サザン・カンフォート

 一度も止まらずに、幾つかの青信号を通過した後に、今日が祝日だという事実に気付いた。

 平日ならとっくに車が犇めいているはずの道路。時間帯。なのに、車の影はない。祝日かあと彼は思った。めでたいことなんてあったけかあ? とも。

 ハンドルを握る手に若干の苛立ちが滲む。朝日に照らされた早朝の道路はどこまでも真っ直ぐだ。口許の髭を撫でた手首から香水の残り香がする。

 ついさっきまで腕枕してやっていた年若い恋人がつけていたジルスチュアート。男受けを狙った清楚な香りを纏うケツのような乳をした女。昨夜の濃厚な営みが思い出され目尻が下がる。

「もう、帰んの?」それが先に口から出て、次いで長いまつ毛に縁取られた目を開けた恋人。

「なにか用事でもあるの? なければ一緒に過ごそうよー」アヒル口を尖らせて甘えてくる。いいんだ。別に。そういう女は嫌いじゃない。けど、

「今日、通し稽古、あるからさ」ふーん・・・と猜疑の眼差しを振り切って、彼は恋人の部屋を飛び出した。

 見ると、赤信号だ。誰かが歩行者横断用押しボタンを押したのだ。

 仕方なく止まると、髪の短い女が面倒臭そうに横切っていく。女は通過する刹那、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた彼に一瞥、いや睨め付けた。ような気がする。

 彼は、舌打ち後にバカにしたように間延びした溜め息をつくとアクセルを踏んだ。

 自宅のマンションに到着した時にも、先程の白目が勝った女の視線が突き刺さって抜けない。彼は再び舌打ちをする。

 見ず知らずの女の目は離婚した妻に似ていた。


「カットカット!」

 苛立ちが手に取るようにわかる鋭い声が飛んで来て、彼は思わず身を強ばらせた。

「ダメダメダメダメ!なってねーんだよなぁーそうじゃねーんだよ!」

 壊れたように首を横に振るメガホンを握った中年男。この映画の監督だ。その何度も繰り返されてきた鬼気迫る光景に、彼は怖々体を起こした。

「たーだ台詞を言やぁいいってもんじゃねーんだよなあぁぁーお遊戯会じゃねーんだからさぁー昨日今日始めた初心者じゃねーんだからさぁー呼吸から変えんだよ!わっかんねーかなぁー!」監督は苛々と頭を搔き毟る。

 今、最も注目されている映画監督X。

 斬新かつ新鮮な視線で捉えられた映像と、今までにない展開をするストーリーが日本のみならず世界からも高い評価を得ている。彼が作る映画は、一度見ただけで引きずり込まれる中毒性の高い世界観が特徴だ。

 Xの映画に出演した俳優達が、以降、実力派俳優として数々の賞を総舐めにしたことが話題となり、彼の作品に出ればレッドカーペットが約束されているというジンクスまで生まれていた。

 恐らく、気性の荒いXにスパルタで叩き込まれるためであろうが、制作発表があるたびに各芸能事務所がどうにか自分のところの俳優を使って欲しいとあの手この手でXにごまを擦ると聞いている。だが、職人気質のひねくれ者として有名なXは、それらを全て撥ね除け、自分が最良と思った人選をする。

 彼は、そんな誰もが憧れるXの新作映画出演という、まさかの大役を射止めたのだ。

「知っての通り、今回の映画は全員ベテランの域に達してるってことでオーディションなしで採用を決めたんだからさぁー!そこんとこ!いっちいち言われなきゃわっかんねーかなあ?」あぁんとまるでヤクザが眼垂れるような顔で答えを求められた彼は、精一杯の笑みを浮かべて、それははい充分に、と変に上擦った声で返事をする。だったらさーと監督の声が一段大きくなる。次の言葉を、彼を含めたスタッフ全員が首を竦めて待ち受ける。

「もっと真剣にやれよ!呼吸!」

 監督の言葉は、ごもっともだった。

 恐らく監督だけでなく、彼の演技を目の当たりにしているスタッフは漏れ無く感じていることだろう。なーんだ。主演男優賞を期待される俳優とかいっても、所詮こんなもんなのかぁと苦笑している。そんな雰囲気が細かい細かい刺になって常にチクチクと刺さってくるのだ。

 監督に言われなくても重々承知している。演技に身が入っていないのは。彼は、この役をなかなか掴むことができず、役自体に戸惑っていた。

 役の呼吸は疎か、自分の役を受け入れてすらいないのだ。

 彼の役は、愚か者。

 そう言う名前の役ではない。あくまでも彼が勝手にそうつけただけだ。

 正確には、人、特に女に散々利用されて貢がされて捨てられる男の役だった。

 相手の女がどんなに淫乱女であろうとも、裏切ろうとも、傷つけようとも耐え忍び、ひたすら捧げる。

 首を垂れて猫背の内股ぎみに歩き、話す言葉は必ず吃るか噛む。鳥の巣のような頭にニキビ面の小太りの体格。ぱっとしない服装、困ると鼻糞を掘り始める癖がある。すぐ泣くような臆病で、女のような金切り声で悲鳴を上げる。

 それまで二枚目の爽やかなイケメン俳優として売ってきた彼が演じてきた役とは真反対の人物像だった。

 いくらバカにされても、唾を吐きかけられても、一文無しになろうとも、彼女のために尽くす愚かな男。

 有り得ないことだと彼は思う。この男は、頭が足りないのだろうかと。

 そんなクズみたいな男の呼吸なんてと嫌悪する自分が、いる。仕事だと割り切ろうとしても、どうしても演じ切れない。

 どころか、演じるのが苦痛な時すらあるのだ。なぜだろう?

 この役の男が大嫌いだった兄に似ているからかもしれない。

 悪い女に捕まって散々利用された挙げ句に借金を肩代わりさせられてしまい、とうとう東京湾に浮かんでしまった哀れな兄。

 感性が豊かで情にもろく泣き虫で、でも一回り歳の離れた弟思いだった兄。

 そんなバカ正直過ぎる兄が嫌いだった。

 俺は兄のような愚鈍で情けない男にはならないと誓った遠い日。だからだろうか。どうしても役になりきれないのは。

 一挙手一投足ごとに亡き兄が、炙り出されるようなのだ。

 鼻息の音が耳障りでうるさかった兄が、この役になりきろうとすればするほど鮮明になる。

 彼は謂わばそれを拒否していた。

 毎回のように現場に響き渡るXの怒声と暴言を一番受けていたのは彼だと言っても過言ではないだろう。

「ちがうちがうちがうっ!そうじゃねーよっ!何度言わせりゃあ気が済むんだよっ!やる気ないなら辞めろよ!」

 すみませんと頭を下げる彼を、最初は哀れみの目で眺めていた共演者たちも最近は露骨に眉をひそめる。またかよと呆れた溜め息をつく。何度も何度も、いい加減にしろよと無言の圧力と怒りを色とりどりに織り込んだ呼吸。

 それでも彼の演技にOKは、出ない。なかなか出なかった。

 お陰で、クランクインして半年が経ったというのに撮影は要として進まず、苛立ちは監督だけでなく出演者やスポンサーにまで伝染し始める。このままじゃマズい。

 彼は焦っていた。が、焦れば焦るほど、こなさなければいけない役と実際の彼の演技との矛盾の淵はどんどん深く広くなっていく。

 ・・・そもそも、おれには向いていない役なんだ。

 時代劇俳優がハリウッドのアクション映画に出演する違和感と同じ。人には得手不得手がある。言い訳は彼の中で日を増す毎に増え、更に膨らんでいった。

 若い恋人ができたのは、彼の降板が囁かれ始めた頃だ。

 恋人は行きつけのキャバクラで働いている。

「辛いよね。わかるよ。仕方ない仕方ない。だって無理なもんは無理だもんね」さらっと慰めてくれたことに救われた。誰も口にしてくれなかった言葉を、当たり前のように言ってくれる。彼にはそれだけで充分だった。

 個人的に食事に誘ってベッドインするまでに大して時間はかからなかった。

 年若い恋人は、彼の頭を優しく抱きかかえて撫でながら、大丈夫大丈夫と耳元を甘い息でくすぐる。

 恋人の温かく豊かな胸に包まれた彼は、まるで子どもに還ったような安心感を得て深い安堵の息をつく。そして、ますます演技に熱が入らなくなり、坂を転げ落ちるようにして撮影をすっぽかすようになってしまった。

 マネージャーと事務所からのおびただしい数の不在着信に混じっている元妻からの着信履歴を見つけたのは、例によって恋人の家から帰宅した朝だ。

 スマホ画面に表示された懐かしさすら感じる妻の名前からは、彼女が持つ凛とした百合のような気配が漂っている。

 彼は小さく息を飲んだ。

 妻とは、同じ大学の演劇サークルで知り合った。

 はにかみ屋の美人だが、笑った時の無邪気な顔が最高に愛らしく、ほとんど一目惚れに近い形で彼から交際を迫ったのを覚えている。卒業後も交際は続き、彼が劇団から引き抜かれて芸能事務所に所属が決定した際に、籍を入れたのだ。

 自分には演技の才能はないのだと演劇を諦め、高校生から続けていたモデルに本腰を入れ、着実にキャリアを積み始めた多忙な妻との結婚生活はすれ違いそのものだったが、互いに夢を実現させるべく疾走している姿を認め合える理想の形だと彼は信じていた。相手に期待するがゆえに喧嘩ばかりしていた父母のような夫婦ではない。お互いを尊重し合える理想の夫婦だ。いくら二人で過ごせる時間が少なくても、彼は幸せを感じていた。ところが、

 妻が離婚届けを差し出したのは、折しも数ヶ月前にクランクアップした初主演映画が、アカデミー賞候補としてノミネートされた告知を受けた日。

 興奮と混乱に同時に襲われた彼はしかし、努めて冷静に妻がカウンターに置いた離婚届にサインした。

 サインしようとした際に、妻から「理由を聞かないの?」と問われたが、今更なにを聞いたところで何かが変わるわけでもないだろうこと、理由を聞いた彼がどんな反応を示したとしても妻は離婚を覆す気は毛頭ないのだろうことが、彼を真っ直ぐ見つめる彼女の瞳から見て取れたので、おもんぱかった末に、首を横に振った。

「私、あなたの演技好きよ。これからも応援してるから」がんばってねと締めくくる妻の言葉に、彼はうんとかすんとか歯切れの悪い返事を蚊の鳴くような声を絞り出して大きな溜め息をついた。彼の精一杯だ。

 そうして、妻は出て行った。

 生活用品が一人分減っただけなのに、手狭だと感じていた部屋が、急にがらんどうになったようだ。

 よそよそしい風景。やけに響く一つ一つの音。

 カウンター端に寂しく佇んでいるのはサザン・カンフォートの飲みかけのボトル。妻が、どこぞの通りすがりのジジイからもらってきたもので、美味しいからとお気に入りになったものだ。

 帰宅すると出かけたままの空気が静かに蟠っている無人の部屋になんとなく帰りたくなくて、誰かと蔓んで飲み歩く日々が続く。妻がいた頃にしても在宅していることのほうが少なく、いてもいなくても気にしなかったくせして。

 妙なものだなと我ながら失笑してしまう。

 Xの映画出演のオファーが舞い込んで来たのは妻に出て行かれた直後だった。

 喪失感を抱えたばかりの彼は、どんな反応をしていいのか困惑して曖昧な笑みを浮かべただけだ。けれど、今をときめくXからのオファーは、彼の俳優人生における、最大にして最後のビッグチャンスだ。所属事務所は大喜びだった。

 俳優としてやっと油が乗り始めたんだね、長かったなぁと彼の隣でマネージャーが我がことのように目を潤ませているのを横目に、どこか他人事のような気がしたのだ。そんな気持ちだから、この体たらくな有様なのだろう。

 彼は、画面を睨みながらしばらく逡巡すると、鼻で小さな溜め息をつきながらスマホをカウンターに置いた。

 それから同じカウンターの端にあるサザンカンフォートを引き寄せると蓋を開ける。

 捥ぎたての瑞々しいフルーツを濃縮させたような香りが広がった。次いで棚から取り出したタンブラーにサザンカンフォートを注ぎ、トニックで満たして一気に呷った。朝帰りで乾いた喉を、売り出したばかりの初々しい桃色の衣装を着たアイドルのような炭酸が駆け抜ける。よし。彼は何度か深呼吸をするとタンブラーを置いてスマホを取り上げ、発信表示をタップした。

 呼び出し音が何度か鳴った後、もしもしと耳障りのいい妻の声が出た。

 屋外にいるらしく、彼女の声の向こうからさざ波のような喧騒が聞こえる。

「久しぶり」

 生唾を飲み下したのは、決してジルスチュアートの残り香が鼻をついたからではない。妻の語尾にいささか力が入っていると感じたからだ。それは、苛立っている時の妻の癖だった。現在の自分の状況が状況なので、かけなきゃ良かったなと後悔が冷や汗となって脇を伝う。呼吸が浅くなっていく。

「ねぇ最近どうしたの?」

「なにが?」動揺を悟らせまいと冷静を装って低い声を出す。

「撮影、行ってないんですってね?」ぐっと息が詰まり、次いでやっぱりかと耳が受話口から離れる。マネージャーから連絡がいったんだ。

「君には関係ないだろ」切り札のようなその台詞は効果抜群で、彼女はぐっと息を飲んで押し黙った。

「・・・そうね。確かに、もう他人の私には関係ないわね」だろ? とそっけなく返すと、深い溜め息が聞こえた。

「前にも言ったと思うけど、私はあなたの演技が好きなの。だから、いちファンとして言わせてもらうと、あなた、ほんとうに今のままでいいの?」いいさ充分満足だよと彼が冷たくあしらうと、彼女はダメよと食い下がった。

「いいわけないわ。あの有名なX監督の映画なんて、一世一代のチャンスじゃない。絶対、ものにすべきよ!」彼女の語尾に力が入る。

「おれの気も知らないくせに、勝手なこと言うなよ!簡単じゃないんだ!」思わず声を荒げてしまった。少しの沈黙のあと、彼女は「お兄さんのこと?」とまるで内緒話でも打ち明けるような調子で聞いてきた。

「兄が、なんだよ」彼女が息を吸う音が聞こえた。

「あなたがむきになるのは、お兄さん絡みのことだけだから」彼女の推測は図星だったが、認めたくない彼は、そんなんじゃないと否定した。

「兄は関係ないし、例えそうだったとしても君にはもう関係ないだろ」

「そうね。確かにその通りだわ。でも、お兄さんのことがあろうとなかろうと、逃げないで向き合って欲しいの。そして、乗り越えて欲しいのよ!」

 あぁそうだ。彼女はこうやってストレートに切り込んでくる性格で、おれも認めない質なものだから、結婚してから頻繁に喧嘩をしていたっけなあと今更のように思い出した。

 彼女の言うことはいつでも真っ直ぐで単純で熱っ苦しくて、優柔不断や不安からくる怒りを翳すおれを更に追い詰める。彼女の熱にとことん容赦なく追い詰められたおれは爆発せざる負えない。情けない自分と向き合わなければいけなくなる。彼女に自分を暴かれるのが嫌で、しんどくて仕方なくて、終いには彼女になにも話さなくなってしまった。もしかしたら、それが、離婚の原因だったのかもしれないと今ならわかる。

「諦めと逃げの早さ。あなたの悪い癖よ!そんなんだから、いつまで経っても二流止まりなのよ!」一言多いのは彼女の悪い癖だ。

「そうだよ。悪かったな。でも、だから、なんだってんだ? おれはそれで満足してるんだ。変わる必要なんてない」

「変わらない俳優なんて俳優じゃない。ワンパターンの演技なんて誰も見たくないわ」

「見たくない奴は見なきゃいい」そういう問題じゃないでしょう、と彼女は息巻く。

「それでいいの? あなた、このままじゃもう、俳優人生終わりなのよ・・・」終わりなのよの部分だけ、泣き出しそうなウィスパーボイスだった。それが耳にこびり付いたが、引き下がれないおれは決定打を口にした。

「おれを見捨てた君が、言うなよ!」

「見捨てたんじゃないわ!あなたのためよ!」唐突に通話は切られた。

 ほらな。やっぱりだ。

 妻は今、超がつくほどの売れっ子のモデルで、モデルという枠を越えてタレントとしてメディアでも活躍している。

 ファッション誌を始め週刊誌やムックの表紙を飾るほどの人気だ。そんな絶好調な妻が、いくらおれの事務所に頼まれたからと言っても、わざわざ連絡をよこしてきたのには彼女なりの理由があるのだろう。

 元夫のおれの存在は、彼女にとってはリスキーな爆弾のようなもの。

 大方、自分の足を引っ張るような真似はするなだとかそんなところだろう。

 暗転した画面を睨みながら唇を噛み締めた。

 なにがおれのため? 冗談じゃない。自分のための間違いだろう? おれが煩わしくなった。それだけだろう。おれは、あのタイミングで離婚したお陰でこの様なんだ。

 着信音が鳴った。

 妻が再びかけてきたと勘違いした彼は確認せずに通話表示をタップする。

 彼女から折れてくれるなら、おれはいつでも受け入れる準備はできていると寛容な気持ちすら芽生えた。ところが、相手はマネージャーだった。

「・・・やっと繋がった」

 苛立ちが全面に出たマネージャーの声を聞いた途端に切りたくなったが、次の一言で凍り付いた。

「代役決まったから」嫌だったんでしょよかったね、と受話口から放たれる氷点下の軽蔑の声がおれの鼓膜に突き刺さり思考を凍結させていく。それから、と一本調子のマネージャーの言葉は続く。

「アカデミー賞はダメだった」期待していたわけではないが、さすがに軽いショックがあった。言葉が出ない彼を無視してマネージャーは、あと、と更に続ける。

「うちの事務所との契約破棄が決まったから」長い間お疲れさま今後の書類手続きなんだけどと抑揚のない説明をし始めようとするマネージャーを遮った彼は、ちょっと待て、どういうことだよと食いついた。

「どういうこともなにも。自覚ないの? X監督からの仕事をあんな形で台無しにして。たくさんの関係者に迷惑かけて。あなたが予定をばっくれたことで、私達が毎日どれだけ各関係機関に謝罪に走っていたか知らないよね。社長がどれだけ慰謝料を払ったか。解雇だけで済んでよかったと思いなよ」じゃあ書類は後日送付させてもらうから、これ以上関わり合いになるのはご免だとばかりに断ち切るようにして通話は終了した。

 嘘だろう・・?

 彼は呆然と黒い鏡と化したスマホの画面を見つめ続けた。

 そうして見つめていれば、マネージャーから「なーんてね冗談だよ」といつもの砕けた調子で再着信が来るかもしれない、いや、来て欲しい。けれど、彼の願いも虚しく画面が光を取り戻すことはなかった。代わりに眉間に皺を寄せた泣きだしそうな男の顔が映っている。

 ブラックホールような漆黒から浮上するような寝癖頭にニキビが目立つ陰気な顔。見覚えのある顔だ。おれじゃない。

 ちがう。おれはこんなみっともない顔じゃない。おれはもっと・・・

 そこに恋人からのメールが届く。

『大好き過ぎて離れたくなーい♡♡♡ずっと一緒にいれたらいいのにぃー♡寂しいなぁ』

 可愛らしいハートの絵文字が散りばめられた愛情溢れる文面。彼を一途に好いてくれるこの世で唯一の存在だ。

 無防備などんな彼でも怒りも責めもせずに優しく受け入れてくれる。あの母なる海に抱かれているような肉厚の柔らかい体が恋しい。生クリームみたいなほわほわした甘えた声に癒されたい。彼女の纏うジルスチュアートの香水を肺一杯に満たしたい。

 恋人に無性に会いたくなった彼は、玄関に取って返した。靴を掃くのももどかしく車に乗り込む。鼻息も荒くエンジンをかけながら、強く思った。

 おれにはもう彼女しかないのだ。

 そして、彼女さえいれば、全てはもうどうでもいいのだと。

 恋人の済むアパートの階段を餌に走る犬のごとく駆け上がった時、不審な音と声に立ち止まった。

 何かが軋むような音と途切れ途切れにする小さな悲鳴のような声だ。

 音を辿った彼が辿り着いたのは恋人の部屋の前。

 数時間前にあとにした見慣れた恋人の部屋の扉が、まるで知らない扉に見える。

 彼は何度か深呼吸をすると、そっと扉を開けた。

 音と声が鮮明に鼓膜に伝わってくる。足音を忍ばせて部屋の奥へと進んだ彼が見たものは、背中に般若の刺青を入れた見知らぬ男と一糸纏わぬ姿で手入れの行き届いた足を惜しみなく広げる恋人だった。

 彼は息をすることも忘れて凝視する。

 おれの柔らかい桃色の素肌が。おれの豊かな胸が。おれのアヒル口が。おれの甘い吐息が。おれの栗色の巻き毛が。おれのジルスチュアートの香りが・・・

「てめぇ、なに見てんだよ」

 姿見に映った彼に気付いた刺青男が振り返った。ヤクザだろうか。凄み方が堂に入っている。

 目を見開いた恋人が慌てて起き上がると、待ってと言って男の腕を引いた。

「大丈夫だよ。この人、メッシー君だから。間違えて入って来ちゃったみたい」

 恋人が愛くるしいぽってりとした果肉のような唇を動かして弁明している。けれど、彼はその恋人の後ろにある鏡から目が離せなかった。

 そこには猫背の小太り男が、半開きの口をした惨めな面をぶら下げて呆然と立っている。

 彼は息を飲んだ。

 兄ちゃん? まさか、嘘だろ?

 豊かな贅肉が織り成す全体的な膨らみと出っ張り腹、それに頬の弛み。

 自信なく項垂れた姿勢は以前の姿とは別人だが、鏡にうつったのは紛れもなく変わり果てた彼だった。

 思い返せば、撮影をサボり始めてから、欠かさずしていた筋トレを精神的な疲労のせいにして辞め、ストレスを理由にどか食い自棄飲みしまくる日々。若い恋人に依存するだけのだらしない生活を送っていたのだ。こうなってしまっても言い訳はできないだろう三十路後半。けれど、鏡の中に兄を見てしまった彼は到底認められなかった。

「あぁあメッシー? 随分ふてぶてしそうな顔したメッシーだな。ん?・・・おい、もしかしてコイツ」俳優のーと男が言いかけたところで、彼はやめろぉーと金切り声を上げながら恋人の部屋を飛び出した。

 なんだこれ。なんだこれ。

 嘘だ嘘だ嘘だ!

 帰宅した彼を待ち受けていたのは報道陣だった。

 彼は、稲妻のようなフラッシュの嵐から逃げて玄関に転がり込むと震える手でなんとか鍵を閉める。

 触れたあご髭が濡れているのに気付く。彼はいつのまにか泣いていた。

 インターホンの音がひっきりなしに鳴り響く暗い室内の端っこで息を殺して縮こまる彼。叫び出したいのを堪えて不規則な呼吸をしていると、鼻が気になり始めた。彼は鼻をほじりながら先程の兄の姿を思い起こす。

 ・・・兄だった。間違いない。あれは兄だった。どうして?

 貧乏揺すりをしながら鼻をほじる彼を包むのは、カウンターの上で開けっ放しになったサザンカンフォートの香り。コソコソと耳打ちしては笑う制服姿の女の子たちが纏うコロンのような芳香が彼の不安を増長させる。

 鈍い光を放つボディに彼の湾曲した姿が映っている。兄にそっくりな姿。

 なんでだ? なんでだ? どうしてこんなことに?

 これは嘘だ。嘘だ。嘘だ。

 テレビをつけると、X監督が緊急記者会見を開き、彼の代役として若い俳優を紹介しているところだった。

 彼より整った顔立ちをしたその男は、最近メキメキと頭角を表し始めた若手俳優の一人。

 経歴が流れ、プライベート情報の一部が公開されたかと思うと、突如彼の元妻とのツーショット写真が現れた。

 美男美女でお似合いの二人は、来年の春に入籍予定らしい。

 嘘だろ。どうして妻は寄りにもよってこんな男と?

 彼の脳裏に嫉妬と猜疑心が同時に沸き上がった。果たして、こんな顔面だけで売ってるような男に、あの汚れた道化役がやれるものなのだろうか? 

 彼は、しばらくテレビを睨んでいたが、バカらしくなってチャンネルを変えた。


 数日後、スマホの画面がメールの表示で明るくなった。恋人からだ。

『この間はビックリしたよぅ。いきなり来るんだもん。どうしたのぉ? あの男はしつこい元カレ。一回やったら別れるって言ったからぁ。ビックリさせちゃって、ごめんねぇ。大好きだよぉ♡♡♡会いたいなぁ。今夜、この間行った赤坂のご飯屋さんで仲直り会しない?』

 ノイローゼ気味になっていた彼の胸に明るい希望の火が灯る。さっそく、了解と打ち込むと送信した。

 BGMは相変わらずインターホンの音だが、以前よりだいぶ少なくなってきていた。

 世間がやっとおれに飽きてきたらしい。

 それでいい。もうそっとしといてくれ。

 彼女と会えると思うだけで、渦巻いていた底知れぬ不安が嘘のように解消されていくのを感じた。

 彼は指についた鼻糞をテッシュで拭き取ると、塵溜めのような部屋を横切ってシャワーを浴びに風呂場に向かった。髭も剃らないと。なんせ、恋人が指定してきたのは赤坂の高級料亭。政治家も御用達の有名店だ。身支度は必須。

 ふと、そろそろカードが火を吹きそうだと思い出した。

 まぁいいさ。いざとなったら消費者金融で金を借りればいい。

 恋人からの甘いメールで、この間の胸糞悪い事件をそっくり忘れて頭を洗う彼の口からはインターホンの音に合わせた鼻歌がこぼれ始めていた。

 風呂上がりに、サザンカンフォートのソーダ割りを作っている時に唐突に妻が言っていたことを思い出す。

『人生を演出する一本を』って、これをくれたお爺さんから言われたのと妻は首を傾げていた。

 人生を演出する か・・・カンフォート・ソーダを飲み干した彼は、初恋の相手のうなじから香り立った甘いシャンプーを思わせる余韻を味わいながら、エピローグにはまだ早いはずだとニヤついた。

 夜になり、彼は恋人との待ち合わせの赤坂の高級料亭に向かって車を飛ばす。

 恋人は先に入っているとのことだったので、案内してくれる女将の後ろから意気揚揚と廊下を歩いていると、弾けるような恋人の笑い声が聞こえてきた。

 おれに会えるのが嬉しくて1人で笑ってでもいるのだろうかと、歩幅が広くなる。ところが、開け放たれた襖の先には、庭を背にした恋人が例の刺青男に寄りかかって寿司を摘んでいる光景だった。

「おう、メッシー君。やっと来たか」

 ワイルドな笑みを浮かべる刺青男が手を上げた。元カレがなんの用だよ。

「まぁ座れよ。適当に女将のお任せで頼んどいたから」

 恋人は彼には一瞥もくれず、うっとりと刺青男を見つめている。

 それ以外はクスクス笑いながら、料理を口に運び合う。

 二人の背後、窓ガラスの向こうには、趣きのある日本庭園が広がっているが、夜の帳に覆われているため黒い窓硝子があるばかり。そこに映る仲睦まじそうな二人の背中。そして、二人に挟まれるように映っているのは、兄・・違う、惨めな自分の姿だ。

 呼吸が小さく浅くなっていくのを感じる。息苦しい。

「なんだなんだぁ。随分と静かなメッシー君だな。おい、なんか喋れ」

 刺青男が圧のある視線で彼を促した。

「い、い、いや。お、おれは・・・」吃り過ぎじゃね? ぎゃははははと笑いが起こる。

 屈辱的だ。けれど、彼は引き攣った笑みを貼付けるだけで、動けない。注がれた酒も喉を通らなかった。

 抱擁したり接吻したりとやりたい放題の二人を目の当たりにしても、どうしても恋人を見つめてしまう自分。疎かでバカだとわかっていても目が逸らせないのだ。

 それに気付いた刺青男が、わざと恋人の豊満な胸を揉んだり足を持ち上げて広げたりし始めた。それでも興奮しながら釘付けになっている彼は、どうかしてしまったのかもしれない。

 男が女に彼のことを耳打ちする。

「うわ。キモーイ」そう言って、おれを見下しながら下品な呼吸で笑う二人。

 以前の彼ならばこんな屈辱的な仕打ちには我慢ならなかっただろう。ところが、今の彼は自分の見た目に自信がないこともあり、どんなにバカにされても仕方ないとすら思えてしまうのだ。

 所詮は見た目だけか・・・恋人に絶望した彼は堪らなくなって便所に立った。

 渡り廊下の窓ガラスに映っている兄にそっくりな姿。

 かつての兄もこんな気持ちだったのだろうか?

 愚かだなと思っていた兄の気持ちが手に取るようにわかる日が来るなんて思わなかった。深い溜め息が漏れる。

 おれも兄と同じ道を辿るのだろうか?

 用を足して手洗い場の鏡に映った自分の顔をうんざりと眺める。

 二枚目俳優の面影は跡形もなくなったそこには、荒れた髪と肌をした猫背のみっともない中年男がいるだけ。

 記憶の中の兄よりも酷いかもしれない。おれはこんな顔をしていたのか? 誰だよオマエ。

 鏡相手に睨めっこしていると、水が流れる音がして、個室からひょろっとした男が現れた。

 彼は思わず息を飲む。X監督だ。

 Xは丁寧に手を洗うと、隣にいる彼には構わずに便所から出て行った。と思ったら、即座に引き返してきて、彼を品定めでもするように下から上まで睨め回した。

 こんなに変わり果てた容姿になっても、おれだと気付いたのか? まさか。

 彼は落ち着くために慎重な呼吸を繰り返す。

「へぇーマジで作り込んできたわけだ」

 彼を穴が空くほど凝視した末、開口一番そう言った。

 彼の胸は高鳴った。

「だが、残念。時間切れだ」手を振って笑いながら去って行くX。

 その後ろ姿を見送った彼は、料亭の玄関へと向かった。

 ・・・なんか疲れたな。帰ろう。


 それから数年後。

 小さな劇場で行われた芝居で、ある男の演技がネット上を騒がせた。

 芸能界から転落したという元俳優のその男の演目は一人芝居。一人何役どころか、何十人もの役を同時にこなす多彩を極めた演技力は群を抜いていたという。






 ※サザン・カンフォート

 アメリカを代表するリキュールと言っても過言ではないほど認知度が高い。ゴードン・ブラウン著「Classic Spirits of the World」によると、創始者はニューオリンズのバーテンダー。彼は、樽詰めの不味いバーボンを、どうにかおいしく飲めないものかと考えた末、果実味と甘味を加えて改良することでリキュールとして生まれ変わらせたのだとか。以後、禁酒法の時代を乗り越え、アメリカ人の手になるアメリカン・ティストのリキュールとして不動の人気を築き上げた。現在では、ヴァージン諸島のサント・クロア島で生産され、果実系リキュール内でのたゆまぬ地位を確保し続けている。糖蜜を蒸留したスピリッツがベースのこのリキュールは、ピーチをメインにレモンを始めとした数多くの果実エキスとフレーバーが配合されているため爽やかな甘さを感じることができる。ラベルの絵には、ミシシッピー川沿いのサトウキビ農園邸宅を描いたエッチングが起用されている。世界的にも有名なミュージシャン「ジャニス・ジョップリン」が生前、こよなく愛した酒としても有名な銘柄だ。

 割るものによって立ち上がるメインフレーバーが変わるというカメレオンのような特徴を持つサザン・カンフォート。ソーダやトニックウィーター、ジンジャーエールにコーラなどの炭酸から、オレンジやグレープフルーツ、クランベリー、ライム、レモンなど各種フルーツジュースまで組み合わせによって様々な味を楽しむことが可能である。「スカーレット・オハラ」「サザン・スパークル」「カンフォート・コリンズ」「ダブルレインボー」といったカクテルもソフトドリンクを組み合わせた飲みやすさだ。

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