第49話 一夜の過ち

 翌朝、ファレルは見覚えのない部屋のベッドの上で目覚めた。

 小さな部屋だ。僅かに揺れている。その揺れがだと気付くのにはそう時間はかからなかった。


 ゴート号の船室、それも一般の船員のための部屋ではなくにファレルはいた。


「まさか……」


 ファレルは服を着ていない。シャツどころか、ズボンさえ履いていないというのは言い訳のしようがなかった。

 

 恐る恐るファレルは寝台の隣に視線を向ける。

 シーツの下は明らかに盛り上がっている。誰かがそこに横たわっているのはまず間違いない。


 問題は、それが誰かということ。普段ならばファレルの隣に寝ているのはテレサだが、今彼女は遠く離れたガルア砦にいる。

 では、テレサではない。大問題だ。


「…………よし」


 覚悟を決めて、ファレルはシーツに手を掛ける。やってしまったことは覆しようがない、場合によっては責任をとるしかない。


「う……ううん」


 しかし、それより先にが目覚める。シーツから顔を出すと、隣にいるファレルを見つけ、穏やかに微笑んだ。

 日に焼けた肌はたおやかな曲線美を際立て、整った顔立ちから険が取れて柔らかい。今の彼女は船長ではなく年相応の淑女だった。


「おはよう、ファレル殿」


「お、おはよう、メリンダ船長」


 裸のメリンダを見て、ファレルの脳裏に昨夜の記憶が鮮明によみがえる。


 二人とも強かに酔っていた。宴会が解散になった後は二人で飲みなおそうということになり、この船長室に招かれた。メリンダ秘蔵の醸造酒の瓶を空けて、その後にベッドに入ってやることをやってしまった。

 

 その最中のことも覚えている。完全に理性は停止していた。


「昨夜は、その、ありがとう……」


「い、いや、礼を言われるようなことは……」


 戦場においては妙策奇策を次々思いつくファレルだが、この場ではまともな返答を絞り出すことさえできていない。困惑と罪悪感と責任感がない交ぜになり、完璧なまでに動揺していた。


 酔っていたとはいえメリンダを抱いたことそのものは後悔していない。テレサも臣下としては主君の女性関係にはとやかくは言わない、むしろ、アルカイオスの血筋のことを考えれば推奨さえするだろうが、それと女として悲しまないかは別の話だ。

 ましてや、これは。一度目の誓いは何処に行ったのかと問われれば返す言葉もない。


「そ、そのだというのに、女である私から刺そうというのはどうかと思ったんだが……酒の勢いということで目をつぶってくれ。い、いい思い出になったわけだし……」


 初めての単語に、ファレルは眩暈を覚える。ますます罪深い。

 テレサに対してもそうだし、ここに留まれない身でメリンダに手を出した自分の浅はかさにファレルは自らの首を締めあげたかった。

 

 だが、自分を責めているだけでは何も解決しない。こうなればすべてを打ち明けて、責任をとるほかない。テレサを悲しませることにはなるだろうが、やってしまったことを覆すことはできないのだから。


「メ、メリンダ船長……オレは……」


「メリンダ。昨日みたいにそう呼んでくれ。まあ、その、船員たちの前では遠慮してほしいけど、私にも威厳というものがあるし」


「そ、そうか。では、メリンダ。オレは――」


 改めて切り出そうとしたファレルの口に、メリンダは人差し指を立てる。彼の目をまっすぐに見つめてゆっくりと首を振った。


「責任をとってくれ、なんて言わないさ。そもそも誘ったのは私だし、どうなっても私の問題だ」


「――しかし」


「ファレル殿の事情は私には分からない。だが、肌を合わせたんだ何か大きなもののために戦っていることくらいは分かる。私のために立ち止まらなければならないなんて、そう思わないでほしいんだ」


 慈愛に満ちた女神のような声で、メリンダが言う。しかし、ファレルは心の奥底ではそんな言葉を望んでいるからこそ簡単に頷くことはできない。

 それではあまりにも軽薄に過ぎるし、なにより男としての沽券にかかわる。


「……確かに酔ってはいたが、君に言った言葉に嘘はない。その後の行為についても然りだ。だからこそ、君には本当のことを――」


「言わなくていい。聞けば助けたくなる。お互いにとってそれはよくない」


 メリンダの言わんとするところは、ファレルにも理解できる。

 自由を旨とするメリンダたち船乗りと今のファレルではその生き方があまりにも違いすぎる。互いに支え合うにはあまりにも価値眼が隔たっているのだ。


 破綻は目に見えている。そんなことになるくらいならいい思い出にしてしまえばいい、それがメリンダの考えだ。

 あまりにも割り切った、極端ともいえる合理性だが、気まぐれな湖で生きていくには必要不可欠な知恵でもあった。


「……わかった。君がそう言ってくれるなら、オレに言えることはない」


「ああ。それでいいんだ。なに、もう少しは一緒にいられる。もしそれでも未練があるなら、またこの湖に来ればいい。私は貴方のことは忘れはしない」


「オレも忘れないさ」


 そう言ってファレルは自らメリンダに口づける。船員たちが起き出すまでにはまだ時間がある。はっきりと思い出を刻むには十分だった。



 結局、ゴート号のカドモスへの出港は翌日の早朝ということになった。

 船賃が無料ということでカラールは乗り気であったし、ゴート号であれば安全性も速度も文句はなかった。


 湖賊の討伐という回り道こそあったものの、カドモスの街まではもはやなんの障害もない。旅は順調、かのように思えた。


「…………ねえ」


 長い上に気まずい沈黙の後、エリカが口を開いた。

 甲板の船べりだ。出港からしばらくしてファレルの吐き気が収まったところで、エリカは彼の隣に陣取り、そのままつい今まで黙り込んでいた。


「な、なんだ、エリカ」

 

「この前の宴会の後、どこにいたわけ?」


「あ、ああ、あの日か。別の酒場で飲みなおしてたらつぶれちまってな。というか、この話昨日もしたと思うんだが……」


 エリカは明らかに機嫌が悪い。というよりは、怒っている。理由は明らかであるし、ファレルもそれは分かっているが、正直に白状するわけにもいかず苦しい嘘を繰り返していた。

 恐るべきは女の勘、とでも言うべきか。エリカ一目見た瞬間にファレルが何を隠しているのか見抜いていた。


 味方はいない。一応護衛であるユリアンと口裏を合わせようとも思ったが、


「ふーん。で? 本当は?」


 しかし、それも限界が近い。嘘を吐けばつくほど、誤魔化そうとすれば誤魔化そうとするほど事態は悪化する。

 結局はあらいざらい話すしかないのだが、それには相応の覚悟が必要だった。


「…………その、あれだ。言い訳はしない」


 それでも煮え切らないファレルの態度に、エリカは深々とため息を吐く。相手の名誉も慮っていることはエリカにもわかるが、それとこれとは話が別だった。


「……まあ、恋人でもないあたしがあれこれ言う義理はないんだけどね。アンタはそもそも王族だし、貞操観念になんて期待してませんけど。でも、これでも元妹分だし、テレサは今も親友だし? 感心しないし、腹を立てるのも当然の権利だと思うんだけど?」


「お、おっしゃるとおりです」


 返す言葉もないといった様子のファレルに、エリカはふんと鼻を鳴らす。

 態度としては怒り心頭だし、心中も怒りと悋気で燃え上がっているが、あのファレルが何も言い返せずに項垂れているというのはそれはそれで愉快ではあった。


 なんにせよ、今の自分とファレルは雇い主と傭兵という関係でしかない。そこまで相手の懐に踏み込む理由はない、エリカは自分にそう言い聞かせていた。


 そんな人間模様にも構わず、船は湖を渡る。水平線にはカドモスの街が揺らいでいた。


 

 

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