リキュールが奏でる物語

御伽話ぬゑ

アブサン

 深まる秋の夕暮れ。

 吹き絵で描いたような墨色の枝に包まれた薄緑色のグラデーションの空は、まるで罅割れた研磨前の橄欖石の中にいるようだ。見たことがない珍しい空の色だと彼は思った。不吉の前兆にも捉えられ、帰路を辿る革靴がどんより重くなる。

 どこにも寄れずに真っ直ぐに帰宅するしかない己が呪わしかった。

 かと言って、職場の連中と飲みに行く気にはならないし、誘ったところで、のらくらとかわされるのがオチだ。

 定年過ぎてもグズグズと居座るとはそういうこと。だが、再雇用してもらえなければ食いぶちすらも危うい我が身。家のローンが完済しているのだけが唯一の救いだった。職場ぐるみで煙たがられているのだ。今更、交流や機嫌伺いもないだろう。

 彼は、溜め息をついて再び夜空を仰いだ。

 今夜も妻は、スーパーの総菜を、プラスチックパックのまま一個、多くて二個並べただけの夕飯を用意しているのだろう。

 自分は先に食べているらしく、台所は料理をした形跡があるのにも関わらず、食卓に乗っているのはいつも、値引きシールがベタベタ貼られたでき合いのおかずと、インスタントのカップみそ汁だ。

 それでもまだ用意されているだけマシだと思い黙っているが、カップラーメンがぽつんと置かれていた時にはさすがの彼もムッとした。

 若くして産んだ娘達はとっくに成人して、何年も音沙汰がない。

 夫婦二人だけの生活になってからはずっとこの調子だ。怒る気も失せてしまった。

 エステ通いを常とし、七十目前だという事実を全く感じさせないほど若々しく派手好きな妻は、旦那をATMくらいにしか思っていないのだろう。ATMにしては残高が少ないが、ないよりマシなのであろう。

 どうやら、外に若い恋人がいるらしく、その男を呼んでは毎日我が家で夕食を共にしているのだと、先日近所の噂好きの主婦が話しているのを偶然聞いてしまった。そんな事を聞いたからだろうか、仕事が終わると嫌な気持ちを抱えながらも直帰するようになった自分は、どうかしていると思う。

 妻の浮気現場を抑えたいのか、惨めな自分を突きつけられたいのか、それとも今まで積み重ねた幸せと思っていた過去を諦めるためか。

 いずれにせよ、日々0.01ミリ単位で、妻に薄く薄く削られていった自分の変わり果ててしまった心が元の形に戻ることは、これから先、きっとないだろう。

「こんな歳で、そんなもん気付いたところでどうしようもないさ、見て見ぬ振りをすりゃあいい。それしかないだろ?」

 飲み相手だった旧友の言葉が何度も蘇ってくる。

 大学時代からの付き合いだった彼は、肝臓をやってしまい、去年、呆気無く逝ってしまった。

 浮腫んで黄色くなった別人のような死顔を見た時、旧友が言っていたこんな歳ということがどういうことなのかを実感したのだ。

 確かに、今までがむしゃらに働いて築いてきた地位と家庭を、こんな人生の後半になって断捨離する勇気ある選択はできそうにない。けれど、自分より年若い男と浮気する妻と、再びやり直す気力も残ってはいなかった。

 従順な犬のように真っ直ぐに家に帰ってくる頭皮が透けて見える夫を、さぞかし疎ましがって、その男と一緒になってバカにして笑っているのだろうと思うと、年甲斐もなく腸が煮えくり返る思いがする。

 熟年離婚という言葉が浮かんでは消えていく。

 一体どこの時点で、こんなにズレてしまったのか。

 足取りと同じくらい重たい溜め息をついて、掌で乱暴に顔を擦った。

 右手に提げた愛用の鞄が上下する。新婚ほやほやの時、誕生日に妻からプレゼントされた鞄はすっかり擦り切れ、薄暗闇でもわかる程に色褪せ、あちこちに綻びができていた。こまめにメンテナンスをしていたつもりなのに、いつの間にかすっかり古ぼけてしまっていた。

 今の自分達もこの鞄と同じだな。そう思うとやり切れなかった。どうしてなのかとお馴染みの疑問が浮かんでこないくらい、あまりに怠慢に時を重ね過ぎてしまったのかもしれない。

 また1つ溜め息が出た。緑の空はすっかり夜の帳に覆われている。今夜は月もない。

 ・・・疲れたな

 少し先にある街路灯のぼんやりした光を見つめながら、この時間には、人気のない暗い生活道路の真ん中で棒のように立ち止まった。足が一歩も前に出ていかない。

 食欲をくすぐるような匂いと共に、テレビの音に混じった笑い声がどこからか聞こえてきた。かつての我が家が重なり合い、懐かしさが込み上がると同時に虚しくなった。

 ・・・おれは今まで、何のために一生懸命やってきたんだろう?

 彼の問いに答えるかのように、唐突に不思議な爽やかさのする濃厚な香りが鼻腔に潜り込んできた。

 エキゾチックな吐息を吹きかけながら手招きする怪し気な美女のようなその香りは、彼の嗅覚から全神経を一瞬で支配してしまった。彼は香りに蠱惑されるままに街路灯を通り越し、その先の闇の中に取り残されたようにぽつんと灯る光に向かって夢遊病者のようにふらふらと歩いていった。

 光は、影絵の木々に包まれるようにして佇む細長い街灯。公園の入り口を暗示するU字型の車止めバーの輪郭をなぞる。

 彼は、香りに誘われるままに公園へと足を踏み入れた。

 この公園には浮浪者が屯す物騒な一角がある。香りはそちらから流れてくるようだった。

 彼は一瞬躊躇したが、気を取り直して進んだ。水飲み場を中心に段ボールで作成された住宅が立ち並ぶ中、香りを頼りに奥へと分け入る。少し行くと奥まった茂みの近くに一際貧相な段ボールハウスが風に揺れているのを見つけた。

 出入り口と思しき所には着膨れた猫背の男が座っており、逆さに伏せた段ボール箱の上にはプラスチックのコップが置かれている。香りの発生源はここらしい。

 彼は立ち止まって、男の様子を眺めた。

 目深に被ったキャップの橋から食み出す白髪混じりの頭髪と無精髭。マスクを片耳に引っかけて、乾燥した口許にぼんやりした速度でコップをあてがっている。

「一杯、千円」マスクをした男が不意に顔を上げた。

 影に覆われて顔や表情はわからないが、嗄れていない低い声の感じから中年くらいだとわかる。男は、座りなよと続けた。

「見下ろされるのは好きじゃない」キャップの奥から射るような視線を向けられた彼は、ぶるっと身震いすると、思わず「すみません」と口にした。なにかあると、すぐ謝ってしまうのは彼の悪い癖だ。

 男は「そこに」と、段ボールテーブルの向かい側を指した。

「いえ。なんの匂いだろうと思っただけでして」彼は必死に辞退しようとしたが、男が憮然と指差し続けるので屈まざる負えない。

 膝を擦りながら片膝立ちになった彼に、男は掌を突き出してきた。

「千円。この匂いに誘われてきたんだろ?」男は段ボールの下から、古びた瓶を大切そうに取り出した。

「とっときだ」

 男が誇らしげに掲げたガラス瓶の中で、エメラルド色の液体が街灯の光にギラッと煌めいて彼の目に刺さった。目を細めた彼に、男は再度どうするのかと聞いてくる。

 彼はフラフラと財布を取り出した。

 普通ならこんなところで怪しげなホームレスが飲んでいる怪しげな酒なんて目もくれなかっただろう。ところが、今夜の彼は半ばやけくそだった。自分の人生に対して。これまでの自分がしてきた選択に対して。今、自分に残ったものに対して。すべてに対して疑問だらけだ。だからだろうか。普段はしない行動をしてみたくなったのだ。

 普段嗅がない匂いを辿って、普段立ち寄らない場所に足を踏み入れた。極めつけが、この緑色の酒の誘惑だ。一杯千円はちと高いなと思うが、ちゃんとしたバーでもそのくらいはするだろうと、自分への言い訳を用意した上で千円札を取り出した。

 男は代金を受け取ると、ハウスに潜り、すぐに這い出てくると、テーブルの上にガラスのゴブレットと、虫食いだらけの木の葉のような穴の空いた銀色のスプーンを並べた。次いで角砂糖を取り出してスプーンの上に乗せる。見覚えのあるセット。これは何だったかと、彼は記憶の糸を必死に手繰り始めた。そうして自分は、若い頃、バーテンダーコンペティションに何度も出場するほどの腕を持つ一端のバーテンダーだったことを、今更のように思い出した。

 ゴブレットに宝石のように輝く液体が注がれる。薬草系リキュールだとわかった。

「あんたは運がいい。こいつぁ滅多にお目にかかれねぇ上物よ」

 男は、すきっ歯の口でにやあっと笑いながら、グラスの上に角砂糖を乗せたスプーンを設置。そして、取り出したスポイトで、水を一滴ずつ角砂糖の上に垂らし始めた。一滴毎に白濁して香り立つ神秘的な液体に魅入りながら、彼は思いの淵に佇む。

 運がいい・・・このおれが?

 これまでの人生で、ついてると思った記憶を一つも掘り起こせないのにか?

 いや、わからないな。人はいい思い出ほどすぐ忘れて、悪いことばかりを覚えているというから、もしかしたそんな瞬間が数え切れないほどあったのかもしれない。だが、と彼は思う。運がいい割には、この体たらくだ。

 彼の出世は遅かった。不条理な尻拭いばかりの主任時代を経て、40後半になってようやく昇進した課長職。ところが、部下たちは掌を返したように冷たくなり、隔たりに耐えながらの毎日だ。そして、巣立った子ども達からの音沙汰はなく、妻は日々せっせと浮気に励んでいる。必死に働いて堅牢に築き上げてきた家庭が、実は、脆い砂でできていたのだとやっと思い知る。気付いた時既に遅し。砂は崩れ始めていて、自分の帰るべき安心できる場所など、どこにも存在しなかった。

 彼は、角砂糖から零れ落ちる甘い雫が、白い衣を纏いながら白緑色の液体に溶けていく様を見守る。

『僕は運がよかった。君は運が悪かった。ただ、それだけのことだ』

 どこからか、若い男の声が聞こえた。彼はその声に聞き覚えがあることを思い出す。

 そんな彼の前に、男はすっかり月光色に変わった酒を溶け残った角砂糖が乗ったスプーンごと置いた。

 好みでと言われた通りに、まずはスプーンを脇に避けてグラスを手に取る。先程から漂っていた、えも知れぬ癖があるが繊細な香りが、強烈に彼の鼻腔から体内に侵入してきた。次いで、一口目を飲む。死んでいた感覚が目を覚ますような強烈な酒だ。

 歯磨き粉のような強いミントの香りに混ざるアニスやコリアンダー、カモミール、オレガノ等の香りの強い薬のような苦み、なんて度数の高い酒なんだと思うのだが、喉元を通ると爽やかさに巻かれてその事を忘れ、また口をつけてしまう。病み付きになりそうだ。だが、酒の名前はわからない。

 ここまでの強烈な酒、一度飲んだら忘れないはずなのだが。バーテンダー時代には、あらゆる種類の酒を試し、猛勉強した知識をひけらかしていたことを思い出した彼は、加齢とはつくづく悲しいものだなと情けなくなった。いや、知識など所詮は砂の一部だ。器が古びて脆くなれば隙間から溢れていってしまう。

 気付けばグラスは空になっていて、彼は再び財布を取り出していた。

 男は、溶け残った砂糖を舐めていたが、彼が差し出した札を見ると、にやあーと卑しく笑った。

 準備をするために再びハウスに潜っていく男の後ろ姿を、ぼんやりと見ている彼の脳裏に突如鮮明な映像が浮かんだ。

 整頓されたボトル棚。間接照明に彩られた店内。高級そうな服を身に纏い談笑する客の背中。

 カウンターの中でリズミカルにシェーカーを振っている希望と、自信に満ち溢れた年若いバーテンダーたちは、蝶ネクタイをキリッと結び、黒のベストと白いワイシャツがコントラストになっている。

 粉雪のような塩に縁取られたカクテルグラスに、シェーカーの中味を華麗に注ぎ、塩に触れないように慎重に提供している。

 マルガリータだ。

 テキーラ、ホワイトキュラソー、レモンジュースとシンプルな材料ながら、シェーカーの振り方や強さ、温度によって味が全く違うものになってしまう、基本であるが故に難しいとされるマルガリータ。

 そうだ。マルガリータは、おれの十八番。指名をもらうほど得意なカクテルだった。

 這い出てきた男が、先程と同じようにスプーンの上に角砂糖をセットした。グラスに酒が注がれる。甘美な雫がゆっくりと落下していく。その一滴ごとに、彼の眠っていた記憶が一つ又一つと花開くように思い出されていくのだった。

 氷を削る音。巨大な氷を等分にして丸く削っていく。

 大きな丸氷はロック用で、小さな方がコリンズグラス用の氷だ。溶けにくいように必ず氷は丸くしていた。これも、ゆっくりやっていると手の温度で溶けてきてしまうので、スピードと技術が必要な作業だ。そうだそうだ。店で誰が一番速くて綺麗かを店長も含めて仲間で競った事が何度もあったと、笑みが漏れる。

 また一滴が落下して、彼の記憶が開かれていく。

 当時の店の仲間。学生だった奴、脱サラした奴、司法試験のために勉強してた奴、大学受験に失敗して浪人してた奴色々いた。職業柄男が多い。だが、1人だけー

 最後の一滴が作った波紋が、瑪瑙のような白緑色をした怪しく美しい液体に広がっていく。

『僕は運がよかった。君は運が悪かった。ただ、それだけのことだ』

 彼がグラスに口をつけた瞬間、再び若い男の声が聞こえた。それが、若かりし頃の自分の声だと気付く。けれど、いつ誰に向けて放った台詞なのか肝心なところがハッキリしない。

・・・薄情な人ね

 口に含んだ酒を香りを転がすようにして喉を通過させた時、突如、小鳥が囁くような声に耳元をくすぐられた。驚いた彼が慌てて男に視線を移すと、緑色の女と目が合う。男はと見回せば、離れた木の下で煙草を燻らせている退屈そうな背中が見えた。

 彼の目の前で体育座りをしているその女には見覚えがあった。

 忘れるはずがない。女がにっこりと太陽のように笑む。間違いない。幸子だった。

・・・薄情な人

 満面の笑みをたたえた緑色の幸子が繰り返す。

 誰にでも分け隔てなく降り注ぐ笑顔。新緑の草原のように明るく優しい性格。本当に好きだった。彼は我を忘れて久しぶりに再会した彼女を見つめる。

 あの頃、仲間は残らず紅一点の幸子が好きで、告白をするタイミングを常に狙っていた。

 彼は、そういう類いが苦手で、いつも関心のない振りをしていたが内心では一喜一憂の波に振り回されていたのだ。仲間に負けないくらい彼女が好きなくせに、話しかけられたらぶっきらぼうな返事しかできなかった歯痒い自分を思い出す。それなのに・・・

 彼は、溶け残った砂糖が乗ったスプーンで酒を乱暴に掻き回す。強く香りが立つ。幸子の目が光る。

・・・バレンタインには、お手製のチョコをあげたよね

 そうだ。でも、おれは義理チョコをわざわざ手作りするなんて律儀なんだなと捻くれたことを考えてしまい、今忙しいからロッカーにでも入れといてよ、と彼女を遠ざけた。

・・・クリスマスには手編みのマフラーだったね

 そう。手編みに見えないくらい、よくできた焦げ茶色のマフラーだった。そんな凝ったものをプレゼントされるくらいなのだから、彼女の気持ちだってわかりそうなものだ。それなのに、どうしてだか、当時の自分は鈍感で変に湾曲した考えをしていた。あのマフラーも手編みなのが重くて、滅多に巻かなかったんだ。一回だけ、店の買い出しでたまたま巻いた時に、彼女はよく似合ってると何度も褒めて喜んでくれていたのに。

 きっと、両思いだった。それなのに・・・

 彼は一気にグラスを煽った。

・・・私は本気だったのに

 幸子が顔を歪めて思い詰めたように氷を割る彼の背中に話しかけている。背を向けている自分の表情は窺い知れないが、作業に集中していたとしたら無関心な返事をしていたのだろう。いつもそうだ。幸子が何かを言ってくる時は、仕事の事で頭が一杯になっている時が多かった。

 営業に関わることだけではなく、季節のカクテルレシピ考案や、コンペティションに向けてのアイデア。それまでの実績が認められ、店長にも頼られ、バーテンダーとして一番脂がのっていた時期だ。無理もない。

 先輩が、本気で幸子を口説きにかかっているのだと聞いても関係ない顔をして放置していた。曖昧な態度の自分と、ストレートな愛情を打つけてくる先輩との間で幸子が触れ動いていた気持ちが今ならわかる。

 覚えているのは、仕事の多忙さと比例するようにして幸子との関係が上手くいかなくなっていった記憶だけ。けれど、直接的な原因はなんだったのか、決定打はいつだったのかは思い出せない。気付いた時には、彼女との距離は離れ、他人行儀の間柄になってしまっていた。

 彼が顔を上げると、幸子の代わりにいつの間にか男が座っている。彼はゆるゆると財布を取り出した。

 三杯目が準備される。男が幸子に見えてきていた。

『僕は運がよかった。君は運が悪かった。ただ、それだけのことだ』

 言い逃れはできない。この台詞は、自分が彼女に向かって言った。

 僕は『君と過ごせて』運がよかった。『だけど、』君は『僕で』運が悪かった。ただ、それだけのことだ『から、気にしなくてもいいのだ』と。きっとこれを言われた時に、彼女の心に変化があったのだろう。突き放されるような言葉を受けて、彼女はどれほど傷ついたのだろう。幸子の思いを受け止めようとせず逃げていたのは、他でもないおれだ。

「ストレートは外せねぇ」

 スプーンが乗った空のグラスが彼の前に置かれたかと思うと、森の奥にひっそりと湛えられた湖を思わせるエメラルドグリーンの酒が角砂糖めがけて注がれた。たちまち春の木洩れ陽のような甘美な液体がグラスに満たされる。今までのものとは違った荒々しさが香り立つ。

 幸子への愛情を容易く思い出せる程、彼女のことが大好きだったのに、最後まで思いを告げることをしなかった自分。

 いや、しようとしなかった。怖かったんだ。

 自分が思いを告白することで、彼女と過ごす幸せな時間が壊れてしまうかもしれないと思うと怖くてできなかった。いや、今更そんなこと、言い訳に過ぎない。彼女が自分に構うのはなぜかなんて考えようともせず、ただ、楽しく幸せな時間が永遠に続いて欲しいと勝手な願いを抱いていた愚かさ。彼女を好き過ぎて大切過ぎて壊したくなくて、けれどあの頃の自分には自信がなかった。彼女を幸せにできる自信は疎か、彼女の要望に答えられる自信すらなかった。幸子には誰よりも幸せになって欲しかったし、彼女が幸せになるのなら、相手は自分でなくてもいい。あんな台詞を吐いて逃げに徹するほど情けない男だったんだ。

 今ならどうか? いや、自分は今も昔も対して変わっていない。どのみちうだつが上がらない体たらくだ。ゆえのこの様。

 結局、幸子は先輩と付き合い、ほどなくして二人は揃って店を辞める。

 それから何年後かに風の噂で、二人が結婚したらしいことを知った。

 彼は翡翠のような色に変わった角砂糖を口に含んだ。記憶が加速していく。

 彼女の喪失と激しく痛む胸に苦しみ、結婚したという噂を聞けば、安堵すると同時に落ち込んだ。自分はひたすら矛盾していると思う。

 幸子が店を去ってから数年後に、一般企業に就職した。親の手前、いつまでもアルバイトでいるわけにはいかなくなったのだ。

 店の店長から引き止められ、社員にならないかと誘われたが、無下に断ってしまった自分。あんなに燃え盛っていたバーテンダーとしての情熱がすっかり消沈しているのがわかった。こんなものだったっけ? 我ながら呆れた。この程度のもののために幸子の気持ちを踏み躙ってしまったのかと。彼女とは関係なく、仕事は仕事でやり甲斐があって面白かったはずなのに。

 何処かで彼女の存在を引きずっているのか、それとも後悔しているのか。どちらにせよ、当時の自分は考えなかったので、わからず終いだ。

 就職後は、営業の平社員で散々扱き使われ、面白味を感じられない仕事の成績を伸ばす事にだけ集中して、楽しくもない接待に付き合って、思ってもないお世辞を並べて取引先の機嫌を取ることだけに心血を注いだ。

 妻は取引先の会社の受付嬢だった。

 派手な顔つきをした女性は苦手だったが、上司の強引な仲介があり、やむなく夫婦にならざる負えなかったのだ。愛しているかと聞かれれば、首を傾げる相手。それでも、一男一女の子どもを授かり、立派に育て上げたと自負している。けれど・・・

 常に虚無感が纏わり付いてくる。

 仕事をして、家に帰れば肩身を狭くして飯を食い、風呂に入って寝るの繰り返しの毎日。生きる為に働く日々に、答えのない疑問を感じることがよくある。例えば朝の満員電車の中で。例えば残業で遅くなり誰もいなくなったオフィスで。上手く商談がまとまった帰り道に、ふと浮かんでくる虚しさを気付かぬ振りをして生きてきた。

 今ならわかる。

 もし、あの時、幸子に自分の思いを伝えていたのなら、何かが変わったのかもしれないこと。この人生が全く違うものになっていたのかもしれないこと。

 叶わなかった、いや叶える気のなかったもう一つの未来の可能性を未練足らしく考える。

 人生にはターニングポイントがあるというけれど、もしかしたら、あの時がそれだったのかもしれない。幸子と一緒にいたら、もしかしたら、おれは今もバーテンダーだったかもしれない。自分の店を持って、もっと自由に、もっと大胆に、誰に気兼ねなく生きられたかもしれない。あの時に、きちんと彼女と向き合っていたのなら。

・・・あなたの人生を私のせいにしないで

 呷ったグラスに透けて幸子の怒ったような顔が見えた気がした。

 君のせいにした訳じゃないんだと詫びの言葉が口を突く。突っ伏した彼の脳内では、今や無数のスクリーンに、今までの過去が高速再生されている。

 誰かと繋いだ手。罵倒してくる泣き顔。親の困った顔。思わず見とれたウエディングドレスから覗いた白いうなじ。小さな命。侘しい夕飯。気分が悪いのに最高にハイだった。おれは結局、何がしたかったんだ?

「もう、いいんじゃないのか・・・全部捨てても」口から零れた言葉は乾いていた。

「本当にいいのか?」

 聞き覚えがある声に彼が顔を上げると、男が睨んでいた。彼は思わず息を呑む。

 男は目深に被っていたキャップを取り、顔が露わになっていた。その顔。痩せこけた頬を雑草のような白髪混じりの髭が覆い、生気のない眼は落ち窪み、ガサガサに乾燥した唇。変わり果てたその顔は、彼、だった。

 どういうことだ? どうしておれが? 

 いや、嘘だ。この男はこんな顔をしていなかったはずだ。

 記憶をおぼつかなく手繰ろうとしても、無駄だった。霞がかかったようにここまでの記憶が曖昧だ。

 目の前にいる男がおれだとしたら、このおれはなんだ? 誰だ? 誰なんだ?

「背負っているものを全部捨てたら、人生をやり直せると思っているのか?」

 わからないわからないわからない。彼は頭を抱える。なおも自分の声が鳴り響く。

「お前が背負っているものは、お前が選択してきたものじゃないのか?」

 自分の顔と幸子の顔が重なっていく。もう誰なのかすら彼には判別がつかない。

 わからないわからないわからない。おれにはわからない。自分の声は続く。

「そうやって、いつも、わからないままで、考えることをしなかったからだ!」

 彼は、凄まじい悲鳴を上げながら、這いつくばって逃げ出した。

 まるで化け物に追われてような形相の彼が車止めバーの横をすり抜けた時、あの魅惑的な緑の酒がアブサンだと思い出した。

 ーアブサン

 主原料のニガヨモギに幻覚作用のあるツジョンが含まれるがゆえに、数多くの中毒者や廃人、自殺者を産み出した悪魔の酒である。なんてものを飲んでいたのかと、麻痺した頭の片隅から後悔が滲み出ると同時に彼に小さな安堵をもたらした。やはり先程の男は別人で、自分と同じ顔ではなかったのだろう。あれは、アブサンが見せた幻だったのかもしれない。でなきゃ、あんな、あんな奇跡みたいなことがあって堪るか。そこまで気丈になってはみても確かめにいく勇気はない彼は、汗みずくになりながら浮気に勤しむ妻がいる自宅への帰路を一目散に走っていく。

 アブサンの効果なのか、それまで彼を支配していた湿気ったペシシズムはどこへやら、妻が浮気していようがなんだろうが知ったこっちゃない、どうとでもなれよ!そんなオプティズムな爽快さだった。腹の底から笑いが喉元まで迫り上がってくる。

 彼は喘ぎながらハアハアと笑った。

 こんな様子を見て、妻と妻の浮気相手はさぞかし気味悪がって嫌な顔をするのだろう。だが、構わない。

 それでも、おれはもう構わないんだ!はははははー!


 一方公園では、彼の後ろ姿が闇に溶けたのを見届けた男が、音もなくにやりと笑っていた。

 その顔は、彼とは似ても似つかないものだった。

『僕は運が悪かった。君は運がよかった。ただ、それだけのことだ』





 ※アブサン(アブサント、アプサン)

 薬草系リキュールの一つアブサンは、1970年に医師ピエール・オーデイネール博士によって製造された。ニガヨモギを香味の主原料として、アニス、アンゼリカ、フェンネル、スターアニス、シキミ、コリアンダー、パセリ、カモミール、クワガタソウ、パームミント、ヒソップ、オレガノ、カラマス、メリッサなど十五種類を使用。他のリキュールとは一線を画す独特な香りを放つ薄い緑色をした液体は、水を加えると非水溶性分が析出し白濁する特性がある。また、アルコール度数が高く、七十℃以上のものが一般的で中には八十九を越えるものも存在する。ペルノ社によってヨーロッパ各国で拡販され、安値で手に入りやすかったことから気軽に買える酒として流通し、ゴッホを始めとした芸術家を中心に愛飲された。が、主原料であるニガヨモギに含まれるツジョンが、神経系統を犯し幻覚作用をもたらすために中毒者や犯罪者が増えてしまい、1915年にはフランスでアブサン禁止令が発令される事態となってしまう。魔性の酒、悪魔の酒と呼ばれる由来はここにある。二十世紀初頭にはスイス・ドイツ・アメリカなどでも製造から飲用全てが禁止された。その後、ニガヨモギを使わないアニス、リコリス風味でアブサンに似た香味の酒が作られ発売されている。

 飲み方としては、ドリップの他、ソーダやトニックウォーターで割ったり、「コンチネンタル・ハイボール」や「アブサン・グラスホッパー」「モンマルトル・ミュール」などのカクテルにしても美味しい。どれもマイルドな飲み口なので、禁断の酒の味を気軽に味わうことができるだろう。

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