第5話 タダで済むと思わないことですね

「おい、これはどういうことだ?」


 俺の住むアパートは学校から徒歩十五分の距離にある。強めに蹴り飛ばせば倒壊するんじゃないかというぐらい古臭いが、ほどほどに近場で、しかも家賃が安い。

 お世辞にも快適であるとは言えないが、高校生のバイト代でも家賃を何とか払えるぐらいの場所となると、もうここしかなかった。

 俺としては環境の悪さよりも、念願の独り暮らしが叶った喜びの方が大きく、ここでの暮らしをそれなりに満喫していた……のだが。


「私もここに住むことになりましたので、今後はよろしくお願いしますね」


 鍵を差し込んで扉を開けば、ただでさえ狭い部屋にゴチャゴチャと段ボールが詰め込まれていた。これじゃもはや部屋というより倉庫だな。

 つい先日、俺の分の段ボールを全て片付け終わって、部屋が広くなったところだというのに……いや、そんなことよりもだ。


「聞いてないぞ」

「言ってませんので」

「なぜ言わない」

「言ったら反対されるでしょうから」

「言わなくても反対するぞ⁉」

「ええ、ですがもう手遅れです」


 この女……考えてみれば、俺との食事を快諾したのも不自然だったんだ。まさかその隙に荷物を運びこんでいるとは……クソ、迂闊だった!


「考えてもみてくださいよ。私はまだ十三歳の女の子。契約は保護者の名前でするにしても、独り暮らしにはまだ早すぎる年齢です」

「だったら帰ればいいだろ」

「それはできません。私とて、気まぐれでここに来たわけではないので。それに、お兄様と一緒に住むことが、私が稲山高校に進学する条件だったのです」

「あのクソ親父! 俺に確認せずそんな条件出してんじゃねぇよ!」

「お兄様のことは放任されているようですが、流石に私はまだ完全に自由にさせてはもらえないみたいですから。私も自分の未熟さは自覚しているつもりです。一人で生きていけるほどの強さを、まだ私は持ち合わせていません。私にはお兄様が必要なのです」

「だったら大人しく中学校に通え‼」


 喉が枯れるほど叫び、息が切れる。

 まさかこいつと同居する羽目になるなんて。今後は家ですら気を抜けないということになるじゃないか。

 冗談じゃない。学校に来られただけでも大迷惑だってのに、息つく暇もなく家ですら神経をすり減らして警戒しないといけないなんて気が狂いそうだ。


「あら、テレビがありますね。お兄様」


 玄関で打ちひしがれる俺をよそに、陽依はサッサと部屋に上がって色々と物色している。

 彼女が覗き込んでいるテレビは、もちろん薄型の液晶テレビなどではない。箱みたいな形をしていて、点けると画面に無数の横線が入る古臭いテレビだ。

 個人的にはこのタイプのテレビが未だ現役なことに驚きなのだが、意外と使っている人は多いんだろうか。


「……それは前に住んでた人が置いていったものだ。テレビだけじゃなく、家電類は大体そうだな。使えそうなものはそのまま使ってるが、そのテレビに関してはほとんど粗大ゴミだぞ」

「壊れているんですか?」

「多分な。映ることは映るが、頻繁に電源が切れるんだ。まあ、テレビなんて普段見ないし、別にいいんだが」

「へぇ……ちなみに、このテレビの裏にある延長コードはお兄様が持ち込んだ物ですか?」

「延長コード? 多分、元々あったやつだろ?」

「……そうですか。では、私がいただいても構いませんね?」

「え? あ、ああ、別に問題はないが……」

「ありがとうございます」


 陽依は躊躇なくコードをぶち抜き、クルクル巻いて鞄の中にしまった。


 あんなもの、一体何に使うというのだろうか。それとも、ただの嫌がらせか? それならば残念だったな。さっきも言ったが、俺にテレビを見る習慣はない。コードを抜かれたとしても何も困ることはないのだ。


「この時期、引っ越し業者はアルバイトも雇っているでしょうし、お兄様が安く済ませようとしたならなおのこと……どこの誰だか知りませんが、私のお兄様に手を出して、タダで済むと思わないことですね……」


 ……何か、一人でブツブツ言ってるな……何言ってるのか聞き取れないけど、どうせまたロクでもないことでも企んでるんだろうな……。


「ふむ……まあこのくらいでしょうか。あまり大胆なことはしていなかったようですね」


 一通り部屋を観察し終えた陽依は、満足げに背筋を伸ばす。小柄な彼女は、両手を天に突き上げたとしても、俺の頭を少し超すぐらいの高さにしかならない。


「どうかされましたか? お兄様」


 俺が見つめていることに気づき、陽依は様子を伺うように首を傾げた。

 こうして正面から陽依のことをちゃんと見るのはいつ以来だろうか。彼女とは別の中学校に通っていたし、住んでいる家も別だった。兄妹は普通一緒に暮らすものだという常識は俺だって知っているが、うちにそんな常識は当てはまらない。


 親が金持ちで、将来が約束されているのは幸福なことだ。自分が恵まれているというのはよくわかっている。ただ、少し恵まれすぎているとも思う。そのせいで、多くの人から妬まれ、敵視されてきた。

 俺の持つものを奪おうとしてくる敵は数えきれないほどいる。だが信頼できる味方なんて一人もいない。親だって、妹だってそうだ。血が繋がっていようと、何を考えているかわからない他人であることに変わりはない。


「……いや、お前、思ったより小さいなって思っただけだ」

「小さい……ですか?」


 陽依は自分の胸元に視線を落とし、体をねじりながら腕を胸の前で十字に組んだ。


「お兄様も大きい方が好きなのですか?」

「何の話をしてるんだ。背だよ。身長の話だ」

「……ああ、身長ですか。私はてっきり……」


 コホンと一つ咳ばらいを挟み、陽依は姿勢を元に戻す。


「狭い部屋で二人きりになったことで欲情したのかと」

「お前、そんな冗談言うタイプだったか?」

「冗談ではありませんよ。私もいつまでも子供ではありません。まだ十三歳といえど、徐々に大人の魅力が溢れ出てくる年頃です。その色香がお兄様を意図せず籠絡してしまうことだって考えられます」

「俺だって男だからな。魅力的な女性と自室で二人きりになれば、無関心ではいられないかもしれない。だが普通に考えて妹にそんな感情を抱くことはないだろ。いや、妹でなかったとしてもお前はない」


 好きな女性のタイプというのは、典型的な正解のない質問の一つだ。聞く相手によって答えは違って当たり前。千差万別の回答には個性や人生観が如実に表れる。

 俺の場合、唯一にして最大の条件は信頼できる相手であること。これを満たしている女性が好きで、これを満たしていない女性が嫌いだ。


 俺の妹はモテるらしいが、血縁であることを抜きにしても、信頼できない人間である時点で恋愛対象になるはずもない。世の中には何を考えているかわからないミステリアスな女性が好きという奇特な趣味を持った男もいるようだが、俺には理解できそうもない話だ。


「ふふ、そうでしょうね。それは良かった。お兄様が妹に手を出すような変態だったらどうしようかと思っていたところです」

「おいおい、俺の言葉を信用するのか? まだ俺が実の妹に欲情する変態である可能性は捨てきれないだろ。心配なら帰ったらどうだ?」

「私はお兄様を信用していますから、その必要はありませんよ」 

「信用か。根拠のない信用は、ただの無警戒と同義だと思うがな」

「根拠はお兄様と積み重ねて来た時間です。それで充分ではありませんか?」


 陽依は薄っぺらい言葉を並べ立て、引き下がる素振りを見せない。


 こうなったからには、言い包めて追い出してやろうなんて考えるのは諦めた方が良さそうだ。陽依のことはよくわからないが、厄介な敵であるということだけは確かである。

 考え方を変えればこの状況は、最も厄介な敵が常に目の届く範囲に居てくれるということでもある。一緒の家に住んでしまえば、陽依は俺に隠れて悪だくみをすることが難しくなるし、不穏な動きを見せればすぐに止めることもできる。隙さえ見せなければ、むしろこっちが有利になると言えるかもしれない。


 つまりこれは根競べだ。一つ屋根の下に住み、先に痺れを切らして迂闊に動き、隙を見せた方が負けとなるゲーム。兄妹喧嘩にしては重苦しいが、妹に勝ちを譲ってやるつもりは毛頭ない。


「さて、お兄様。ではそろそろ荷物を整理しましょうか。私の部屋はどこですか?」


 陽依は手近にあった段ボール箱を開封し、中身を確認し始める。


「……お前は何を言ってるんだ?」

「へ? 私、何かおかしなことを言いましたか?」

「もう一度よく確認してみろ。お前の部屋もなにも、ここに部屋は一つしかないぞ」


 目を丸くし、改めて部屋をキョロキョロを見回すが、他の部屋へ繋がる扉など影も形もない。


「寝室は……?」

「ここだ」

「リビングは……?」

「ここだ」

「書斎や調理場は⁉」

「全部ここだ。ほら、部屋の隅にキッチンがあるだろ」

「じゃ、じゃあお手洗いやお風呂はどうなってるんです⁉」

「風呂はない。トイレはあるぞ。共用だが」

「────ッ⁉」


 故郷でも焼かれたのかというぐらいの勢いで、彼女は膝から崩れ落ちた。


「お兄様……」

「なんだ」

「引っ越しませんか?」


 この根競べは、ひょっとしたら思いのほか早く決着がつくかもしれない。

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