第4話 できればこの記念すべき日を、もう少しゆったりと味わいたかった
「嬉しいです。まさかお兄様が私と食事を共にしたいだなんて」
学校前のドーナツ屋はそこそこ盛況で、席を取るのには少し時間がかかった。机を挟んだ向こう側には、相変わらず腹の内の読めない薄ら笑いを浮かべた陽依が座っている。
入学初日は学校が半日で終わったので、今はちょうど昼飯時だ。机の上には彼女が選んだドーナツが9つ。一桁に抑えるとは、陽依にしては少ない方だな。
「やはり兄妹なのですから、一緒に食事をするべきですよね。以前まではなかなかお会いする機会もありませんでしたから」
「お互いに忙しかったからな。しかし同じクラスになってしまったからには、こうして顔を突き合わせることも増えるだろうな」
「もしお望みなら、今後は私がお昼ご飯をご用意しましょうか? 私、料理の腕には自信があるのです」
「いいや、結構だ。自分の飯ぐらい自分で準備するさ」
「そうですか、それは残念です」
陽依は首を軽く傾け、穏やかに微笑む。
彼女に料理なんて任せたら、一体何を入れられるかわかったものじゃない。口では残念などと言いつつ、俺が即座に断ることなどわかり切っていただろうに。
「それにしてもお兄様、今日はなぜ誘ってくださったのです?」
「……ただの気まぐれだ」
俺はチラリと店の奥の席を見る。
そこには既に田村がスタンバイしていたが、声をかけるタイミングを掴み切れずにいるらしい。近づいてくる気配はない。
「気まぐれ、ですか。お兄様らしくありませんね」
「そうでもない。俺だってその場の思い付きで行動することもある」
「今回もその場の思い付きで決断なさったのですか?」
「……今回とは?」
「稲山高校に進学を決めたことです。お父様が話を通していた高校を断り、わざわざ遠く離れたここを進学先に選ばれたのも、ただの気まぐれですか?」
「それは親父がそう言ったのか?」
「その通りです。反対こそしませんでしたが、お兄様に深い考えがあるとは思っていない様子でしたね。飽きたらいつでも帰って来い、ともおっしゃっていましたよ」
「飽きたら……ねぇ」
俺は遊び半分でここに来たわけじゃないんだ。そう簡単に帰れるわけがない。
「お前こそ、いつでも帰っていいんだぞ。義務教育も修了していないお前に高校の勉強は難しいんじゃないか?」
「そうですね。それは私も不安に感じていたところなのですよ。ああ、そうだ。もしよろしければ、私に勉強を教えてくださいませんか?」
「……俺が?」
「はい、お兄様ほどの天才にご教示いただけるのであれば、私も高校の授業についていける気がします」
「断る。俺は自分の勉強で手一杯なんだ」
「ご謙遜を。今日だって、新入生代表として挨拶なさっていたではありませんか。あれは入試の成績がトップだったということですよね?」
「さあな。明言はされていないはずだ」
新入生代表は、入試の成績が一番良かった生徒がやるものであるというのはよく聞く話だが、うちの高校においてもそれが当てはまるのかどうかはわからない。挨拶を引き受けるにあたっても、そこら辺の説明はされなかった。
「お兄様が聡明であられるのは疑いようのない事実。こんな田舎の高校にお兄様を超える逸材がいるとは到底思えませんので、最も優秀なのはお兄様であると断言してしまってもよろしいかと」
「やけにおだてるな……何が目的なんだ。何を言われようが奢ったりしないぞ。割り勘にもしない」
「ふふ、ごめんなさい。久しぶりにお兄様とゆっくりお話しすることができて舞い上がっているのかもしれませんね」
そんな話をしている内に、陽依のドーナツは残すところあと1つとなっていた。一体いつの間にあの大量のドーナツを口に入れたのやら。
「さて、ドーナツも残りわずか。お昼時でお店も混雑してきました。食べ終わればすぐに退店しなくてはならないでしょうし、あまり猶予はありませんね」
「……猶予?」
「名残惜しいのですよ。今日は初めて、お兄様と二人きりでドーナツ屋さんに来た記念日です。できればこの記念すべき日を、もう少しゆったりと味わいたかった」
陽依は最後のドーナツを頬張り、両手を顔の前で合わせる。
「ごちそうさまでした」
そんな動作を見て、今まで尻込みしていた田村も不味いと思ったのか、重い腰を上げてこっちに近づいて来た。
「────よ、よう! 奇遇だな広政! こんなところで!」
声は聞き取れないほど上擦り、動きは壊れた人形のようにぎこちない。どうやら相当緊張しているらしかった。
「あ、あれぇ⁉ そ、そこにいるのは誰だぁ? ひょっとして、広政の妹の、多田羅陽依さんかなぁ?」
笑ってしまいそうになるくらいわざとらしく声をかけられ、陽依はゆっくりと振り向いた。
「こんにちは。田村幸助さん」
「え、あ、あれ? お、俺の名前おぼ────」
その瞬間、田村のにやけた表情があっという間に氷漬けになった。
俺からは、振り向いた陽依の後頭部と、鬼でも見たのかというほど青ざめた田村の顔色しかわからない。
「ひゅっ……ひぇっ……あ、あの……」
「どうしました? 田村幸助さん。ひょっとして具合が悪いのでは? 早急にご帰宅なされることをお勧めしますよ」
「は……はひ……帰りまひゅ…」
田村はチーターに追われる鹿のように、一目散に駆けだして店から出て行った。
「え、あ、おい!」
俺が慌てて声をかけた時には、もう彼の背中は見えなくなってしまっていた。もはや慰めるどころの話ではなかったみたいだ。
「さて」
陽依がクルッと振り返る。その顔には、いつも通り底の見えない不気味な笑みが貼り付いていた。
「そろそろ帰りましょうか。お兄様」
「……ああ、そうだな」
どうやら俺の見立ては数段甘かったようだ。そう簡単にいくはずがないとは思っていたが、彼氏を作らないどころか、取り付く島もないとは。
他のことに熱中させて俺から意識を逸らさせようという作戦は見事、粉々に打ち砕かれたわけだ。田村には悪いことをしたな。事前に考えておいた慰めの言葉を明日送るとしよう。
というわけで、こうして、厄介な妹である陽依を無力化しようとした俺の計画は、完全なる大失敗に終わってしまったのだった。
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