ディサローノ・アマレット

 扉脇が空いてる。あたしんだ。

 彼女は、乗車してくる奴らの前を悠然と横切ると、乗降口のバーの前に陣取った。

 前を横切られた若い女が一人、苦虫を噛み潰したような顔で彼女を凝視する。

 ざまぁみろ。

 彼女は、くっちゃくっちゃとガムを噛みながら、流し目をしてにやっと笑う。

 ざっまあみろー

「六十過ぎてんのに、いつまでもそんなことやってっから、お一人様なんだぜ」

 知った口を叩くのは常連の男だ。

 米兵下げ風のバカみたいに大袈裟なワッペンがやたらとくっ付いたカーキジャンパーを羽織り、亀の子束子そっくりの頭と雪のような耳毛と鼻毛が飛び出した汚い顔が特徴的な高齢に片足突っ込んでる男。ボトルキープしたジムビームを水割りにしてちびちびやる。貧乏臭いのが粋だと勘違いしてる時代遅れの考え。

「うだつの上がらないあんたにだけは言われたかないね。七十手前のジジイのくせにさ」

 男に向かってぺっと鍔を吐く真似をした彼女は、手元周辺を弄る。次に、カウンターの隅々まで素早く視線を滑らせてから、そういえば禁煙していたことを思い出した。

 ちっ。舌打ちしてガムに手を伸ばす。

「けど、俺は結婚、してたかんね。こう見えて、孫だっているし」ドヤ顔をする男に、だからなんだいと吐き捨てた。「それが、そんなにえれぇんかい?」アホらしと肩をすくめてガムを噛む。

「過去に結婚してよーがよ、孫がいよーがよ、今はあんた、あたしと同じ一人ぼっちさ。同じ穴の狢だねぇ」

 ぎゃはははと下卑た笑いを唾ごと投げつけた。その間、毒々しく塗られた赤い爪が口許付近で何度も空を引っ掻く。

 ジムビームジジイがしょげ返る。ざまぁみろってんだ。

 彼女が勤めるスナック「ふきだまり」は繁華街の端っこにある。

 高齢のママは休みがちだ。代わりに意地悪なチーママが店を仕切っている。

 彼女より二つ若いが、彼女よりデブの女だ。そのチーママから彼女はハゲタカと罵られている。

 痩せぎすの彼女が、いつもファーのような襟巻きをしているのがハゲタカのようだからだからという由縁だ。なので、彼女はチーママをブーブーと呼ぶ。

 ホステスはあと1人。週三でくる出っ歯が目立つビーバーと呼ばれる女だ。噂好きな不細工のチビ。

 常連は変なジジイばっかりだ。

 たまにオカマが紛れ込んできて怒って帰る。

 棚には安酒と百円均一のグラスと小皿、おつまみは単価百円を切る。ぼったくりに近いスナックだが、常にぼちぼち客はいた。もの好きなこって。

「無理無理。ハゲタカに普通理論は通用しないわよおー」

 ブーブーが柿の種片手に、のれんから顔を突き出した。

「ハゲタカちゃんは、今まで本気で惚れた男、いねえのかい?」

 まず、その呼び方やめろと、頬杖をつくジムビームジジイの肘を払う。

 そうしているうちに、ハゲタカにそんな相手がいるわきゃないでしょおよーと最近客から贈られた指輪を弄りながらブーブーが答える。

 指輪には明らかにイミテーションだろう宝石が不自然にギラギラ光ってぐるりとくっ付いている。ブーブーはそれを薬指に嵌めている。もらった相手は常連の爺さん。

 ジョニーウォーカーのブラック通称ジョニ黒をボトルキープしている爺さんは、金持ちで、あちこちの風俗店で女や男を買っていて、気に入った相手には指輪を贈る。ブーブーがつけているあの指輪だ。知っている。見たから。爺さんが手を繋いで歩いていた男や女の指にも同じ指輪が光ってたから。

 ギラギラギラギラ。

 みんな考えてることは一緒。

 老い先短い爺さんが死んだあと、資産のおこぼれにありつけるかもしれない。

 そのために、今しっかりと気に入られようとして。そんなようなことを考えてるのは明白だ。じゃなきゃ、あんな悪趣味極まりない指輪なんてするわきゃないよ。

 指輪を弄るブーブーのうっとりした余裕さえ滲んだ顔。

 バカだなぁ。あの爺さんは、ブーブー以外にも候補はたくさん確保してるのにさぁと彼女は思う。

 それにそのイミテーションリングは、リヤカー引いたホームレスのおっさんが、いつだったか売りにきてたヤツだよ。あたしは見たんだ。

 そのホームレスが江戸川の橋の下に住んでるヤツだってことも、おっさんがそのホームレスからごっそり買いあげてたことも。指輪を弄るブーブーを、彼女は細めた目に哀れみを込めて眺める。

 ま、あたしには関係ないことだから教えないけどさ。お気の毒様ー。

「なあ、どうなんだい? あんた、顔は悪くない作りしてんだ。浮ついた話の一つや二つあったんだろう?」

「あたしゃこう見えても恋多き女だよ。百じゃ足りないね」あんたにゃ話さないけどさと付け足す。

「じゃあ、信憑性は、ゼロだ」

 勝ち誇った顔でがははははと笑うジムビ野郎。いつか絶対はったおしてやる。

「こーんなねじ曲がって入り組んだ迷路みたいな性格の荒っぽい気性の変わり者。誰が相手にするもんですか」

 ブーブーブーブー笑い声がうるさいったらありゃしない。黙れよブタ。

 ビーバーが、おはようございまーすとキンキンした声で出勤してきた。

 全然早くない。むしろ遅刻してる分際で、なーにがおはようだかとジムビ男奢りのビールを口にする。

 煙草が吸いたくなった。

 禁煙しているのは、咳が止まらなかったから。

 喘息みたいになって。マズいなと思って病院に行った。

 そしたら「このまま吸い続けたら死にますよ」と宣告された。だから、もう二度と吸えないのだ。

 それを知っていて嫌味のように隣でスパスパ吸うブーブーとビーバーとジムビジジイ。

 やめたからって寿命がちょびっとだけ伸びて、ただそれだけじゃんと彼女はイラつく。

 つまらない毎日の終わりがほんの少しだけ伸びるだけ。

 たったそれだけ。でも、あの医者怖かったからなぁ。

 言い方がさ。まるでドラマとかの余命先刻みたいな雰囲気で。だから。

 だからさ怖じ気づいちゃったんだよね。情けないことに。

 生か死を、どっちがいいかって目の前に突きつけられてるみたいな圧があって。はぁ、ならって生を選択したからさぁ。しちゃったからさあ。それで、宣言しちゃったからさあ。コイツらに。今、目の前で煙草吸ってるコイツらに。バカしたわーって後悔してる。言わなきゃよかったって。なんで言ったんだろうって。寄りにもよってコイツらにさあ。世界で一番どうでもいいコイツらにさあ。

 あたし、生死を突きつけられて、生を選んじゃって。だから、一瞬でもこの日常が愛おしいとか思っちゃったんだわ。どっかで。だからだわ。いつものあたしなら絶対にしないことしたの。

 いつものあたしなら、コイツらはあたしが禁煙したら邪魔してくるし、禁煙しなきゃ呷ってくるってわかってる。死ぬかもしれないって恐怖した時に、あたし、それ忘れちゃったんだわ。あーあーあーうざってぇ。コイツらの、このノリもうざってぇ。

 彼女はひっつめた針金のような髪の先を引っ張る。苛々した時の癖だ。

 それから、ビールのジョッキを一気に飲み干す。

 胸に滾る混沌が少しスッキリしたような気がしなくもなかった。


 人に裏切られるだの陰口叩かれるだのなんざ日常茶飯事。

 あたし、人の薄い皮一枚剥いだら剥き出しになる醜いとこ、弱いとこ、うんざりするとことかさ散々見てきた。でも、好き好んで見てたわけじゃない。

 なんでか知らないけど、あたしの目の前でいきなり豹変するんだ。

 若くて純粋だった時はショックだった。狼狽したし悩んだ。理解できなくて現実逃避してた時もあった。

 だけど、傷付いて怯える余裕すら与えられずに、次から次へと手を換え品を換え続くと、次第に、またかってなってくる。

 だんだん腹が立ってくる。

 殺意なんて案外簡単に湧くもんなんだってわかる。

 あたしは抗う。怒る。でも、人から受ける流れは変わらない。一方的にあたしを巻き込んでくる。人それぞれの人生の定ってやつなのか知らないけど、とりあえずあたしに関してはそうだった。

 悲しみに浸る時間は疎か、トラウマを癒してくれる相手すら許されずに、はい次はい次って感じで抜かりなく待ち構えられたんじゃ諦めるしかないじゃないか。

 達観なんて大層なもんじゃないけど。そう考えられるようになったら幾らか楽にはなった。けど、年月はしっかりと過ぎちゃったよね。気付いたら六十だ。損した感じだ。あたし自身はなにも変わっていないのに、ただ、若さだけが失われた。視点を変えれば、若さが搾取されてしまったとも言えるのかもしれない。

 いったい誰に? そう。この世に生きるあたしに関わってきた人間全てにだ。

 だから、あたしは人間が嫌い。

 上っ面は親切そうな笑顔を貼付けてるけど。いかにも自分は常識的でまっとうに生きてきたってことを言葉の端々にいちいち散りばめてくるけど。

 どいつもこいつもロクでもない。

 自己中だし嘘つき。

 信用? 信頼? はは、銀行の謳い文句だ。

 そんなもの人間関係には通用しない。


 徹夜で散々飲んだくれてアパートに帰ると、みそ汁の匂いが充満していた。

 彼女の大好物の生姜がたっぷり入ったみそ汁だ。

 鍋を覗いてからベランダに目をやる。朝日を孕みながら翻るレースのカーテンに見え隠れしている洗濯物を干すひょろ長い人影。こちらに気付くと「おかえりー」と振り返った。

 その手には臆することなく彼女の黒いブラジャーを持ち、無精髭面にほわほわした笑顔を浮かべる男は、今年で三十になる息子だ。

「ちょうど、みそ汁作り終わったとこー一緒に食べよーよ」

 息子は洗濯物を放り出すと、みそ汁をよそいに駆けて行く。

 酔いが一気に冷めた彼女は目を細めて、奴が放り出していったブラジャーを拾い上げた。

 物干の外側でペナントのようにひらめいているパンティーを外して、ブラジャーと一緒に中側に干し直す。それを目隠しするようにして外側にはバスタオルを干していく。

 何度も言っているが、一向に直らない奴の悪い癖だ。

「おまちどおさまー」

 みそ汁椀が二つ並んだコタツの前で、満面の笑みで座っている息子。

 冷めちゃうよおーと急かすので、仕方なく洗濯物を放置した。

 散らかった部屋で向かい合ってみそ汁を啜る。

 このみそ汁は、彼の唯一の得意料理だ。彼が小学生の時に作ってくれて褒めたら、それ以来ずっとこうしてみそ汁だけは作るようになった。

「おいしい?」と小首を傾げて聞いてくる様は到底男とは思えないほど、小動物的で女の子らしい。

 息子は、このアパートの部屋の前に捨てられていた。

 すやすや眠る幼子の上に『モラッテクダサイ』と走り書きされたメモが乗っていた。

 雪が舞い散る夜だ。

 はあはぁ、お次はこれですかあ、と、やっとストーカー紛いの男から解放された彼女は溜め息をついた。

 この赤ん坊を産み落とさざる負えなかったどこかの誰かが失敗したのだ。

 それで、その失敗の尻拭いを見ず知らずのあたしに押し付けてきた。そこら辺に裕福な家なんて腐る程あるのに、寄りにもよって底辺階級のあたしに。乳児院にでも預ければいいところを、どうしてかあたしのところに。

 孤児院に引き渡せばいいという考えが即座に浮かんだ。

 その方がこの赤ん坊も幸せだろう。そんなことを考えていると、目を覚ました赤ん坊が弱々しい声でほぎゃほぎゃと泣き出した。

 冗談じゃない。こんな夜更けに。目立っちまうだろうと慌てた彼女は、とりあえず部屋の中に赤ん坊を入れる。ミルクなんかあるわけない。黙らすために、砂糖をぬるま湯に溶かすと少しずつ飲ませた。

 赤ん坊は最初のうちこそ戸惑っていたが、そのうちに甘い味だったからか必死に吸い付き泣き止んだ。

 やれやれ。一気に疲労を覚えた彼女に向かってキャッキャと笑いかける赤ん坊。

 なんだってんだよ。まったく。

 子どもなんて育てられるわけないよ。

 苦々しい彼女の視線なんてお構いなしに無邪気に笑っている赤ん坊。

 あんた、わかってんのかい?

 あんた、猫とか犬とかみたいに捨てられちまったんだよ。捨てられちまったのに、なんで笑ってんだ。あたしは、あんたが笑いかけるべき相手なんかじゃないのに。なんで笑ってんだい。

 ひとまず知り合いのホステスに預かってもらおうとして連絡したところ、にべもなく断られた。

「あんたが拾ったんだ。あんたが育てなよ。無理なら孤児院にでも置いてきな」

 当然の意見だ。孤児院ねぇ・・・赤ん坊の顔を見て逡巡する。

 金持ちの家に里親に出されれば、そりゃあよくしてもらえると聞いてる。何不自由なく暮らして、教育を受けて、愛される。コイツのためにも、絶対にそのほうがいいだろう。

 本当の両親なんて血が繋がっているってだけで、そこに愛情がなければなんの価値もないからな。

 愛情っても親の独り善がりだとか、押し付けだとか、過保護みたいなものだったら、それはそれで真っ直ぐ育たない。親が揃っていたところで、生活に困っていないところで、あたしみたいな人間になっちまう場合だってある。なまじ実の親のほうが、期待だの世間体だの親への奉仕に雁字搦めにされちまって生きにくいのかもしれない。

 だよな。じゃ、やっぱ孤児院に、そう結論づけて赤ん坊を抱き上げた。

 甘い香りが鼻をつく。すると、赤ん坊がその小さな手で必死に彼女の服を握りしめて泣き始める。

 まただ、ヤバい。彼女は慌てて砂糖水を含ませる。泣き止む。抱き上げる。泣き出す。砂糖水。泣き止む。抱き上げる。泣き出す。砂糖水。それを繰り返しているうちに、朝になってしまった。

 今日は日曜日。公共機関は挙って休みだ。

 仕方ない。週明けにしようと諦め、赤ん坊が眠っている隙に早朝からやっている薬局に粉ミルクと哺乳瓶とオムツを買いに走った。それを両脇に抱えて汗を拭きながら階段を上がると赤ん坊が泣いている声が聞こえて、慌てて部屋に駆け込む。

 なんだってあたしが、こんなことをしなきゃいけないのさ!冗談じゃないよ!

 そう心で文句を言いながら、慣れない手つきで赤ん坊にミルクをやった。限界を越えたオムツからうんちが漏れて下半身が緑になっていたので、シャワーで流して新しいオムツを装着させる。その間も赤ん坊は、泣くでもなくきゃっきゃっと笑う。

 ったく、手間がかかるったらありゃしないよ。

 着せる服なんてないから、自分の古びたピンクのババシャツとラメのセーターを着せるとすうすう眠り始めた。

 ひと騒動だよ。

 週明けには絶対に孤児院に連れていこうと決意して風呂場を片付けた。なのに、

「今日ねーキャベツが安売りしてたから、たくさん買ってきっちゃったー」と言って、きゃっきゃと笑う中年間近の息子。

 冷蔵庫の方を見ると、入り切らないキャベツが二段の小ぶりな冷蔵庫の上から扉前までを占拠している。

 恐らく持てるだけ買ってきたのだろう。八百屋だかスーパーだか知らないが、お一人様何個までと書いたほうが親切というものではないか。と言っても、計算が苦手な息子には通用しないかもしれないが。加えて、息子は加減というものを知らない。その時に夢中になっているものだけで頭がいっぱいになってしまう。

 小学生の時には発達障害だと言われ、歳を取る毎にそれが知的障害に変わった。とは言っても、施設に入らなければいけないほどの重篤なものではない。

 赤ん坊の時から引き続きニコニコと笑顔を絶やさない穏やかな性格の息子は、人とのコミュニケーションも良好に取れるし、勤めにも出れる。こうして料理や洗濯もこなせるのだ。

 ただ、ちょっとした時に天然を発揮してしまう程度。だと、彼女は思っていたから。

 別に、有名大学に進学するだとか、医者になるだとかいういうことでは全然ないのだ。少しくらい知能が遅れていようが、健康な体さえあれば困ることはないでしょと、いくら教師や周りが騒いでも彼女は別段気にしなかった。

 そんな彼自身のこととは別に、彼女は何かにつけて首を捻らざる負えない。

 いくら軽度の知的障害があるからとは言っても、人間不信のあたしのところに、どうしてこんな純真無垢な息子が送り込まれてきたのだろうか?

 あの時、孤児院の目の前まで息子を連れていきながらも連れ帰ってきてしまったのは、冷えた彼女の指を温かい息子の手が握ってきたからではない。

 門前に院長らしき老婆がいたのだ。

 老婆は、彼女と赤ん坊を見るなりニッコリと笑って「可愛いお子さんですね」と言った。

 彼女は仕事終わりで化粧が崩れたドギツイ顔をしていて、忘れられたクリスマスツリー飾りみたいな派手な恰好だ。真っ赤な爪に抱かれた不自然な赤ん坊。親子に見える訳ないだろう。

 それなのに、あのババアはそんなことを言ったんだ。失敗したって思ったよ。見抜かれてるって。そんなんで置いて行ける訳ないだろう? だって、あたしがコイツの産みの母親ってことになっちまう。だから、逃げるようにして連れ帰るしかなかった。それだけのことなんだ。

「あんた、仕事はうまくいってんのかい?」

 息子は、ニューハーフクラブのボーイをしている。

 息子の天然なところがどうやらニューハーフのホステス連中に受け、だいぶ可愛がられているようで、先日のバレンタインには大量のチョコを持って帰ってきていた。

「うん。オネエさん達に返すホワイトデーの準備もバッチリだよ」親指と人差し指で丸を作る息子。

「それはいいけど、髭は剃ってから出勤しな」彼女はご馳走様でしたとお椀を置く。

「今日はオフだもーん」

 伸びながら後ろにひっくり返った息子を、風で翻った白いカーテンが包みこんだ。その向こうにはためく洗濯物と青空。なんだか平和な眺めだ。

 彼女は、お椀を二つ重ねて流しに持っていく。

 冷蔵庫を包囲するキャベツを睨みながら献立を考え始めて、ふと笑いが込み上げた。

 一人の時は、キャベツがここにあるとか、それを使った料理を考えるなんて無縁だった。寝床として帰るだけの部屋は多分、年中カーテンが閉まっていて布団は敷きっ放し。風呂もトイレも汚れるに任せて、掃除は疎か洗濯すら稀な生活。

 この穏やかな生活としての風景は、息子が居てこその風景なのだ。

 赤ん坊の息子を育てるために、変えざる負えなかった結果としての生活。悪くないけど。

 ふと、視線を滑らすと、キャベツに混ざって見慣れない角張った酒瓶が佇んでいた。長方形の黒い蓋には「DISARONNO」とゴールドロゴが刻まれている。メープルシロップのように濃厚な琥珀色をした液体が目を引く。彼女が凝視していることに気付いた息子が上半身を起こした。

「あーそれ、飲んだらダメだよ」

「あんた下戸のくせして、なんだってこんなもん」

「ホワイトデーにあげるお菓子の材料」

 息子はみそ汁も得意だったが、お菓子作りも頗る上手かった。上手いというかプロ級の腕前を持つ。小学校の家庭科で初めてクッキーを作って感動したらしく、それ以来、お菓子作りに夢中になったらしい。そのお陰で、狭い台所には不似合い過ぎる立派なオーブンレンジが鎮座している。珍しくせがむ息子の誕生日プレゼントとして買ったものだった。息子は、小学校を卒業する頃には洋菓子を完全に制覇。その菓子作りのセンスを見込んだ近くのケーキ屋がアイデアを求めにきたこともあるほどだ。一時期は、パティシエを目指そうとしていた息子。当然、専門学校に行かせるつもりで手当てを使わずに貯金していたのに、直前になって行かないと言い出した。どうしてなのかと、彼女がいくら理由を聞いても「行かない」の一点張りの息子。結局、今はニューハーフクラブで時々茶菓子を作る程度だ。せっかくの才能を生かすことができなかったので、残念ではある。

「このアマレットを使ってパウンドケーキを作るんだー香りがすごくいいんだよー」ホラぁと蓋を開けて、瓶の口を彼女に向ける。どこかで嗅いだような香ばしい甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

「今朝、おじぃちゃんにもらったんだー」と大事そうに蓋を閉める息子。

 息子の屈託ない笑顔に一瞬有り得ない想像が彼女の脳裏を過った。まさか、ほんとうの祖父・・・とか?

「おじぃちゃんは、車イスに乗ってたから自動販売機のボタンに手が届かなくて困ってたんだ。だから、オレが代わりに押して上げた」得意げな顔をした息子の言う老人は他人であるらしいという事実に、ほっと胸をなで下ろした彼女には頭には、自分はなにを不安に思ったのだろうかと混乱が生まれた。

「そのお礼にって、くれたんだ。やっぱ、人に親切にすると気分がいいねー」

「随分と気前のいいジイさんだこと」混乱を収めようとして捻くれたコメントを発する彼女。

「人生を変える一本をとか言ってたよ。それで、オレ思ったんだ。あのおじぃちゃんはきっと占い師だ」

「酒を一本くれただけで、なんで占いになるんだい」

「車イスの後ろにかかってた大きな袋からコレ取り出したんだけど、他にも色んな種類の瓶が何本も入ってるのが見えたから。あのおじぃちゃんは、その中から適当に抜き出したんだ。アマレットをさ。すごくない?」

「さっぱりわからん。いったいなにがすごいんだい?」

「だって、オレがホワイトデーのお返しのことを考えてた時だったんだよ。そしたら、このアマレット!調べたらドンピシャで製菓材料だったんだ。おじぃちゃんはオレの悩みがわかってたんだよ」目を輝かせる息子。

「ほんとにそうなのかねぇー・・・あたしにゃ、後付け解釈にしか聞こえないけどね。そもそもコレ、製菓専用なのかよ? さっき飲むなって言ってたけど飲めるんだろ。普通に酒としてさ」

「もちろん飲めるよ。リキュールだもん。アマレットを使うカクテルだってある」

「ほらな? ジイさんは別に、あんたの菓子作りのアイデアとしてくれたんじゃないのさ。偶然だよ偶然。なんとなく手に触れたからそれを選んだだけで。きっと深い意味なんてないのさ。ただ、その偶然がきっかけになって、あんたの悩みが勝手に解決したってだけ」彼女は話しながら煙草を口に持っていく仕草をしていた。

「そしたら、人生を変える一本っていうのはどういう意味なんだよ?」息子が口を尖らせる。

「そのジイさんが、その酒飲んで人生が変わったとかじゃないのかい? 知らないけど」

「変わったのはいいほうだったのかな? それとも悪いほう?」

「知るか。なんでジイさんのことをあたしが知ってるんだよ」

 苛々と吐き捨てた彼女は、干しかけの洗濯物を思い出してベランダに向かった。そうしながらも、あの甘い匂いが記憶のどこに引っ掛かっているのかを手繰り続けていた。

「別にいいもん。きっと、オレにとっては人生を変える一本なんだから。だから、勝手に飲まないでよー」

 息子は彼女に向かって舌を出すとアマレットをキャベツの間に埋めた。キャベツで守っているらしい。

「そんな甘ったるいの誰が飲むかい」

 彼女は酒飲みだが、甘い酒は苦手だった。男勝りで、もっぱらビール、ウィスキー、日本酒、焼酎、スピリッツを水割りかロックかストレート。カクテルなんて見た目だけのジュースみたいなものお呼びじゃない。

 いつでもどんな時でも男に負けずに自分を保ってきた。それがあたしのプライド。でもそんなんだから、他人が全力で甘えてくるのかもしれない。それから徐々に撓垂れ掛かってきて、それでも飽き足らずに倒れ掛かってきて終いには乗っかってくるのかもしれない。あたしは乗り物か。苛々するわ。

 洗濯物を干し終えた彼女の耳をテレビの音がくすぐった。部屋に入ると、昼のワイドショーが流れているテレビの前で横向きに寝っ転がった息子が眠っている。彼女は毛布をかけてやりながら、そう言えばと気付いた。

 コイツと暮らすようになってから、ジャンケンして順番でも決めていたように次々と押し寄せていた人災がすっかり形を潜めている。代わりに押し寄せてきたのは息子関係のことばかり。

 保育園、手続き、役所、学校、保護者会、PTA、運動会、授業参観、連絡網、勉強、受験、成績・・・つまり子育て。やれやれだ。人災よりも厄介で面倒臭いものだった。

 コイツのお陰で、あたしの人生は百八十度様変わりしちまったんだよなと今更ながら思う。

「ふきだまり」の連中には、息子のことを内緒にしている。

 言ったところでバカにされて面白おかしい話の種にされるのがオチだからだ。冗談じゃない。

 一回だけ、息子と買い物をしている時に、常連の年寄り爺さんと腕を組んでいたブーブーと鉢合わせしたことがある。

 郊外にある大型のショッピングモールでだ。息子が店で履く靴に穴が空いたので新しい靴を見に来ていた。

 顔面蒼白になっていたブーブーは、さしずめ息子を年若い彼氏だとでも勘違いしてくれたらしく、その後常連からも散々冷やかされたが、適当に誤摩化すと暫くして立ち消えた。

 あいつらは、あたしの人生に興味なんてない。あるのはネタだけ。シングルマザーだなんて知れれば、たちまちシングルマザー狙いの勘違い男が押し寄せてくるだろう。そういう面倒臭いのは、もうご免。



 ある朝、彼女が家に帰ると、カーテンが閉め切られた暗い部屋に息子の姿はなかった。

 台所にはアマレットの空瓶が転がっているだけ。

 これまでにも何度か似たようなことがあったので、彼女は特に気にせずシャワーを浴びて夕方まで眠った。そして、夕方起きて出勤し、翌朝帰る。

 息子は帰っていなかった。

 台所にはアマレットの空瓶が変わらず転がっているばかり。

 一瞬、不安が過ったが、いくら天然だろうとも息子はもう子どもではなく年頃の中年間近の歳の男なのだと言い聞かす。彼女でもできたのかもしれないと放置しておくことにした。

 いい加減に片付けるかとアマレットの瓶を拾った時に、微かに甘い香りが掠める。ローストアーモンドのような匂い。

 やっぱり嗅いだことがあった。

 どこでだったか。アルコール漬けの脳みそはフワフワしていておぼつかない。彼女は諦めて眠った。

 夕方目覚めた。相変わらず息子は帰っていない。

 痺れを切らした彼女は、息子の勤務先に出向いた。

 怪しいネオンを放つ半地下のニューハーフクラブ。

 甘い匂いが充満している店内に足を踏み入れると、いっらっしゃいませぇーと極楽鳥を思わせる色彩を纏ったホステス達に出迎えられた。思いのほかがっしりとした体型に囲まれると、さながら警察に包囲された犯人のような心地になり圧迫感がすごい。

 息子が出勤しているかどうかを訊ねると、奥からこの店の重鎮と思しきホステスがのっしと現れた。

「あの子の行方なら、あたしたちのが教えて欲しいくらいさ」

 息子は、もうかれこれ一週間ほど店には出勤していないらしかった。

 困るのよと重鎮は溜め息をつく。

「ホワイトデーを最後に来てないってとこが、またなにかを示唆しているような気がするのよね」

「ホワイトデーには来てたの?」

「ええ、もちろんよ。律儀な子ですもの。あたし達全員に手作りの美味しいケーキを配ってくれてね。あの子は本当にお菓子作りが上手ね。アマレットの香りがする上品なケーキ。あたし、初めて食べたわ」

「その時になにか、話をしなかった?」

「話・・・? そうねぇ・・・これといって思い当たらないわ。あの子は、どうやって作ったかとか材料がなんだとかを嬉しそうに話していて、あぁそういえば、その時にあなたのことを言ってたわ。そうね・・・確か、母さんは甘いのが苦手だからとかなんとか」

 彼女は肩を落とした。そんなのわかりきったことだ。息子の手がかりにはなりそうもない。礼を言って店を出ようと席を立った彼女を重鎮が引き止めた。

「ちょっと待ちなさいよ。話には聞いてたけど、ほんとせっかちな女ね。それでよくあの子が育ったわね。あたしはまだ、最後まで話し終えてないわよ。このアマレットでも母さんは変わらないんだよって。あたしには、よく意味がわからなかったんだけど、とにかくそう言ってた。それが、あの子の失踪に関係あるかどうかわからないけど。あたしが覚えているのはこれで全部よ」

 帰り道。

 煙草が吸いたくなった。

 自販機の誘惑に負けそうな足下がふらつく。でもなあ、息子にも宣言したしなあーあいつが初めてあたしに止めてって言ったからなあ。

 雪が降ってきた。

 息子と出会った夜にも雪が降ってたねぇとぼんやり思い出す。そこで気付く。

 幼い息子を抱き上げた時に、微かにふんわりと甘い香りがしたことを。あの時の、あの香り。

 あの香りは・・・ふと見ると部屋の電気が点いている。

 扉を開けると、部屋中に甘い蒸気が充満していた。そう。アマレットの匂いだ。間違いない。

「あれ? おかえりー」

 エプロン姿の息子が、泡立て器片手に振り返った。

 いつもの笑顔で、今日は早かったんだねーと言いながらオーブンを覗く。

「洗濯物溜まってたよ。あとでコインランドリーに行かなくちゃー」トイレも風呂場も汚いしさーと、息子は口を尖らせてコーヒー豆を挽き出した。

 息子がいるいつもと変わらぬ風景だ。

「あんた・・・今までどこをほっつき歩いてたのよ」半分脱力した彼女の言葉に息子が意味深に笑う。

「心配してた? 母さんはいっつも心配性だからなー」はははと笑う髭だらけの息子。

 自分は心配性だったのかと言われて初めて知る。

 自分は実の親でもなんでもない無責任な立場だからと、だいぶ放任を貫いてきたはずだったのに。息子からしてみたら、そこらへんの心配性の母親とあまり変わらなかったということなのか。

「とりあえず、コーヒー飲もうよー」と、息子が煎れたてのコーヒーが入ったカップを並べる。甘い匂いがする。一口飲むと苦味が勝ったあたし好みのコーヒーなのにアマレットの甘い香りが駆け抜ける。

「合うでしょ? これなら、母さん飲めるねぇー」そう言って笑う息子。

 オーブンがチーンと悲痛な音をあげた。

 息子が運んできたのはアマレッティという名のビスコッティ。堅焼きクッキーだ。言われた通りに、コーヒーに浸して食べてみると甘さ控え目なのに甘い香りが広がり、たちまち彼女の空腹の胃を満たしていく。

「よかった。アマレットはとてもいいリキュールだから。オレ、大好きになっちゃって。そうしたら、母さんに、どうしてもアマレットを美味しく味わってもらいたくなっちゃって。オレ、ずっとどうすればいいかって考えてたんだー」そんなことを考えているうちにだいぶ遠くまで旅してしまったのだと息子は言っていた。

 遠くって、どこまで行ったんだか・・・

「あんた、バイト先を無断で休んでたんだって? ちゃんと謝んなよ」

「母さん、なんで無断欠勤のこと知ってんの? もしかして、オレを心配して店まで探しに行ってくれてた?」

「行くか!電話がかかってきたんだ!」なぜか照れくさくなって嘘をついた。

「はいはい。アマレットでティラミスでも作って持っていくよ。母さん、コーヒーのお代わりいる?」

 彼女の顔をニヤニヤしながら見て聞いてくる息子に、気持ち悪いねなんなんだいと睨み返す。

 息子は、言おうかどうしようかと少し勿体ぶっていたが、いやさーと口を切った。

「母さん、オレが母さんって呼んでも否定しなくなったんだなーって」主語をつけないの言いづらかったんだよねーと空のカップを手にして立ち上がる。

 言われて気付いた。そういえばそうだ。

 あたしは、自分の呼び方で母とつくものを呼ばせなかった。

 あたしは、総じて息子の母ではないからだ。

 育ての母といえば聞こえはいいが、なんせ拾った子どもだ。どちらかと言えば里親感覚。彼女自身も母になるつもりは毛頭なかった。小さな同居人。自分はただの保護者。保護して面倒を見る者。母なんてものではない。

 でも、それは言い訳だったのかもしれない。

 息子を拾って連れ帰った時点で、息子を息子だと認識している時点で自分は紛い成りにも母だった?

 わからないが、とにかくこの数日の間に、彼女の息子への意識は確実に変化したものになった。

 目の前で勝手に繰り広げられていた現象を初めて愛おしいと思い、呆れながらも心地好く感じている。息子が慌ただしい十代や二十代だった頃には感じられなかったことだ。今だからなのか。アマレットの香りが漂った。

「はい、母さん」差し出されたコーヒーには、目尻の下がった女の顔が映っていた。





 ※ディッサローノ・アマレット

 主原料となるシチリア島産のアンズの核を蒸留することにより抽出される芳香成分が、アーモンドを思わせる幻想的な甘い香りを持つイタリア産リキュール。ミラノ地方の銘菓、マジパンとアーモンドのブランデー漬けで作る「アマレッティ」というケーキの香りに似ていたので「アマレット・ディ・サローノ」=「サローノ町のアマレット」という酒名がつけられた。このリキュールの起源については一つの伝説がある。1525年イタリアのマリア・デッレ・グラツィエ聖堂において、画家であるベルナルディーノ・ルイーニがキリスト生誕のフレスコ画を描いていた。彼は、若く美しい女主人が経営する宿屋に宿泊。その女主人の美しさに惹かれた彼は、フレスコ画の聖母マリアの顔を彼女に似せた上に彼女の肖像画を描いて贈った。感激した女主人は、お返しにと言って手作りの甘い香りのリキュールを進呈。このリキュールが、のちのアマレットの始まりらしい。

 ケーキを思わせる甘い香りを持つだけあり「ダックワーズ」や「ブラン・マンジェ」を始めとしたデザートやお菓子には欠かせない存在である。ソーダやミルク、ジンジャーエールで割る飲み方が女性に人気だが、シンプルにロックでリキュール本来の味を楽しむのもオススメだ。カクテルとしては、ウイスキーと混ぜた「ゴッドファーザー」やウォッカと合わせる「ゴットマザー」ブランデーを加えた「フレンチ・コネクション」といった度数が強いものから、ウーロン茶と合わせた「イタリアン・アイスティー」まで様々な飲み方が楽しめる万能リキュールだ。杏仁豆腐の味と表されることも。

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