第16話 あの女のおもちゃになるというだけの話です

 この押し潰されそうなほどの空気の重さは一体何なんだ。


 陽依に黙って松波を家に上げたのだから、愉快な気分でないことはわかる。この部屋の半分は陽依のテリトリーなのだから、そこを知らない間に侵されていれば不機嫌にもなるだろう。


 しかし元はと言えば、俺のテリトリーだった部屋を半分強奪したのは陽依の方だ。無許可で人を上げたぐらいでとやかく言われる筋合いはないと思うのだが、陽依が放っている怒気は尋常ではない。


「……お前、何か勘違いしてるんじゃないのか?」

「勘違い?」

「俺はただ、普段弁当を作ってもらってるお礼に、松波を家に呼んだだけだ。それ以外に意図はない」

「へぇ、普段お弁当を……ねぇ。それで、私が何を勘違いしているというのです?」

「何をって……」


 陽依の表情は柔らかいままだが、相変わらず感情は死んでいる。その目には一切の光が浮かんでおらず、地獄の底のように濁り切っている。


「私が一生懸命小バエを追い払っている隙に、お兄様が自分で招いてしまうとは。私の努力が足らないようですね。もっと厳しく監視しなくてはいけませんでしたか」

「は? 監視?」

「そうです。お兄様は目を離すとすぐに勝手なことをしますから。私が見ていてあげないといけないのですよ」


 こいつ、何を言ってるんだ……?

 俺の監視が目的だと? 親父の差し金か? いや、そんなに気になるのならそもそも許可を出さなければ良かっただけのこと。そもそもあの極度の放任主義者が俺の行動なんていちいち気にするはずもない。

 だったら陽依自身の意思で監視を? 陽依の目的は俺の排除じゃなく、監視だったということか? 一体何のために……。


「────さっきから黙って聞いていれば、妹だからって好き勝手言いすぎじゃないかしら」


 松波はスッと立ち上がり、陽依と向かい合う。その落ち着き払った声は、普段の明るい彼女とはまるで別人のようだった。


「ちょっと暴言が過ぎるわよ。家族に関わることだから、熱くなる気持ちはわかるけど、言っていいことと悪いことがあるわ」

「あら、黙って立ち去るかと思ったら、ペラペラとよく喋るハエですね」


 陽依の挑発に、松波は眉をひそめた。いくら温厚そうな彼女といえど、今の暴言は聞き逃せないようだ。


「謝りなさい。今、謝れば許してあげるわ」

「謝罪は悪事を働いた人間がすることです。ならば謝罪すべきなのはあなたの方なのでは?」


 陽依は悪びれもせずに挑発を重ねる。表面上は大人しくしようとする傾向にある陽依がここまで露骨に喧嘩を売るとは、相当お怒りの様子だ。一体何をそんなに怒っているのか知らないが。


 二人の間には火花が散るような熱い激突があるわけではない。もっとドロドロ淀み切った感情のぶつかり合いがあるように見えた。

 互いに譲れないものがあり、それを二人ともが察している。だからこそここまで露骨に敵対し合うわけだが、部外者の俺からすればたまったものではない。


「と、とりあえず二人とも。近所迷惑にもなるし、ここで口論をするのは……」

「広政君は少し黙ってて」


 松波らしくない強い口調で制止され、俺は大人しく縮こまる。

 今の彼女らに干渉するのは自殺行為だ。俺の本能がそう告げている。ここは息を潜めて部屋の端に寄っておくのが賢明だ。


「前から気に入らないと思っていたのよ。陽依ちゃん、あなた、私に何か恨みでもあるのかしら?」

「前から思っていたんですが、なぜ『陽依ちゃん』などと馴れ馴れしい呼び方をするのですか? 不愉快ですよ?」

「……お子様ね。まるで中学生を相手にしてるみたい」

「高校生になりたてのくせに、もう大人気取りですか? そうも自惚れが強いから、勘違いしてお兄様に擦り寄ってしまったんですね。哀れなことです」

「ただの妹のくせに、なぜそうまで威張れるのかしら? 血の繋がりに甘えて、何もしてこなかったあなたが悪いのでしょう?」

「何もしてこなかった? よくそんな適当なことが言えますね。私がお兄様のために何を成してきたのか、何も知らないくせに!」

「陰でこそこそ何をしているか知らないけど、本人に伝わっていなければ意味はないと思うわよ? それはただの自己満足。あなたは一人で達成感を得て、一人でよがっていただけなのよ。そんなので見返りを求めるなんておこがましい」


 二人の罵り合いは加速度的に白熱している。そしてどうやら、その口論の中心にいるのは俺のようだ。

 聞いている限りでは、どちらがより俺に貢献しているかで争っているような気がする。しかしなぜそんなことで争うのだろう。俺に尽くすことが彼女たちの中でなにかしらのステータスになるのだろうか。


 ……ひょっとして、陽依は恐れているのかもしれない。

 俺と松波が万が一にも恋人関係になることがあれば、会社での自分の立場がなくなってしまう恐れがある。会社を継ぐどころか、邪魔になって追い出されてしまうことになりかねない。そんな未来を危惧し、俺に近づく女を無差別に警戒しているのだとすれば、今までの不審な行動の数々にも説明がつく。

 隣に住んでいた女子生徒を学校から追い出したり、部屋に上がった松波に喧嘩を売ったり、俺と一緒の部屋に住んでいるのだって、全ては俺に女を近づけさせないためだと思えば納得だ。


 そして松波は、多分俺の世話を焼くことでクラス内での地位を確立させようとしているんじゃないだろうか。

 俺のクラス内での立ち位置は、田村によればそう悪い物じゃない。そんな俺の世話をしているのが松波となれば、自然と松波の評価も上がる。

 誰と仲良くし、誰を従えているか。学校という狭いコミュニティの中では、それが自分の地位を確立する重大な要素と成り得る。俺を餌付けすることで、スクールカーストにおけるアドバンテージを得ようとしているわけだ。


 しかし陽依に妨害されてしまえば、その努力も水の泡と化す。


 この手のやり口は軽薄にやりすぎると逆効果になってしまうこともある。弁当を作って好感度を稼いでいると思われるのはあまり良いことではないからだ。そのため計画は慎重に進める必要がある。

 せっかく時間をかけて俺との距離を詰め、部屋に上がるところまでこぎつけたのにここまで来て邪魔されるのなんて我慢ならないだろう。


 だからこうして二人はぶつかっているんだ。なるほどな、近頃は二人の、特に松波の思惑がわからなくて混乱していたが、これなら説明がつく。

 陽依は将来的な会社での地位を、松波は学校での地位を、それぞれ守るために俺が必要というわけだ。


 しかし松波に関しては俺なんかを利用せずとも充分な地位を得ているような気がするのだが……何なら、彼女の方が俺よりもクラス内での発言力は強い気がする。

 ひょっとして、彼女は自分が周りからどう思われているのかをちゃんと測れていないのかもしれないな。

 もしくは心配性すぎて、要らない不安を抱えてしまっているか。どちらにせよ難儀なことだ。


「あなたにお兄様は渡しません。今すぐお引き取りください」

「広政君には私が必要なのよ。私がいないと生きていけないのよ」


 二人の睨み合いは続く。

 原因がわかったところで、やはり俺にはどうすることもできない。この二人の思惑は共存し得ないのだ。この二人が互いに全幅の信頼を寄せあうことができるのであれば話は別だが、そんなことができるはずもなく、妥協案は提示しようがない。


「ここは私の家です。勝手に上がられたら迷惑です」

「広政君に許可は取ったわ。それに、あなたのスペースには足を踏み入れてないのだから、とやかく言われる筋合いはないわ」

「……どうしても引くつもりはないと、そういうことですか」

「当たり前でしょう? このままじゃ広政君が可哀そうだもの。放っておけるわけが

 ないわ」

「可哀そう? 何が可哀そうだというのですか?」

「そんなこともわからないの? だったらやっぱり、ここで帰るわけにはいかないわね」


 もう今にも殴り合いに発展しそうな勢いなのに、二人の表情や声のトーンは落ち着いたままだ。

 俺の前だから一応表面的な感情は抑えているのかもしれないが、そのせいで怖さが倍増している。これならいっそ普通に喧嘩してくれた方が止めようもあるのに。理性を残しながらヒートアップしていくのは、何をしでかすかわからない恐怖がある。


「いいんですか? 私を敵に回したこと、後悔するかもしれませんよ?」

「広政君を守るためだもの。仕方ないわ」

「……解せませんね。さっきから何を言っているのですか? なぜあなたがお兄様を守っているなどと、そんな勘違いをしているのです? 前にここへ来た時は素直に引き下がったのに」

「広政君は私の気持ちを受け止めてくれたのよ。私にとってはそれだけで充分だったわ。家族以外にも、私の愛情を正面から受け止めてくれる人がいるってわかったのだから」

「……愛情」


 陽依の濁った眼が、部屋の隅で丸まっている俺を捉える。


「本当にそんなことを言ったのですか? お兄様」

「え、えっと……料理に愛情が込められてるなぁ……とはいったかな」

「なるほど、それで舞い上がってしまったというわけですか。そうやって人を惑わせるだけの力があるのですから、お兄様にはもう少し自覚をもってほしいですね」


 陽依は重々しくため息を吐きながら、首を左右に振る。

 なんで俺が駄目出しされてるんだ……この喧嘩の原因が俺にあると言わんばかりだな。確かに俺が関与していることは間違いないが、二人がそれぞれ俺を利用しようとした結果の激突だろうに。第一、人を惑わせる力ってなんだよ。


「そういうわけで、それはお兄様の言葉選びのセンスが絶望的なだけです。別にあなたに特別な感情を抱いているわけではありません」

「……そんなこと、あなたが決めることじゃないでしょ。私と広政君の問題なんだから」

「そうだと思い込んで、後に引けなくなってしまったのですね。同情はしますけどお兄様を譲るつもりはありません」

「…………っ……そこまで言うのなら、私と勝負しましょう!」

「勝負?」


 陽依の鼻先に、松波の人差し指が突き付けられる。


「どちらが広政君を支えるに相応しいかを決めるのよ。もし私が負ければ、私は必要なかったと認めて、引き下がってあげるわ。けれど私が勝ったら、広政君は私が貰うわ」

「貰うわって、ちょっと待て。なんで俺が勝手に景品になってんだよ。俺の意思を確認しろ」

「いいでしょう。その勝負乗りました」

「乗ってんじゃねぇよ⁉ 俺の話聞いてるか⁉」

「問題ありません。私が勝てば今まで通り、負ければあの女のおもちゃになるというだけの話です」


 それは「だけの話」なんて言っていいことなのか? どこからどう考えても極めて重大な事態にしか思えないんだが。


「なんでそんなに自信満々なのかしら。広政君のご飯を作っているのも私、部屋の掃除をしてあげたのも私なのに。あなたは何もしていないどころか、兄妹喧嘩の真っ最中らしいじゃない。取られそうになってから焦り始めたって遅いわよ?」

「兄妹喧嘩? 何の話をしているのかわかりませんが、私がお兄様のことをどれだけ想っているか、あなたは知らないでしょう? どんな内容の勝負であっても、それがお兄様を賭けてのものであれば、私が負ける道理はありません」


 不敵な笑みを浮かべながら、それぞれ勝利宣言をする二人。勝った方が俺を好きにできる権利を得るらしい。


「……もういいや、どうにでもなれ」


 この場はもはや俺の割り込む余地などないほどに白熱してしまっている。どっちが勝ったとしても俺にとっては負けみたいなものなんだが……こうなってしまっては仕方ない。

 陽依と松波が顔を合わせたら面倒なことになるなんてわかり切っていたのに、陽依が帰って来る時間を見誤った俺の落ち度ということにしよう。


 しかしクラスで1、2を争う美少女二人が、俺を巡って争うことになるとは。これで俺は純粋にモテているだけならば、目標の達成も近いんだがな。世の中そんなに都合良くできていないことぐらいわかっている。

 とにかく今は、この嵐がなるべく平穏無事に過ぎ去ってくれるのを祈るしかなさそうだ。

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