第22話 だからそこで死にます

 五月中旬。

 ひょっとしたらこの時期が、一年の中で一番過ごしやすい季節なのかもしれない。

 暑くもなく、寒くもなく、四月の慌ただしさも一段落して忙しくもなく、ただそれ故に気分が落ち込んでしまう時期でもある。


 四月に入学、あるいは入社など、環境の大きな変化があり、最初の内は目新しさに胸を躍らせていたものの、一月経ってテンションが落ち着いてしまい、心身に不調をきたす人が出始める。いわゆる五月病というやつだ。


 俺はと言えば、そんなものとは無縁で、毎日楽しく学校に通っている。未だに友達はできないし、信頼できる女性を探すという目的は遅々として進んでいないが、普通の高校生活を楽しむことはできている。

 しかしまだまだ完全な普通とは言い難い。妹との腹の探り合いを昼夜問わずに繰り広げ、隙を見せぬよう警戒し続け、神経をすり減らすのは、普通の高校生にあるまじき行為だ。


 だから今日こそ、そんな現状に終止符を打つ。年齢を偽ってまで俺と同じ高校に入学して来た頭のおかしい妹をどうにかして、俺は平穏な学校生活を手に入れる。


「────では、ここらに座りましょうか。お兄様」


 近くの公園に来た俺たちは、木の下に備えられたベンチに、並んで腰かける。


 公園といっても、遊具も何もないただの空き地みたいな空間だ。あるのは俺たちが今座っているベンチだけで、それ以外は砂場にすらならない砂利の更地である。

 敷地は腰の高さほどのフェンスで囲われていて、入り口には稲山公園と書かれた看板がある。この看板がなければ、ここが公園だなどとは思わなかったろう。


「随分殺風景な公園ですね」

「そうだな」

「デートにはあまり向きません」

「じゃあ場所を変えるか?」

「その必要はありませんよ。元々、本気で私とデートする気はないのでしょう? ならばこの公園でも充分ではありませんか」


 公園を取り囲んでいるのは、恐らくは空き家であろうボロ小屋ばかり。公園敷地内にいるのは俺たち二人だけで、その周辺にも人の気配はない。身を隠せそうな障害物すら皆無だ。

 つまりここはデートには相応しくないが、密談をするには最適な場所であると言える。陽依がここを選んだのもそういう理由だろう。


「どういう風の吹き回しなんだ?」

「何がです?」

「今までは俺に黙ってコソコソしてたろ。それなのに急に堂々とし始めて。ひょっとして計画を実行に移す目途でも立ったのか?」

「計画? 何ですか?」

「俺は知らん。それを探るための時間にするつもりだったからな」


 俺としてはこれから高度な頭脳戦、心理戦、情報を巡る駆け引きを繰り広げるつもり満々だったのに、自分から喋ると言い出すとは、ちょっと拍子抜けだ。


「勘違いしているようですが、私はお兄様に隠し事などしていませんよ?」

「……何?」

「隠し事をしているのはむしろお兄様の方ではないですか? 私、お兄様が何をお考えになっているのかわからなくて苦労したんですから」


 こいつは何を言ってるんだ。何を考えているのかわからないなんて、こっちのセリフなんだが?


「お兄様が私を信頼していないことはわかっていました。私としては不本意ではありますが、まあそこはいいのです。問題はあの女と親しくしていたことですよ」

「……あの女って、松波のことか」

「その通りです。お兄様は警戒心が強いんだか弱いんだかよくわかりません。私を警戒しておきながら、なぜあの女に心を許すのです?」

「い、いや、別に心を許したわけじゃ……」

「だったらなぜお弁当を食べていたのですか? 聞くところによれば、毎日のようにあの女の弁当を食べていたそうではありませんか」

「……それ、どこで聞いた?」

「情報提供者は伏せておきます」


 絶対田村だな……あの野郎……余計なこと喋りやがって。


「俺は自分以外の人間のことを等しく警戒している。その中で例外があるとすればお前だ。お前だけは他の奴よりも十倍は警戒してる」

「そうでしょうね。それはこの一ヶ月で実感しました。信頼を得られていないことは前々からわかっていましたが、まさかここまでとは」

「当然だろ? お前に信頼できる要素なんて一つもない」

「私を警戒するのは構いませんが、そのせいで他の方への注意が疎かになっていませんか? だからあの女に簡単に気を許したり、隣の部屋の女に色々仕込まれたりするんですよ?」

「……隣の部屋? 仕込み?」

「やはり気づいていらっしゃらないようですね。もう終わったことなので特に気にする必要はありませんよ」


 隣の部屋と聞いて最初に思い浮かぶのは、入学直後に転校した同じクラスの女子生徒のことだ。

 彼女は陽依が追い出したと言っていたが、なぜそんなことをしたのかは未だにわかっていない。だが今の陽依の口ぶりからすれば、まるで俺のために追い出したのだと言わんばかりだ。


「お前、入学してから今まで、ずっとコソコソ何をしてるんだ?」

「それはご想像にお任せします。あまり詳細をお伝えするわけにもいきませんから」

「思えば昔からずっと、お前は陰で何かしてるよな」

「私はそういう役目なのですよ。会社の将来を考えれば、その手の仕事は私が片づけるべきなのです。なにせお兄様は本当に敵が多い。特に自分自身ですら味方だと思い込んでいる敵は一番厄介です」

「……誰のことを言ってるんだ。それは?」

「特定の人物を指しているわけではありません。……というより、本当にお気づきになっていないんですね。驚きです。そんなに私に夢中なんですか?」


 陽依はさっきから肝心なところをぼかしているのでわかり辛いが……要はこういうことを言っているわけだ。


 俺は陽依に気を取られすぎていて、本来警戒すべき相手が疎かになっている。それを陽依は代わりに警戒している。

 自分を信頼させるよりも、自分で対処してしまった方が早い。そういう判断のもとに無断で動き、俺に報告できないような手段も用いている。それこそが自分の役目である……と。


「なら何か? お前は俺を守るためについてきたとでもいうのか?」

「そこまでおこがましいことは申しません。ただ心配だったというだけの話です。私がいなければ、私に割いていた集中力を他に向けるでしょうから、大半の危険は自力で対処できたはずです。そういう意味では、私がいることによって得られる恩恵は皆無であると言ってもいいでしょう」


 陽依は背筋を伸ばし、目線を正面に向けたまま淡々と語る。


「それがわかっていてもなお、ここに来ることはやめられませんでした。お兄様が手の届かないところへ行ってしまうのはどうしても嫌だったのです」

「手の届かないところに……か」

「どうです? 私って、意外と可愛い妹でしょう?」


 そう言って陽依は俺の方を向き、薄っすらと微笑んだ。その表情には裏があるようでないような、やっぱりあるような……そんな気がした。

 この曖昧さは一体何なんだろう。陽依からはもっと明確で深い闇のような気配を感じていたんだが、案外彼女は俺に友好的なんだろうか。


 ────まさか、そんなはずはない。


 俺から会社を乗っ取るにしても、そうはしないにしても、手の届く範囲に置いておかなければ対応できないというだけのこと。

 ただ、思ったより敵対的ではないのかもしれない。俺をここで排除してやろうとまでは考えていないように思える。今は会社を奪うことよりも、誰かに奪われないようにすることを優先しているのかもな。


「ちょっと、聞いているんですか? 完全無視は心にくるんですが」


 陽依は俺の顔の前で手を振り、答えるよう促す。


「ああ、悪い。えっと……なんだっけ?」

「えぇ……今のをもう一度言えと?」


 俺は小さく頷いて肯定する。


「うぅ……だから……『どうです? 私って、意外と可愛い妹でしょう?』と言ったんですよ」


 頬を紅潮させ、明後日の方向を見ながらボソボソと呟く。


「お前を可愛いと思ったことは一度もないが……」

「……二回も言わせておいてそんなハッキリ言います?」

「いや、だってお前、俺にちょっと似てるし。自分に似てる奴のことを可愛いとはなかなか思わないだろ」


 俺たちの名前や家庭状況を全く知らず、顔だけを見たとしても、恐らくは兄妹であろうと判断できるぐらい俺たちは似ている。

 そっくりというほどでもないが、顔を構成しているパーツの特徴はそこそこ一致している。


「そういうことではなくですね……はぁ、妹を可愛がるのは兄の務めなのではないですか?」

「……普通の兄妹ならそうかもな。でも俺たちは普通じゃない」

「普通じゃない……?」

「俺たちは特別なんだよ。良くも悪くもな。だから普通になるのは難しい。なれるとしたらこの三年の間だけだ」

「お兄様は普通になりたいのですか?」


 ビー玉のように丸い目をして、陽依は問いかけてくる。


「ああ、普通になりたい。完全な普通にはなれないにせよ、せめて今だけでも……」


 ここで俺はハッと気づく。

 一体何を口走っているんだ────と。


「そうですかそうですか。普通になりたい。へぇ……お兄様がそんな願望をお持ちだったとは。なるほど、それでお父様の用意した進学先を断って、この学校を受験したわけですね」


 つい陽依のペースに乗せられて、口が軽くなってしまった。ここで軽率に、普通になりたいなどと言ってしまえば、それは次期社長の地位を捨てたいと思っていると解釈されるかもしれない。いや、陽依のことだ。意図してそうするに違いない。


「いや、待て、そういう意味じゃないぞ」

「……そういう意味とは?」

「だから、その、会社を放り出したいとか、そういうことじゃないんだ」


 ここはすかさず訂正を入れておく。言質を取ったとでも思われたら一大事だ。


「そんなことはもちろんわかっていますよ。会社を継ぐのは、お父様から指名されたお兄様を置いて他にいません。その重責は計り知れませんが、お兄様がその責任から逃れたいなどと軽々しく口にされるお方でないことはわかっています」


 彼女はペラペラと、白々しくそう口にする。声のトーンは高く、少しはしゃいでいるようにも聞こえた。


「しかし、人間の心はそう頑丈ではありません。次期社長の肩書から逃れたいことだってあるでしょう。普通になりたいというお兄様の願い。私は否定しませんよ」


 今度は一転、姉でも気取るような優しい声音で呟く。


 陽依は俺が弱音を吐いたと思ったらしい。どうやら励ましているようだ。そんなつもりはなかったのだが、確かにあの大企業の後を継ぐのは責任重大だ。

 陽依は次期社長の椅子を狙っているのだとばかり思っていたが、必ずしもそうではないのかもしれない。


 そこで俺は、彼女に一つ聞いてみることにした。


「これは例えばの話なんだが、もし俺が事故かなんかで死んだとして、お前が会社を継ぐことになったら、お前はどうする?」


 別にこの答えによって何がわかるわけでもない。ただ陽依は社長という権力を得たいのか、それとも高額な報酬が欲しいだけなのか、どっちなのだろうと思って聞いてみただけだ。


 どちらかを即答するか、あるいは適当な愛想笑いではぐらかすと思っていた。だがそんな予想に反し、陽依は悲し気な顔をしたまま硬直し、何も言わなくなってしまった。


「……どうした?」

「────お兄様。ハッキリ言っておきましょう。どうせ信用されないのですからそのままにしておこうと思いましたが、やはりこういうことはきちんと主張しておくべきでしょうね。お兄様が勘違いなされたままでは、会社の危機ですから」


 彼女は怒ったような、呆れたような、刺々しい口調でそう前置きし、口を開く。


「会社を継ぐのはお兄様以外あり得ません。それが実現不可能になるのなら、それ以降の私の人生は無意味です。だからそこで死にます。お兄様が死んだり、会社を継がないという選択をしたりすれば、私は自分で舌を噛み切って死にます」


 それはまさしく脅迫であり、恐怖を感じるほど濁りの一切ない眼からは、この言葉が虚実や誇張の類でないことがこれでもかというほど伝わって来た。

 俺が例え話で軽率に出した「死」という単語とはまるで違う。その言葉には俺を殴り飛ばせるだけの質量があった。


「だからお兄様、私を殺さないでくださいね」


 俺が陽依に恐れを抱いていた原因は、会社の後継者争いだなんてそんなちゃちなものではなかったのだということを、この瞬間に骨の髄まで思い知らされたのだった。

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