第50話 皇女と王女
ファレル達がトリトニス湖を渡っている頃、ガルア渓谷にも異変が訪れていた。
その異変とは砦を尋ねたある客人がもたらしたもの。いや、むしろその客人そのものが異変というべきだろう。なにせ、尋ねてきたのは、この場所を訪れるどころか、帝都を出ることさえあり得ない人物だ。ユーリアをしてこの来訪は完全なる予想外だった。
来客の名は、カトレア、カトレア・ファム・アルケイデン。ファレルの実妹にして、最後のアルケイデンがガルア砦を尋ねてきたのだ。
会見の場所として選ばれたのは、新築された砦の中庭。帝都の庭園とは比べるべくもないが、仮の居城としては十分な整備がされていた。
「幽閉されている割には、随分と楽しそうじゃないか。
「あら、義妹だなんて畏れ多いですわ、殿下。どうか、カトレアと呼び捨ててくださいまし」
「いいや、義妹と呼ばせてもらう。ほら、上下関係ははっきりさせておきたいだろ? 君も遠慮なく姉上、もしくは姉さんとでも呼ぶといい」
「いえ、殿下と呼ばせていただきます。私には兄はいても姉はいませんから」
テーブルを挟んで向かい合った二人は互いに笑顔だが、空気は完全に凍り付いて真冬の湖のようだ。武器さえ持っていれば相手の喉元を突き刺しているだろう。
そんな空気の中、テレサはどうにか平静を保っていつも通りに黒茶を淹れる。二人の好みは把握している。憎しみさえ感じさせる敵対関係にある二人だが、黒茶の好みだけはどうにも似通っていた。
「あら、テレサ。いたのですか。てっきり、お兄様の側にいると思っていましたが」
最初から気付いていたくせに、意地悪くそう言いだすカトレア。彼女にしてみれば祖国を奪ったユーリアも、兄を独占しているテレサも大した差はなかった。
「……今は別命を受けておりまして。御兄上様の護衛は他のものに任せております」
「珍しい。お前は何があってもお兄様から離れぬと思っていましたが……わたくしの買い被りでしたか。まあそもそも臣下の身で出すぎた真似が多いのです。お兄様が疎んじられたのだとしても何の不思議も――」
「メイドいびりはそこまでだ。今のこいつは私の臣下、これ以上の侮辱は許さない」
助け舟を出したのは、意外にもユーリアだ。
テレサを恋敵として見ているという点においては彼女もカトレアも大した差はないが、カトレアと違いユーリアはテレサを対等な敵、競い合う相手として見ている。宿敵と言ってもいい。
その宿敵を辱められることは自分自身を辱められるのに等しい。そういう高潔さともいえるものをユーリアは持ち合わせていた。
「あら、主筋として忠告をしていただけなのですが……まあ、いいでしょう。本題は別にありますから」
そんなユーリアに対して、カトレアはあっさりと引き下がる。敵地で不利な勝負をするほど彼女は愚かではない。
「本題に入るより先に私の質問に答えろ。何故、お前がここにいる? 帝都から出る許可は出していないが」
カトレアの切っ先を制するように、ユーリアが先に仕掛ける。
ファレルも含め旧アルカイオス王国の王族、要人のうち国外に逃亡したもの以外の身柄はユーリアの管轄下にあり、その大半はしかるべき場所に幽閉されている。ユーリアか、もしくはほかの皇族、それもユーリア以上の権限を持つ皇族の許可がなければ帝都から出ることは許されないはずだ。
となれば、カトレアがどうやって帝都からの出立の許可を得たのかは想像に難くないが、それでもユーリアはあえてカトレアに尋ねている。おまえは誰の手先なのだ、と問いただしているようなものだった。
「外出の許しなら、皇帝陛下より直々にいただきましたわ。たった一人の身内である兄と話されては寂しかろうと慮ってくださったのです。もっとも、その兄も今は不在のようですが……」
「残念ですわ」とため息を吐くカトレア。男なら誰でも騙されるような殊勝な演技だが、ユーリアの目には空々しく写っていた。
「分かっていて尋ねてきたんだろうが。それとも腹黒い本性は大事なお兄様には内緒なのかね?」
「ええ。殿下はともかくお兄様に幻滅されては、わたくし生きていけませんもの」
カトレアの目が据わる。普段の花のような可憐さはそのままに背筋に寒気が走るような声を発していた。
戦場でのファレルに似ているが、また別種の殺気。彼女は笑顔のまま躊躇いなく談笑相手の首を描き切るだけの冷徹さを有している。
「陛下からの許可、つまりは宰相殿の使いということだな。宰相殿も迂遠なことをする。私に用があるなら自ら出向けばよいだろうに。歓迎させてもらうぞ」
「さあ? お忙しいのでは? なにせ、ここは帝都からも遠い僻地。わたくしでしたらわざわざ帝都を留守にしませんわ。ましてや、望んで引きこもるなんて、何か企みがあると白状しているようなものですし」
「なに、籠の鳥よりはいくらかいいさ。それこそ、私は望めば愛しい相手に会える。仕えてもらって、尽くしてもらえているしな、存分に」
「仕えている、というのはどうでしょう。一方通行で呆けていると足元を掬われますよ。私のお兄様は決してあなたの小間使いで収まるようなお方じゃありませんので」
「それを言うなら――」
「ゴホン」
永遠に続きそうな罵り合いに辟易して、テレサが咳払いをする。いい加減本題に入らないと、このまま日が暮れるまでやり合っていただろう。
「今日は宰相閣下から言伝と贈り物を預かって参りました。まあ、不要とは思いますが」
「なんだ、やっぱり使い走りか。今から凸私に鞍替えすればもう少しましな役目を与えてやるぞ。そうだな、私の侍女とか」
「冗談でも遠慮いたしますわ。だって、お傍に置かれてしまったらいつ手が滑るとも限りませんから」
「……それで、姫様。御伝言とは?」
また罵詈雑言の欧州に陥りかけたところで、テレサが割って入る。無礼は承知の上だが、主の妹と仮初とはいえ主の主が殺し合いかねないのをただ見ている内容はこれだけです。再編が済んだ以上はごくつぶしを養う理由はない、ということですね」
「ふむ。本当に使い走りだったか。ご苦労だったな、義妹よ」
前回と違って、宰相からの要請にそこまでの無茶はない。相変わらず勅命という形で皇帝の権威を濫用している点は気に食わないが、今回はユーリアにも応じる準備がある。
カトレアの言葉通り、今やユーリアの配下となった第三軍はつい先週再編を終えた。まだ所属している貴族や領主がすべてユーリアに心服しているわけではないが、戦えるだけの体制は整えてあった。
「まだ贈り物が残っておりますわ、殿下。殿下が今一番欲しがっておられるものをお持ちしました」
「ふむ、妙なことを言うな。君の兄上ならとうに私のものだが?」
「そちらを差し上げた覚えはありません。ですが、人という点では同じかもしれません。さ、こちらへ」
カトレアが手を叩くと、中庭に新たな人影が姿を現す。ずっと日陰に立たされていたその人物にテレサは最初から気付いていたが、特に脅威を感じていなかった。
戦士でなければ、王の影でもない。ユリアンの一件からより注意深く相手を観察するようになったテレサだが、そのテレサの感覚にもその人物は引っかかっていない。
強いて言うならば、一介の侍女。世話役の容姿にも注文を付けるカトレアが連れてきただけあって、見た目は整っているが、茶色の髪といい、眼鏡と言い地味な印象がぬぐえなかった。
「名前は、シャルロットと言います。料理も洗濯も掃除も一向に上手くなりませんが、数字にだけは異様に強いのでお役に立つでしょう。まあ、不要ならそこらに捨て置いていただいて構いませんが」
「よ、よろしくお願いしまひゅ!?」
あんまりにもあんまりな主の紹介に、舌を噛む侍女。とても何かの役に立つとは思えない有様だったが、後にこのシャルロットがユーリアの危機を救うことになる。
時に、大陸暦一五九九年の春。役者は揃いつつあった。
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