第45話 王子と船長
ファレルの予想通り、その夜、メリンダは寝付けなかった。
仕方なしに寝酒をあおろうとしたところで、明日のことを考えて甲板へと出る。たまには見張りを代わり、夜風を肌に感じて見習いの頃を思い出すのも悪くない、そう自分に言い聞かせた。
灯りを手に甲板に出ると、月明かりが射しこんでいることに気付く。夜風はまだ肌寒いが、緊張に火照った体には心地よかった。
一方、マストの上に視線を向けても見張りの姿は見えない。勝手に持ち場を離れるはずがないといぶかしんでいると前方から声を掛けられた。
「――眠れないのか?」
ファレルだ。彼は船首辺りの船べりに腰かけて、葡萄酒の瓶を手にしていた。
「見張りのものは?」
「頼み込んで代わってもらったんだ。少しばかり一人になりたくてね」
嘘だ。メリンダは知る由はないが、ファレルはここで彼女を待っていた。手にした葡萄酒もそれを悟られないための演出に過ぎない。
メリンダの感じている重圧や緊張はファレルにも覚えのあるものだ。乾坤一擲の戦の前夜はどれだけ覚悟を決めたつもりでも心は波立ち、背筋は凍る。とても眠れたものではない。
そのような時、ファレルの側には必ずテレサがいたが、メリンダにはそんな相手はいない。であれば、先達として少しは重荷を軽くしてやろうというファレルなりの気遣いだった。
「どうだ、少し付き合ってくれないか?」
「……そうだな。一杯だけなら」
ファレルが酒瓶を差し出すと、メリンダは素直に受け取って唇を付ける。豪快に呷ると、口元を赤い葡萄酒が伝った。
「美味いな、うちに載せてる酒じゃないな」
「カラール秘蔵の一品さ。出向前に一本頂戴しておいた」
ファレル自身も一口呷り、メリンダに隣に座るように促す。彼女はゆっくりと船べりに腰かけた。
昼間、戦場で指揮を執っている時に比べてメリンダの姿はいささか頼りなく見える。しかし、しおらしくなったその姿にはそそるような色香があった。
そんな感想を抱いたところで、ファレルは自分を戒める。せっかく親切心を出したというのにそこに下心が混じっては台無しだ。それになにより、これ以上、自分の運命じみた女難を自覚したくなかった。
「……
「そんなことはないさ。誰でも眠れないことくらいある。責任ある立場ならばなおのことそうだ」
ファレルの言葉には実感が籠っている。
もう慣れたと思っても、この程度のことと割り切っていても、不安や恐怖はふとした瞬間に襲ってくる。それにどう対処するかは人によって違うものだ。
「まあ、結局のところ、消えることなんてないんだ。もし仮に今の立場から降りても今度はまた別のものに追われるだけ。程度の差はあっても、生きるっていうのはそういうものなのかもな。だから、何かで誤魔化して生きていくしかない」
「随分悟ったことを言うじゃないか。実は、神父だったりするのか?」
「口がうまいだけだ。おかげで生き延びてるが」
ファレルの言葉に、メリンダは微かに笑う。彼の答えは実に彼女好みのものだった。
大言壮語を吐き、飄々と立ち回り、しかして己の信念には誠実。ファレルのそんなあり方がメリンダにはある船乗りと重なって見えていた。
「…………この船は私の家に代々受け継がれてきたものなんだ。代を重ねるごとに改修を重ねて、元の船の建材は竜骨くらいしか残ってないが、逆のそれがこの船を私たち一族の歴史そのものにしているんだ。だから、この船が沈むときは私も運命を共にする。それが今代の船長としての責務なんだ」
だからだろうか、メリンダは今まで内に秘めていた内心を思わず口にしていた。
このゴート号の初代船長は二百年も前の人物だ。その初代船長以来、この船は歴代の船長に受け継がれて今に至る。積み重ねられた年月はそのままメリンダの肩に重く圧し掛かっていた。
「死ぬことは恐ろしくない。船に乗った瞬間からそれは陸に置いてきた。恐ろしいのは、途絶えてしまうことだ。長く続いてきた歴史が、受け継がれてきた意志が、消えてしまうことだけが私は怖い。もし、私の命と引き換えにこの船を残せるならそれで構わない、そう思えるほどに」
ファレルは何も言わない。この苦悩の重みを彼は知っている。慰みや励ましが時に侮辱になることも理解している。
重要なのは、ただ耳を傾けること。それだけのことが百の言葉以上に、相手の痛みを和らげることもある。
「…………ありがとう。少しだけ眠くなったよ」
「そうか。なら、こいつは一人で空けてしまうか」
「それはだめだ」
去り際、メリンダはファレルから酒瓶をひったくる。月の光が彼女の顔を照らした。
笑みを浮かべている。まるで伝説にあるこの湖の女神のようにいたずらっぽく、艶やかな笑みだった。
「明日の戦いに勝った後で、勝利の祝杯にしよう。それまではお預けだ」
「ふむ。勝たなきゃならん理由が一つ増えたな」
そのままメリンダは船室に戻る。ファレルのおかげか、あるいは遅れて寝酒がきいたのか彼女はそのまま朝まで眠っていた。
◇
そうして、朝が来る。しかし、東から昇ったはずの朝日をゴート号の船員が目にすることはなかった。
霧だ。少し先も見えなくなるほどの濃霧が環礁一帯を覆いつくしてしまったのだ。
明らかに自然現象ではない。まとわりつくような霧は時を経ても薄まることはなく、ただそこに意思があるかのようにとどまっていた。
そんな中で、ゴート号は錨を上げた。霧の外を目指すようにゆっくりと環礁の中心へ向けて進み始めた。
船の周囲は特に霧が濃く、例え敵船が近づいてきてもその船影を捉えることさえ難しい。この状態で攻撃を受ければ逃げるどころか、反撃することも難しいだろう。
討伐隊が壊滅した時と全く同じ状況にゴート号は陥っている。だというのに、メリンダ船長はまだ動こうとはしなかった。
その様は味方のみならず、敵の目にも奇妙に映っている。
すでに彼らは包囲陣形を敷いている。一番艦は砲撃のための配置につき、残る二隻も環礁を覆廻りして逃げ道を塞いだ。
あとは一番艦の砲撃を合図として一気に攻めかかるだけ。敵はたったの一隻で罠に飛び込んでいる。一瞬で片が付く。
だというのに、一番艦もまた動かない。否、動けない。敵の動きの意図が理解できず、決断を先延ばしにしているのだ。
敵船がゴート号であり、この船が前回壊滅させた討伐隊に参加していたことは彼等も知っている。だというのに、敵はあまりにも無防備で無策だ。このまま攻撃すれば決着は一瞬で着く、ように思える。
その容易さが湖賊の頭目の将としての本能を刺激している。それこそ安易に攻撃すれば、それが命取りになる。そんな予感がしていた。
だが、頭目はともかくとしてその配下には目の前の敵は獲物にしか見えていない。あと数分、いや、あと数秒たりとも我慢ならないと目を血走らせている。
様子を見ている間に、誰かが命令違反を起こすことは明白だ。であれば、いっそ命令を下してしまった方がいい。すべてが杞憂に終わることもあり得るのだから。
「――撃て」
そうして、頭目は静かに命を下した。
すぐさま砲撃手が六門の大砲に一気に点火する。人の頭ほどの鉛玉は曲線を描いて、標的へと命中する、はずだった。
「当たったか?」
頭目がそう問いかけた相手は、傍らに控えているリゲイア族の魔術師だ。
この濃霧で敵の正確な位置、そして敵船の状況を知ることができるのはこの霧の発生源でもあるこの老魔術師だけだ。
「……わからぬ」
「な、なに、どういうことだ? さきほどまで位置は掴めていたはずではないのか!?」
「見えぬ、聞こえぬ。敵が我を欺いている。だが、どうやって――」
その答えを口にするより先に、頭目はある事実を悟る。
ここは死地だ。敵がどんなからくりを用いたにせよ、罠にはまったのはこちらの方だったのだ、と。
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