徐々に濃くなっていく影から逃げるようにして歩を速める。
業だと認めた振りをしているだけで、全然受け入れられていない愚かな自分。
そうまでして生きたいのか?
おまえなんか死ね。死んじまえ。
頭の中に響き渡る声。
あぁ苦しいなぁ。
私は建物と建物の隙間に入り込む。
狭くて狭くて動けない隙間に引っ掛かっていると不思議と落ち着くのだ。まるで、強い力で抱きしめられているみたいに。
私が人との触れ合いを怖いと感じたのは中学生の時。
片思いしていた憧れの先輩の手に触れた瞬間があった。
触れた指先から鳥肌が全身に広がって、込み上げてきた吐気を張り過ごした後、わけのわからない恐怖が襲ってきたのだ。
ガタガタ震える私を見て、先輩は侮辱されたと思ったらしく、それ以来イジメの標的となり、私の接触恐怖症は悪化の一路を辿った。
社会人になってからも、誰かと付き合う度に手も握れずキスもできないジレンマに苦しみ、理解されないままに別れに至る。それを何度か繰り返しながら二十代を半分過ぎて、やっと人との付き合いを諦めた。
けれど、寂しくて、時々、なにかに包まれたくなるのだ。それも息が止まるほど強く。一種の自傷行為に近いのかもしれない。
この隙間を見つけたのは半年前。
初雪が降った日。
はしゃいで遠回りをして帰った。どこまでも続く白一色の景色の中で、一際目立つ黒い隙間を見つけた時、なぜか挟まってみたいと思ったのだ。でも、コートが汚れるし、変態ちっくな考えだと躊躇したが、結局実行した。そうせざる負えなかったから。
雪は振り込んでこなかった。自分の体温だからかほんのり温かさを感じた。
締め付けられるような感覚。快感。安心。それから、定期的に通っている。自宅からも会社からも適度に離れている上に、人の目につきにくい場所なので使い勝手も抜群だった。
隙間に挟まりながら目を閉じていると、町の喧騒は遠ざかり、闇が深まっていく気配や葉擦れの音、烏の声が明瞭に感じることができる。そんな様々な現象と一体化になっているような気さえする。
瞑想に耽っている私の耳を不快に脅かす音がし始めたのは一時間ほど経ってからだ。
靴底が砂利を踏む不規則な音。近付いているのか遠退いているのか不明な雑音だ。
目を開けると、少し先に誰かがしゃがんでいるシルエットが確認できた。
暗くて性別までは判別できないが、どうやら野良猫と遊んでいるようにも威嚇されているようにも見える。その人影が、ふっとこちらに顔を向けた。ようだ。
暫しの沈黙があった。
「・・・あの、どうしたん、ですか?」
覚えのある声。トンボさんだった。
またか。
私は体をねじって逃げ出そうとしたが、ぴっちりと嵌っているので簡単には抜けない。
沈黙が再来する。
「・・・あの、もしかして、それ・・・嵌っちゃった、んですか?」
笑われる。バカにされる。咄嗟にそう恐怖した私は、とにかく逃げ出そうとして体を引き抜く。
剥き出しの両手両足がコンクリートに擦れて擦傷がつき血が滲んできた。
「あ、あ、あの、待ってください。そんな無理にやったら、痛いだけだ。その、落ち着いて」
トンボさんが、慌てて私を押さえようとして手を伸ばしてきた。
私はその手をかいくぐりながら、余計なお世話と吐き捨てる。が、申し訳ありませんと何度も謝りながらも、トンボさんは手を引っ込めようとはしない。私の手を掴もうとした彼の手を引っ掻いた私は後退しようとする。が、トンボさんは私の鞄を掴んで引いてくる。財布も入っている鞄を引っ手繰られるかもしれないと驚いた私が引き寄せる。そうして、すったもんだの末に私は隙間の外に出た。出された。私は前のめりに崩れ、トンボさんは尻餅をついた。それから、お互い唖然として言葉もないまま何分かが流れた。
最初に言葉を発したのはトンボさんだ。
礼の如く、あので始まって、申し訳と続いたので、もうそれいいからと私が遮った。
彼は、すみませんと蚊の鳴くように言うと俯いた。まるで捨てられた子犬だ。
「とりあえず、立ってください」
私の言葉に、ははははいと敬礼するように起立するトンボさん。
「ご飯、奢ってくれるんでしょ?」はははははいとお辞儀する。
その後、焼き鳥屋のカウンターに陣取った私達。けれど、生が運ばれてきても、会話らしきものはなかった。
変な人。と私はトンボさんに対して思っていた。
共通の話題は仕事だけで、その仕事にしたってトンボさんにしてみれば、あまり楽しい話題ではないだろう。話し好きってわけではないし、かといって聞き上手でもない。どうして私をご飯に誘ったのだろう?
変と言えばこの居酒屋もだ。焼き鳥を焼く煙がもうもうと立ち籠めているくせに、やけに陽気なPOPがかかっている。手拍子やギロの音が入っているテンポのいい底抜けに明るい曲を歌うカラッと乾いた女性の声。どうみても不一致だ。聞いているうちにアコースティックギターが入ってきたが、相変わらずポジティブな姿勢は崩れない。個人的には絶対に選ばない選びたくない曲調。それなのに、トンボさんは知っている曲なのか微かに膝でリズムを取っているのだ。どこまでも失礼だが、私にはそれも又意外だった。彼は根暗だとばかり思っていたから。
「その、ここは、ネギマがおいしいんです。それで、ぼくは、その、よく来るんです」ご機嫌なのかワントーン高い声だ。
「この音楽って・・」上を指して尋ねた。
「あ、これは、その、Sheryl Crowですね。あの、ぼく、その、割と好きなんです」照れたように相貌を崩すトンボさん。
「意外ですね」
「え、あの、い、意外ですか?」なにを思ったのかガックリと肩を落としている。
「私、焼き鳥に美味しいマズいってわかりません」焼いて塩とかタレつけるだけでしょと言うと、トンボさんは、そのそれがと首を振る。分厚いメガネの奥、目の周りが赤い。この人、お酒弱いのかも。
「その、全然違うんです。あの、食べたら、きっとわかります。たぶん」
ご自慢のネギマが運ばれてきた。一口食べる。おいしい。でも、特別や一番かはわからない。そもそも私はそんなに焼き鳥を食べないから。そんな私の横で、トンボさんは幸せそうな、ほんとうに幸せそうな顔をして、ネギマを頬張っている。無防備で無邪気で、心から寛いでいるいい顔だなぁと私は目を奪われてしまった。アルバムをかけているのか、同じ声、同じ曲調の音楽は続いている。
「・・・あの、いつも、その、なにに怒っているんですか?」
トンボさんが切り出してきたのは、生から甘いカクテルに切り替えたタイミングでだった。
「怒ってる? 私がですか?」あの、はいと比較的ハッキリと返答してくるトンボさん。
「そんなつもりはありませんが、そう見えますか?」
「その・・はい。あの、ボクがなにか、その、怒らせているのかと」
気付かれていたのだ。正直に言うかどうか少し迷った私は、ちがうよとシラを切ることにした。
「自意識過剰」悪い意味でと付け足しながら、運ばれてきたカクテルに口をつけると、突如襲撃されたベリーの濃厚な風味にうわあと声が漏れた。どうしましたかと慌てて首を傾げるトンボさんを無視して彼の前にあるメニューに手を伸ばす。
「すごいコレ。すごいベリー。おいしい。すごく。カシスだと思いましたけど、これなんでしょう? どれ頼みましたっけ?」興奮する私を見開いた目で見つめながら、これじゃないですかとトンボさんはカクテルの一つを指差した。
超数量限定カクテル『シャンボール・フィズ』偶然手に入ったので早い者勝ちと追記があった。
「へえぇぇーシャンボールって世界遺産のお城ですよね。すごい名前。だから、上品な味なんですねぇ」
ふと気付くと、トンボさんが微笑みながら私を眺めていた。そこで始めて、自分がはしゃぎ過ぎたことを知る。相変わらずの調子を崩さない女性の声がピアノに合わせてバラードっぽい曲を歌い出した。どこまでもストレートで、わかりやすくて、疾しいことなんかなくて、誰にでも好かれるそんな空気を放つ音楽。それが、私に誘いかけてくるようだ。怖がらないで。あなたも普通になっていいのよ。一気に酔いが吹き飛び、恥ずかしくなって視線を足下に落とす。そんな私の鼓膜をよかったですと明るい声がノックした。
「その・・・喜んでもらえて」
別にと口許に出掛かった言葉を私は慌てて飲み込む。・・・なんで?
理解不能の自分の行動が怖くなった私は、唐突に立ち上がって店から飛び出した。
やめてやめてやめて。
そんな目で見ないで。私を見ないで。関わらないで。放っといて。放っといて。私なんて死ね死ね死ね。
死ねばいいのに!
走りながら叫んだ。叫んで叫んで叫びまくった。そうすると、喉に痞えていた嫌ななにかが粉々になって消化されていくようだった。頭上には満月がかかる。
新月の夜だ。
夢に彷徨う。
どす黒くて息苦しい。いつもの悪夢。ちがうか。私がうっかり忘れないための自主規制の夢か。
車が高速で行き交う関越道。
のっぺらぼうが運転する無機質な車達は道路の一カ所を避けるように走行していく。
フロントガラスの粉々になった破片。足で踏み潰した空き缶みたいにぺしゃんこになった白い軽。それを包囲する発煙筒の赤い光がやけに眩しい。
散乱する瓦礫にそっと添えられるように落ちている、柔らかい輪郭の黄色い欠片。
卵焼きの欠片。
よく見ると、あちこちで踏み潰されて黒い道路に黄色い滲みを作っている。卵焼き。母がこしらえた私の好物の甘めの卵焼きの残骸。
妙な角度にへし折られた重箱には、卵焼きの代わりに鮮血が溜まっている。
その先、車体の、運転席だった部分・・・見たくない。
私は目を閉じた。けれど、映像は再生され続ける。
引き千切れた肉片。
母の、母だった一部分。母として生きていた体の一部分。・・・やめて。
血塗れになった桜色のカーディガン。母の愛用していたカーディガンだ。・・・やめて。
機械的に救出作業と言う名の回収作業を行っている顔のない作業員。
母を構成していた要素が、見慣れた部分が黒いビニール袋にテキパキと詰められていく。・・・やめて!
私は叫んで駆け寄ろうとする。けれど、足が動かない。いくら手を伸ばしても届かない。
鮮血が重箱から溢れ出してくる。血は、私の心に溜まった汚れのようなコールタールを溶かし混みながら赤黒く迫ってくる。
私は泣きながら懺悔する。
お母さん!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!
週明け、トンボさんは時々物言いたげな視線を投げて寄越すだけで、話しかけてこようとはしなかった。
好都合だ。私はこれ見よがしに、いつもより冷たい言葉で返答をする。
自分が人として醜いということは充分わかっている。
わかっていても尚遠ざけたい。傷つけてもいいから遠ざけたい。誰とも関わりたくない。
「おまえは締め切りって言葉を知らないのかー? おーい、どーしたー? 起きてるかー?」
課長に顔を覗き込まれたトンボさんは、小動物のようにびくっと体を強ばらせた。寝ていたわけではなさそうだ。
「あ、あ、あの、申し訳、ありありあり・・・」
もう蟻はいいっつーのと課長に小突かれたトンボさんの顔は真っ青だ。具合が悪いのだろうか。
心配が過るが揉み消した。そんなことどうでもいいっつの。
淡々と仕事をこなし、あっという間に一週間が過ぎてまた週末を迎えた。
私は新たな隙間を探さなければ、いけなかった。
せっかく気に入ってたのに、あの男に見つかったばかりにもう二度とあの隙間は使えない。舌打ちをしながら町を徘徊する。
けれど、なかなかいいサイズの隙間は見つからない。
夜が深まっていく。だだっ広い荒野を一人で彷徨っているような不安に襲われる。
私は自分の人生なんて考えられない。これから先、死ぬまでずっと辛い時間の中で生きていかねばいけないのだろう。
「おまえなんて死ね。死んじまえ」声が木霊してくる。
無気力になった体と思考を無理矢理動かして必死に考えた。
今夜くらいあそこを使っても、あいつは来ないかもしれない。そうだ。こんな時間じゃ、さすがのアイツもうろついていない。そう。きっと大丈夫。私はお気に入りだった隙間がある方角に足を進めた。
ところが、半月の光に照らされた隙間にはメガネをかけた男が挟まっていた。
「なに、やってるんですか?」
私が聞くと、トンボさんはバツの悪い顔をしたあと、ちょっと微笑んだ。
「あの、挟まってみたら、その、居心地がよくて、つい」
ズレたメガネを押上げる手には擦傷。
私よりはるかに横幅がある彼は挟まるために試行錯誤をしたのだろう。糸が切れた操り人形のような恰好になっている。
私もこんななのだろうか? 想像するとおかしくなった。
バカみたいと声を出して笑い出した私を、トンボさんは呆気に取られて眺めていた。
救出ーといったほうが適切だろう、されたトンボさんは、擦り切れたスーツを隠すように撫でながら、照れくさそうに笑うと、球形のガラス瓶を取り出した。
ゴールドの帯とキャップが鈍く光って、中に入った濃い色をした液体が月に照らされて気持ち良さそうにちゃぷんと揺れた。
「あの、これ。その、よかったら、あの、飲みませんか?」そう言って隙間の奥からソーダのペットボトルが入ったビニール袋を引き摺り出してきた。中にはプラスチックコップも入っている。
注がれた液体を口に付けると、焼き鳥屋で飲んだ『シャンボールフィズ』だとわかった。最近不眠が続いていた私の脳を華やかなオーケストラが取り囲んだと思う間にドレープが美しいドレスを着せられるような優雅な心地がゆっくりと染み込んでいく。
「これは、その、おじいさんにもらいました」トンボさんがオドオドと説明を始めた。
「あの、車イスに乗ったおじいさんが、その、おっかない人の足を踏んでしまったみたいで絡まれてたんです。それで、見兼ねて、つい、間に入りました。あの、もちろん、その、コテンパンにやられちゃいましたけど、でも、おじいさんがすごく感謝してくれて。その、お礼にって、あの、これをもらった次第なんです。あの、嘘じゃありません」
トンボさんは目の脇にまだ残っている青あざをきまり悪そうに撫でた。そう言われてみれば、彼の顔の彼方此方に傷がある。
「それで、最近、その、元気がなさそうだったので。あの、差し出がましいとは思ったのですが、その、」
確かにここ最近の私は不眠に手伝って、調子が悪かった。
飲用している抗うつ剤を服用すると、頭がぼんやりしてすぐ眠りそうになってしまうので、飲めずにいる。あの夢を見るのがしんどいのだ。しんどくてしんどくて、たまらない。だから。
それでも、仕事は休まずに行っている。デスクワークは集中していれば時間が過ぎるのが早いから睡眠防止にもなるし、暇なよりはいい。濃くなった隈を隠すためにコンシーラーやファンデーションを厚塗りし、ぶれない冷静キャラでいれば、誰にもバレることはないと思っていたのに。どうして寄りにもよってこんなヤツに。
「ご心配なく。睡眠不足なだけですから」
睡眠不足とか言わなくてもよかったなと、直後に後悔した。そんな素直に言うだけ無駄だ。ガッカリするだけ。
ところが、彼がしまったという顔をして、頭を抱えた。
「そう、なんですか・・・眠れないって、それ、辛いですね。あの、眠れない理由を、聞いてもいいですか?」
「答えなければいけませんか?」
「え、いえ、あの、無理には、その、なにかボクが力になれることが、その、あるかもしれないと、」
「ありませんよ。きっと」
私の答えに、彼は、そそそそそうですよねと戦慄きながらガックリと俯いた。なんだか苛めたような気分だ。
「あの、余計なこと言って、あの、ほんとうに、その、すみません。ただ、ボクも以前、その、不眠症だった時があったものですから、それで、もしかしたら、少しでも、あの、なにかお役に立てないかと・・・」
「自分の経験は自分オリジナルのものです。それは、一つの経験としての実証例としては役に立ちますが、そのまま他人には適用できません。参考にする程度の実用性しかありません。なぜなら、人はそれぞれ違うから。なので、あなたの経験は私にはなんの役にも立ちませんし、参考にもならないと思います」
トンボさんは、そそそそそそそそそうですよねと真っ青になって申し訳ございませんと頭を垂れてしまった。
「なので、心配ご無用です。ご馳走様でした」空になったカップを置くと、私は立ち上がって歩き出そうとした。
「あの、でも、ボク、その、思うのです。その、力にはなれなくとも、その、苦しみを共有することは、あの、できるのではないでしょうか?」トンボさんは、俯いたまま声を張り上げた。思いのほか力強い声だった。
「共有? どうして私が、あなたと苦しみを共有しなければいけないんですか?」嘲るような笑いが滲む。
「なにか、勘違いしてません? あなたと共有すれば、眠れない苦しみが軽くなるんですか? 悪夢をみなくなるんですか? 声が聞こえなくなるんですか?」バカらしいと吐き捨てた。
「・・・悪夢をみるんですか」トンボさんが恐る恐る顔を上げると、それに声も聞いているんですかと続けた。言い過ぎたと思ったが遅い。しらばっくれるのも面倒臭くなった私は、そうですけど? と自棄になった。
「あの、それは、自殺をほのめかすような、その、例えば、死ねとかって声じゃないですか?」
「だったら、なんだって言うんですか?」私に睨みつけられたトンボさんは、いえそのと縮こまる。
「その、なんだというのではないのですが・・・あの、その、もう一杯だけ、付き合ってもらえませんか?」
「結構です。帰ります」踵を返した私をトンボさんは引き止めなかったが、代わりにポツリと零した。
「その、おじいさんが言っていました。人生を許せる一本を、と」
振り返った私が見たものは、侘し気な眼差しを月に向ける猫背のトンボさんの姿だった。
車が高速で行き交う曇天の下に伸びる陰気な関越道。
いつもの夢だ。
私は、うっかり眠ってしまったようだ。
きっと昨夜、シャンボールを飲んだからだ。それとも大量に服用した薬のせいかな。どっちでもいいや。
私は、陸橋から関越道路を見下ろしている。
道路の一カ所がぼやけ始める。
あそこは、事故現場だ。母の運転する軽が事故った現場。そう。青いビニールに囲まれた母の軽。
発煙筒の赤い光が見える。
卵焼きの欠片が転がっていて。
私と結婚のことで口喧嘩した母が、仲直りをしようとして作った私の好物。衝突の際に散乱し、無惨に踏み潰された母の愛情。私への愛情が籠った黄色い滲み。その滲みが道路に水玉模様を作っていく。
鮮血に染まっていく道路。手招きするように蠢いている。
・・・ごめんなさい、お母さん。
私と喧嘩なんてしなければ、最近目に自信がないと言って疎遠になっていた車を運転して、少しでも早く着くためにと関越に乗る必要なんてなかった。私のせいだ。
私のせいで、お母さんは。お母さんじゃなくなってしまったんだ。
私のせいだ。私なんて死ねばいい。
私が、お母さんの代わりに死ねばよかったのに。私だけ生き残っていて。こんなどうしようもない私ばかり、人間の体を保っていて。
ごめんなさい、お母さん。
私なんて死ねばいい。
ごめんなさい。
死にたい。死にたい。私なんて死ねばいいのに。
・・・ごめんなさい。
スカートがふわっと広がり、体が宙に舞う。
「だだだだっだだっだっだっだっだだめだめだあぁあああぁぁーーー!」
大声が耳元で鳴り響いて、私の体は陸橋の手摺に叩き付けられた。
誰かが泣きじゃくりながら私を強く抱え込んでいる。そのあまりに強い力は、まるで隙間に挟まっている時のような感覚を私に思い起こさせた。
目を閉じた私の耳に、先日試し聞きしたSheryl Clowの「A Change Would Do You Good」に酷似したリズムが聞こえてきた。
※シャンボール
丸いボディに巻かれたゴールドの飾り帯と、王冠をモチーフにしたキャップ。そんな豪華な見た目に引けを取らない華やかな起源を持つベリー系リキュールである。十七世紀のフランス。ロワール地方にあるユネスコの世界遺産にもなっている名城の一つ「フランスの庭」と呼ばれるシャンボール城に宮廷をおいていたルイ十四世が、集まる貴族達にラズベリーなどを漬け込んだ自家製果実酒を振る舞っていたという逸話がシャンボールリキュールの起源と言われる。ブラックベリーとラズベリーの二種類のベリーと高級酒でもあるコニャック(ブランデー)をベースに、ハーブやスパイス、蜂蜜などを加えたラズベリー風味が支配的な果実の凝縮感溢れる濃厚かつ深みのある風味と甘味を持つ品格あるリキュール。
そんな格調高いシャンボールの飲み方は、シャンパンと合わせたルビーのような華やかな輝きが特徴の「シャンボール・ロワイヤル」を始め、炭酸水と割る「シャンボール・フィズ」やクランベリージュースを加えた「シャンボール・クランベリー」などお酒に弱い人でも気軽に楽しめる。いずれも美しいルビーのような赤い色が際立つカクテルだ。アイスにかければ、品のいい乙なデザートに早変わり。コース料理の〆も飾れるだろう。
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