第18話 だから報酬は俺自身にしよう

「はぁ……はぁ……はぁ……」


 一時間三十分が経過し、時間制限ギリギリになって陽依が滑り込んで来た。


「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……」


 時間に余裕をもって帰って来た松波とは違い、陽依は満身創痍で汗びっしょりだ。まだ五月だというのに、頬を伝って顎から垂れるほど汗をかいている。


「一体どこまで買いものに行って来たの?」

「も……より……の…………はぁ……スー……はぁ……」

「……最寄りのスーパー? それでこんなに時間かかるかしら?」


 そういえば、ここから買い物に行こうと思ったら、山を一度下りてまた上ってこないといけないわけか。

 普段は一時間半かけてあの坂を上っているので、単純に倍にするなら往復で三時間かかる計算になる。つまりいつも通りのスピードでは、陽依は山を下りて戻って来ることすらできない。今回はそれに加え、スーパーまで行って買い物をする必要があったと考えると……。


「……お前、頑張ったなぁ」


 息も絶え絶えな陽依に労いの言葉をかける。

 内臓が焼き切れそうなほど息を荒げ、気を抜けば白目を剥きそうなほど瞳に力がなく、全身の筋肉がストライキを起こしたようにぐったりとしているが、これはまだ勝負の準備段階に過ぎない。


「な……なん……の……こ…………はぁ……れし……き……はぁ……まだ……まだ私は……はぁ……ぜぇ……ふぅ」


 言葉を紡ごうとするたびに、全力で酸素を取り込もうとする肺に邪魔をされ、もう何を言っているのかもわからん。とりあえず椅子に座らせ、水を飲ませる。


「なんのこれしき、まだまだ私は頑張れますよ」


 十分ほど時間をおいてから、ようやく陽依が何と言ったのかわかった。


「無理しなくても、まだ休憩していていいのよ? 万全のあなたに勝たないと、後から負け惜しみを言われるかもしれないし」

「私はそんな恥知らずなことはしませんよ。それに、そもそも負けません。お兄様を誰かに預けるつもりは毛頭ありませんので」

「あら、そう。なら始めましょうか」

「ええ、そうしましょう」


 涼しい顔をして立ち上がった陽依だが、その膝はガッタガタに震えている。あまりの全力疾走に耐え切れず、彼女の体は悲鳴を上げていた。もう立っているのが精一杯であることは一目見ただけで明らかだ。

 それでも陽依は余裕たっぷりな態度を崩さない。それほどまでに、彼女は自分の勝利を疑っていないのだ。


 ……まあ、同じところへ買い物に行ったはずの松波が一時間もかからず戻ってきているので、ただ単に陽依の体力が貧弱すぎるだけなのだが。


 しかしこうして時間制限が厳しめに設定されているのも、松波の作戦の内ではあるだろう。

 ここからスーパーまでは徒歩だと四十分といったところ。往復で八十分かかる計算なので、食材選びに使える時間は十分だけだ。何を作るか、何を買うか、そんなことで迷っている余裕はない。

 事前にメニューを決めておけば、充分事足りるかもしれないが、たった今勝負内容を聞かされたばかりの陽依には時間が足りなかったことだろう。

 条件は何でもいいと宣言してしまったからにはこれくらい不利な条件を設定されても文句は言えないが、陽依にとって厳しい戦いになることは間違いない。


 流石に陽依の超虚弱体質までは想定していなかっただろうが、松波も勝利のために全力を尽くすつもりのようだ。

 これは決して卑怯なわけではない。勝負の内容を決めても良いと言ったのは陽依であり、松波はこの条件でいいのか直前に確認も取っている。その上で勝負は行われているのだから、さっき二人も言っていた通り、後になって負け惜しみを言うことなんてできない。


「調理は制限時間一時間よ」


 二人は制服の上からエプロンを身に着け、調理器具などを取り出し、料理の支度を進める。


「一時間ですか。私は三十分で充分ですけどね」

「……なら私は十五分で終わらせるわ」

「何を張り合っているんですか? お子様ですね。私は三十分で充分と言っただけで最短を目指せば五分でできますけど?」

「あら、そうなの。まあ私だって三分もあれば作れるけれどね」


 カップ麺かな? カップ麺でも作るつもりかな?


「なら制限時間は三分にしておきますか?」

「いいわよ? あなたがそれでいいのなら」

「私は構いませんよ」

「…………でも、料理は早くできればいいというものではないわ。食べてくれる相手を一番に考えないと。この勝負の趣旨を考えれば、制限時間を極端に短くするのは愚の骨頂だわ」


 意地の張り合いで変な方向に行きそうだった流れを、松波がすんでのところで修正する。

 俺としては、早く完成するということは早く帰れるということなので、別に悪くはない話だ。しかし三分で完成する弁当なんて、ちょっと想像がつかない。


 早さより大事なことがあるという部分は松波と同意見だ。食事において最も重要なのは安全性。食べても死なないかどうかだ。

 それに比べれば味や、時間や、見た目や、臭いや、価格や、栄養なんてどうでもいい。俺に料理を作って来る奴なんて何か企んでいるに決まっているのだから、警戒はいくらしたって足りない。


 特に陽依だ。俺はこいつの料理の腕前がいかほどのものなのか全くわからない。どんな料理が得意なのか、どんな料理をよく作るのか、全てが謎に包まれていて、一体何を出してくるのか予測できない。

 一度は腹をくくったものの、やはり陽依の弁当を食べなくてはならないというのは何が潜んでいるかわからない暗闇の中に手を突っ込むようなもの。何か保険は打っておいた方がいいな。


「料理に入る前に、一つ提案していいか?」


 俺が小さく手を挙げると、二人は手を止めて視線をこっちに向ける。


「俺は審判だから味見役をするが、俺だけじゃ食べ切れないかもしれない。作った料理は三人全員で分けることにしよう」


 俺だけじゃなく、自分も食べなくてはならないとあっては、流石に何か変な物を入れることもできまい。

 料理の過程はここで全て監視できるので、複雑な工程踏んで俺にしか効果が出ないような細工を施すことも難しい。


「そうね。それが良いかもしれないわね。ちょうど小腹がすいてきたし」

「お兄様がそう言うのでしたら」


 二人は抵抗する素振りも見せず、すんなり了承した。


 ここまでしておけば、流石にもう大丈夫だろう。まだ完全に安全が確保できたとは到底言えないが、そんなことを言い出したら他人の手料理なんて一生食べられない。


 普通の男子高校生なら、陽依と松波が手料理を振舞ってくれるとなれば涙を流して喜び、大はしゃぎで転げまわるはず。俺だって普通を目指すのならば、抵抗感を覚えている場合ではない。


 ……なんだかいつの間にか、俺の中で普通の高校生像が田村に固定されているような気がするな。

 よく考えてみれば、最も身近にいる普通の男子高校生が田村なのか。入学から一月以上が経過しているが、俺は未だに友人と呼べる相手は見つけられていない。普段雑談をする相手すら、田村以外にはいないのだ。


 陽依や松波の対処で時間を取られたせい……と言い訳することもできるが、原因はそれだけではない。

 中学までの俺の人間関係は、常に受け身だった。何もせずとも周りに人が集まって来たので、それに対応しているだけで良かった。

 信頼できる相手を探すために自分から動こうとしたことだって無いわけではないが、結局待ちの姿勢を大きく崩すことはなかったように思える。何もせずに待っているだけで、中学生活がそれっぽく達成できてしまったのだ。


 だがそんなものはここでは通用しない。肩書のないこの高校では、待ちの姿勢で躊躇っていたら、あっという間に三年間の孤独が確定してしまう。


 友達や彼女を作りたければ、まずは積極的に自分から動かなくてはならない。入学初日に俺に声をかけてきて、ついでにそのまま陽依にまで手を伸ばそうとしていた田村は良いお手本だった。

 現に、彼はうちのクラスで一番交友関係の広い男子という評判を欲しいがままにしている。恋愛の方は上手くいっていないようだが、学校生活を最大限楽しんでいるのは見て取れる。


 それに比べて俺はどうだ。


 ゴールデンウイークが終わっても恋人はおろか、友達の一人もいない。話をするのは、向こうから話しかけてくれる相手だけ。自分から声をかけたことなどほとんど記憶にない。


 このままではいつまで経っても目標は達成できない。信頼できる女性を見つけて交際し、普通の高校生活を最大限楽しみ、心おきなく家に戻る。そんな俺の夢は始まってから一歩たりとも進めていない。


「……どうかされましたか? お兄様」


 陽依が俺の顔を覗き込んでくる。


「いや、このまま流されっぱなしはどうかと思ってな」


 俺の目標が行き詰ってしまっている原因は何か。そんなものは明白だ。

 陽依や松波の言われるがまま、なされるがままに流されて、その場その場を凌ぐことしか考えていないからだ。


 だったら俺は、この二人を逆に振り回す。俺を利用したいのなら存分に利用させればいい。その代わり、俺だってこの二人を利用する。

 なんたってクラス人気一位と二位の女子だ。利用価値はいくらでもある。俺の夢を叶えるために、今こそ反撃の狼煙を上げる時だ。


「────この勝負、本当にこれでいいのか?」


 俺の呟きに二人が首を傾げる。


「どういう意味かしら?」

「いや、このままじゃしょっぱい勝負になるんじゃないかと思ってな」

「しょっぱい……とは? 何をおっしゃっているのです?」


 二人は勝負の直前になって今さら何を言い出すんだ、と困り顔だ。きっと勝負に水を差すつもりかと思っていることだろう。だが違う。俺がしたいのはその逆だ。


「陽依、この勝負に勝った方は何を得るんだ?」

「えっと、お兄様のお世話をする権利……でしょうか」

「つまり負けた方は、勝った方が今後俺に近づいても、文句は言うなというわけだ」

「そういうことですね」

「お前らはそれだけでいいのか? そんなもののために、わざわざ手間をかけて勝負をする意味があるのか?」

「あります」「あるわ」


 二人とも即答だった。この勝負にかける執念は相当なものだ。多分、二人とも負けず嫌いなんだろうな。だから報酬がショボくても頑張れるわけだ。だがそれだけでは俺にとってメリットのない戦いになる。


「……まあ、しかしだ。勝った時の報酬はもっと豪華な方がいいだろ?」

「豪華? お兄様より大切なものなど、私にはありませんよ」

「そうか。それは光栄なことだな」

「わ、私だって……気持ちでは負けてないわ! 広政君のことを一番に考えているのは私よ!」

「二人が本気なのはよくわかったよ。だから報酬は俺自身にしよう」


 俺の言葉の意味がわからないのか、二人は目を丸くして硬直した。ならばもっと直接的な表現で、わかりやすく伝えてやるとしよう。


「────この勝負、俺は勝った方にデートを申し込む」

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