第6話 お兄様はお兄様なんです
稲山高校は全校生徒300人そこそこな規模の小さい学校だ。最寄り駅までは徒歩で一時間ほど。登下校用のシャトルバスが出ているが、それも本数はあまり多くない。
辺り一面は山で囲われていて、学校へ行くためにはちょっとした登山をしなくてはならない。自転車で登校すると、急斜面を風になって滑り降りることができる帰りはともかく、行きは重力に従って全力の抵抗を見せるペダルを踏みつけながら進まなければならず、授業開始前から相当量のスタミナを吸い取られる羽目になる。
俺の家は山の麓にあるので、家を出たらすぐ斜面を上ることになる。なので自転車に乗るよりも、始めから歩いて行った方が早いし楽だ。どちらにせよ自転車なんて買うお金はないので、この山がなかったとしても歩いていくしかないのだが。
入学してから一週間が経過し、もうこの過酷な登校路にも慣れてきた。過酷なんて言っても、確かに斜面は急だが、たかだか歩いて三十分なので、大した苦労にはならない。
初めて登った時は三年間通えるかどうか少し不安になったりもしたのだが、今となってはその心配は完全に消え去った。なんなら、足腰を鍛えるのにちょうど良いとすら思い始めている。
ただ、人によってはそんな気楽なことを言っていられる余裕はないようで、毎朝のように弱音と朝ご飯だったものを吐いては、膝をガクガク震わせながらやっとの思いで学校に辿り着いている奴もいる。
「はぁ……はぁ……お、お兄様……ちょ……ちょっと休憩しましょう。もう、五合目ぐらいまで来ましたよね……?」
────まさかそんな情けない奴がうちの妹だなんて、信じたくはない話だが。
「五合目ってなんだよ。そんなもの、この山にはないぞ」
「な、なら、そろそろ半分くらいまで来ましたか……?」
「いや、まだ登り始めて三十分だし……三分の一?」
歩いて三十分と言ったが、それは俺一人で上った場合の話だ。陽依のペースに合わせればその三倍はかかる。
「な、なるほど……これは私への試練ですね」
「いや、ただの登校路なんだが」
「私だって多田羅家の女です! この程度のことで……へこたれるわけには……!」
それっぽいことを叫びながら進むその横を、他の生徒たちが談笑しながらすり抜けていく。
まだ年齢的には中学二年生で、他の生徒よりは体力が低いであろうということは考慮に入れてやるにしても、あまりにも虚弱すぎる。
「情けないな。どうせ毎日毎日車で送迎してもらってたんだろ?」
「う……それは……」
「やれやれ、俺は先に行くぞ」
「ま、待ってください! お兄様!」
春の空に凛と響く高い声で、俺を呼び止める。その声のあまりの迫真さに、周囲の生徒の視線が一瞬だけ集まる。
「……前から思ってたんだが、そのお兄様ってのも止めてくれないか?」
「どういう意味です?」
「普通の兄妹は、兄貴のことをお兄様なんて呼ばないだろ。しかも俺たちは設定上双子なんだぞ? 産まれた日が一緒なんだから、兄だとか、妹だとかって意識は希薄になるだろ」
「ううむ……確かにそうかもしれません」
膝に手を添え、大きく肩を上下させながら乱れた息を整える陽依。ハードなトレーニングをこなした直後の運動部のように、全身から蒸気を迸らせているが、その実ただ坂を上っているだけだ。
「ですが! これだけは、例えお兄様のご指示でも譲れません!」
陽依はキッと鋭い視線で正面を見据え、再び足を前に進める。
「お兄様はお兄様です! 私にとって、お兄様はお兄様なんです! そこだけは変わらないんです!」
「意味がわからないんだが。呼ぶならせめて兄さんぐらいにしてくれないか? お兄様なんて呼んでたら家のことがバレるかもしれないだろ」
「大丈夫です! お気になさらず!」
俺の横を通り過ぎ、彼女はそのまま坂を突き進んでいった。
「大丈夫ですって……何が大丈夫なんだよ……」
まあ、俺の家のことがバレたところで、陽依が困ることなんて何もないからな。言うことを聞いてくれるわけもないか。
俺を排除して自分が会社を継ぐため、陽依がどんな策を講じているのかは未だに把握できていない。まだ具体的な方針は決めていないのか、それともすでに作戦は俺の見えないところで始動しているのか。
しかし一週間経っても、少なくとも表向きは普通に高校生活を送っている辺りを見るに、俺の青春を根本から破壊してやろうというつもりはないらしい。
それもそのはず。前の家にいる時よりも、ここで生活している間の方が明らかにチャンスは多い。陽依はこの学校で過ごす三年間こそ、俺を消す最大の好機だと思っているはずだ。だからこそ、わざわざ年齢を誤魔化してまで、自らが同じ高校に通うなんて荒業を使ってきた。
多田羅家のことを一旦忘れて、普通の高校生としての青春を楽しむのが目的だったが、陽依の乱入によりその夢は閉ざされてしまった。だが当の彼女に事を荒立てるつもりがないのだとすれば、俺の夢が叶う余地はまだ残されている。
陽依が何をしてくるつもりはまだわからない。しかし何をしてくるにしても、それを凌ぎさえすれば、表向きは普通の高校生活を送ることができるということになる。
当初の予定からはだいぶ離れたが、俺の計画はまだ死んでいない。ここで人並の青春を謳歌して、信頼できる女性を見つける。三年間なんて、まだまだ先は長いようであっという間なんだ。あんまり悠長に構えてもいられない。
目標達成のため、少しずつ動き始めないとな。妨害されても面倒だから、陽依には気づかれないようにしたいが……同じクラスで席も近いとあっては、行動にも制限がかかるな。さて、どうしたものか……。
「ひぃ、ひぃ、ひぃ、ふぅ……」
顔を上げると、フルマラソンの最中かというほど息を荒げた女子生徒が前を歩いている。意気揚々と坂を上って行ったはずの陽依に、1分足らずで追いついてしまったようだ。
「あ、あら、お兄様。随分とお早いですね」
「お前が遅いんだよ。少しは体力をつけろ」
「お……お恥ずかしい限りです。そういうお兄様は汗一つかいていませんね。流石です」
「汗かいてる奴なんてお前以外にいるのか?」
春の陽気はどこへやら、今日は風が冷たく少々肌寒い日となっている。こんな日に多少山を上ったからといって、ダラダラ汗を流す人などそうはいるまい。
「はぁ、お兄様はご自身の能力を正しく理解していないようでいけませんね」
陽依は露骨にため息を吐き、呆れたように首を左右に振った。
「私が不甲斐ないのは否定しませんが、逆にお兄様は体力がありすぎるのですよ。だから一般人の感覚がわからないのです」
「ありすぎるって、そんなことはないだろ」
「いいえ、あります。もっとお兄様は下々の声に耳を傾けるべきです」
「下々って……俺は王族か何かか?」
大企業の次期社長候補ではあるが、周りの人を下々扱いできるほど偉いわけではないだろうに。
確かにたまにいるがな。会社での地位が高いからって、やたらと威張っていて、何を勘違いしているのか社外ですらその態度を貫く人。
うちの会社にもいたが、見ていてあれほど痛々しいものはない。そんな傲慢な人間にはならないよう気を付けているつもりだ。
「ふぅ……やっと辿り着いた……」
そんな話をしている内に、俺たちは学校の前まで到達していた。
やれやれ、陽依のせいでただ登校するだけにやたらと時間がかかったな。朝のホームルーム前は、学校生活の中で自由に使える貴重な時間だ。
目的を達成するためにはそういう細かい時間も無駄なく利用していきたいというのに。もしや、こうして俺の高校生活三年間を少しずつ浪費させることも作戦の内なのか?
「やり遂げた、みたいな顔をしているが、授業はこれから始まるんだぞ?」
「わかっています。しかし後は椅子に座って話を聞くだけ。体力を使うことはないのですから、気が楽です」
「いや、一時間目、体育だけどな?」
ようやく苦難から解放され、晴れ晴れとした表情をしていた陽依が、一瞬にして地獄に引き戻される瞬間を見たのは、正直ちょっと面白かった。
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