第23話 私に興味がないのですね
陽依とのデートから一週間が過ぎた。
あれ以来、陽依との距離がより遠くなったのは言うまでもない。目が合うたびにナイフを突きつけられているような感覚がする。
「────どうしましたか? お兄様」
俺が台所で野菜を切っていると、背後からひょっこり陽依が顔を覗かせる。
「手が震えていますよ?」
「……これは武者震いだ」
「なぜ野菜相手に武者震いを?」
刃物を怖がっているわけではないはずのだが、なぜか包丁を持つと小刻みに手が震えてしまう。そのせいで切った野菜は全てガッタガタだ。手で千切ったのかと思うほどサイズ感がまばらである。
料理は続けているのだが、一向に上達する気配がない。松波はまだ学校に顔を出していないので、昼飯は自分で用意しなくてはいけないわけだが、マシな弁当を作るにはまだまだ時間がかかりそうだ。
なにせ、俺が作る弁当はこの俺の馬鹿舌をもってしても不味いと断じるに迷いのない最低級の味だからな。食材に対する冒涜だと罵られても反論できないくらいには酷い。
「……いかんな。メチャクチャ疲れる。なんだこれは……異常に肩が凝るんだが」
「だから言っているじゃないですか。私に任せてくださいって」
「いや……お前に任せるのは……」
前とは別の意味で怖いので、極力こいつに包丁を握らせたくはない。包丁を持っている時に背後に立つのも止めてほしい。
「なんです? 私の料理の腕は以前に証明したと思うのですが」
「料理の腕?」
「ほら、料理対決の時に。私の料理を美味しいと言ってくれたじゃないですか」
「いや、お前、アレはひどいぞ?」
料理対決だと言っているのに、冷凍食品を詰め込んだ弁当を出してきたあの時の光景が瞼の裏にありありと浮かんでくる。
「あんなの、本当ならお前のボロ負けなんだからな?」
「でも、お兄様は互角だとおっしゃったじゃないですか」
「それは俺の舌が不良品だからだ」
「審査員が味音痴なのは織り込み済みです」
「……お前、最初から材料費勝負になることがわかっていたのか」
「当然です。私はお兄様の全てを理解していますから」
陽依は得意げにそう言ってのける。
やっぱ怖いなぁこいつ。やることなすこと全部怖い。妹じゃなかったら絶対に近づきすらもしなかっただろうなぁ。いや……妹だからこそこんなに怖いのか。
「しかし、あの料理がそこまで酷評される意味がよくわかりません。レンジで温めるだけで完成して、値段も安いのに。味もそう悪くはないですし」
「それはそうなんだけど……自分で料理したわけではないから……」
「レンジのボタンを押したのは私ですよ?」
「一般的に、それを料理とは呼ばないだろ」
「では、お米を炊いただけでは料理をした扱いにならないのですか?」
「……ん? …………ん?」
「お米は炊飯器のボタンを押すだけで炊けるじゃないですか。お兄様の理屈で言うのなら、あれは料理ではないということですよね?」
「いや、それはおかしいな。米を炊くのが料理じゃないってのは変だ。だから、えっと、ほら、米は洗う手間もあるだろ」
「洗う手間の有無によって料理か否かが決まるということでよろしいのですか? では、冷凍食品を事前に洗えば料理したことになると」
「うぅ……ん?」
あれ、俺が間違ってるのか? そんなまさか。俺は正しいことを言ったはずだぞ。
「待て、一度整理しよう。冷凍食品を温めることを料理ではないと言ったな」
「はい、おっしゃいましたね」
「それは訂正しよう。今、改めて考えてみれば、あの行為は料理と定義すべきものだった」
「なるほど、では私のお弁当も料理であるという解釈でよろしいですか?」
「ああ、それで問題ない。だがな、料理対決をするにあたって相応しい料理ではなかったという結論は変わらないぞ」
「それはなぜです? 私はまだ納得できていないのですが」
「冷凍食品は、既に調理が終わった食品をフリーズドライ製法によって保存し、解凍するだけで食べられるようにしたものだ。つまり、料理の工程の大半を他人が行っていることになる。これでは料理の腕を競い合う場において相応しい品であるとは言えないだろう」
「なるほど……」
陽依は顎に指を当て、屁理屈をこねていた口を閉じる。危うく滅茶苦茶な理論に言い負かされそうになったが、何とか兄の威厳を見せたぞ。
「では、スーパーに売っているようなお惣菜をそのまま持ち込むのもレギュレーション違反に当たるわけですね」
「そうなるな」
「レトルトカレーも駄目なのですか?」
「……料理対決に使うのは駄目……なんじゃないか? 少なくとも松波は怒りそうな気がする」
「インスタントラーメンも?」
「そりゃあ、駄目だろ」
「おにぎりは?」
「おにぎりは……自分で握るならセーフなんじゃないか?」
「そうですか、あの対決は使用できる料理に複雑な規定があったというわけですね。それならそうと事前に言っておいてほしいものです」
陽依は不満げに口を尖らせるが、それはいくら何でも松波が不憫だ。彼女が陽依の弁当に激怒したのも、陽依に負けてショックを受けてしまったのも、何らおかしなことではない。
真剣に取り組んでいた人間として正しい反応だ。おかしいのはどう考えても陽依の方である。
「ところで、お兄様。もうあまり時間がありませんよ? そろそろ出発しないと学校に間に合いません」
「ん? いや、お前はそうかもしれないがな、俺はもう少し余裕があるんだよ」
これから過酷な坂路を上って行かなければならない陽依と、ただ三十分かけて歩いて行けばいいだけの俺では、登校にかかる時間がまるで違う。
陽依は俺の三倍かけて坂を上るし、その後三十分ほどグッタリする時間が必要なようで、かなり早く家を出る。だから彼女が間に合わないというタイミングは、実際のところまだまだ余裕綽々なのだ。
「弁当の完成までまだ時間がかかる。お前は先に行け」
「そのペースじゃ、明日になっても完成しないのでは?」
「そんなわけあるか。ここから本気出すんだよ」
「……なぜそこまでしてお弁当を作るのです? 前まではそうこだわっていませんでしたよね? ひょっとして、あの女の影響ですか?」
室温が五度ほど下がる気配がして、背筋が凍り付く。こうも自由自在に殺気をコントロールできる人間を、俺は陽依以外に知らない。一体どんな経験をすれば身につく技術なのやら。
「まあ、否定はしない。今までも料理はしてたが、それは食費を抑えるためだけにやってたことだからな。その意識が変わったのは間違いなく松波の影響だ」
なぜ松波があれほど俺の世話を焼くことに固執していたのかは知らない。クラス内での地位を確立したいんだと思っていたが、陽依の思惑を完全に読み違えていたことが判明した今となっては、この推測も当たっている気がしない。
しかし理由がなんであれ、あの弁当はお世辞抜きに美味しかったし、栄養バランスはよく考えられていて、手間もかかっていた。裏で何を考えているにしても、ちゃんと感謝はしないとな。
「……業腹ですが、料理の腕を磨くこと、それ自体は素晴らしいことです。お兄様が自らなされる必要はないとは思いますが、できて損もないですからね」
「そういうことだ。わかったらサッサと学校へ行け。自分の分の弁当はもう用意したんだろ?」
「いえ、私はお弁当を用意していませんが?」
「なんだ、今日は弁当じゃないのか」
「お弁当を作ったのはここ数日だけですよ。基本的には事前に買っておいたパンやおにぎりなどを持っていきます」
陽依が普段何を食べているのかなんて注視したことはなかったが、そう言われて思い返してみれば、陽依が手作り弁当を食べてるところなんて見たことがない。
「そもそも、今日は台所を使ってないじゃないですか」
「……確かに」
「本当にお兄様は……私に興味がないのですね。関心がないというか、まったく見てくれていないじゃないですか」
「そ、そんなことはないぞ。むしろお前のことはよく見ている方だ」
「そうですか? お兄様は全く別の人のことばかり見ているような気がしますけれどね」
「別の人? 別の人って誰のことだ?」
「何でもありませんよ。今はまだ、咎めるほどのことでもありませんし」
陽依はぶっきらぼうにそう言って、荷物をまとめて靴を履く。
「それではお兄様、お先に失礼します」
「おう、気を付けてな」
玄関から出て行く陽依を見送り、俺は弁当作りにスパートをかける。少々手間取りはしたがとりあえずは完成を見ることができたので、鞄に押し込んで、俺も学校へと向かった。
それなりに時間はかかっていたはずなのだが……疲労でゲッソリとした陽依が教室に来たのは、俺が席に座った五分後のことだった。
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