第37話 王子と修道女

 教会の内部は、外見に比べると多少は修繕が施されていた。

 屋根も取り付けられて、机と寝台が置かれ、生活空間として最低限の体裁は保っている。しかし、がめついことで有名な聖神教の聖職者の部屋にしては質素に過ぎる。この部屋のために使う金があるなら、ここで暮らしている民のために使う、アンジェリカのそういった精神性を物語っているようだった。


 やはり厄介な相手だ、とファレルは警戒を強める。

 人間には必ず弱みがあり、相手のそれを掴むのが交渉の第一歩だ。商人であれば商いの利益、貴族であれば名誉や風聞などだ。聖職者であっても例外ではないが、となれば話は別だ。


 そういった人間は己が信仰に全てを捧げている。保身も、栄達も、己が命にも、何物にも顧みない。つまり、明確な弱みはない。そんな輩に有利立ち回るのはファレルでも簡単ではない。


 聖神教は教義として、弱者の救済と万民の平等を掲げている。その教会では神の教えに帰依するものは身分の別、人種の別なく救いの手を差し伸べるのが決まりだ。

 アンジェリカはその決まりを誰よりも忠実に守っている。表の人々を見ればそれは明らかだった。


「……それでシスター」


 深く息を吐いてからファレルが切り出す。噂の黒騎士を前にしているというのに彼女の笑顔には一点の曇りもない。

 恐れも、戸惑いもない。ファレルがここにいることを当たり前のように受け入れていた。


「ここには、わたくしたちを追い出すために参られたのですか?」


「決めかねている。領民から何とかしてくれとは頼まれたが、どう何とかするかはオレに一任されてる」


「なるほど」


 顎に手を当て考え込むアンジェリカ。本気でどうすればファレルを説得できるのか、考えていた。


「御覧の通り、この教会に集まっている方たちはいかがわしいことのために集まったわけではありません。皆困窮し、行き場もないので、仕方なくこの教会に身を寄せておられるのです。それを軍でもって追い散らすなどという惨いことはなさらないでください」


「確かに……彼らが傭兵や匪賊の類じゃないことは認めよう。だが、これからそうならないとは限らない。一人でも秩序を乱すものがいれば、こちらとしては排除せざるをえない」


「そうはなりませんし、させません。この教会にいらした方々にそのような方は一人としていませんわ」


 瞳を逸らすことなくそう言い放つアンジェリカに、ファレルは彼女の信念の強さを垣間見る。

 策略と暴力を供としてきたファレルには彼女のように本心から人を信じることは難しい。信じることがあってもそれは能力によってであって、無条件にではない。

 

 ゆえに、ファレルにはアンジェリカの信仰心が眩しく思える。皆がそう生きられればきっと争いなどなくなるのだろう、とも思った。

 だが、眩しく思えるからこそわかることもある。結局、世の中はそうできていない。どれだけ文明が進み、社会が進歩しても人間は人間だ。それ以外のものにはなれない。

 

「それは保証にはならない。分かるか、シスター。信仰は許そう、布教も許可しよう。だが、ここで彼らが暮らすならば保証が必要だ。この地の法に従うという保証が」


 ファレルの指摘に、シスターは視線を伏せる。

 信仰はどうあれ、道理は道理だ。元からこの地に暮らしていた領民もまた彼女にとっては信徒であり、信徒候補。その心を無視するわけにはいかない。


「……わたくしが保証いたします。聖神教会の修道女として、この教区の教区長として」


 そう口にしながらも自分の言葉だけでファレルが納得しないことは、アンジェリカも分かっている。

 もっとも、ファレルの言う保証はそう簡単に証明できるものではない。本来ならば長い時間と積み重なる信頼だけが裏打ちできるものだからだ。いかにアンジェリカの信仰心が本物でもすぐにそれを信じさせるのは簡単ではなかった。


「わかった。とりあえずはその言葉で善しとしよう」


 アンジェリカの予想に反して、ファレルは頷いてみせる。


 もとよりファレルもアンジェリカが何か明確な保証を提示できるとは思っていない。重要なのはこの言葉を引き出したことだ。

 どこまで通用するかはわからないが、アンジェリカが精神的な借りがあると感じればそれでよかったのだ。


 もっとも、保証できたとして諍いは必ず起きる。むしろ、一度か二度程度ならば大いにもめてくれた方が統治する側としては都合がいいとまでファレルは考えていた。


「あ、ありがとうございます。貴方にも聖なる御手の加護がありましょう」


「礼を言うのはまだ早い。いくつか条件がある。その条件を呑んでくれれば、食料の配給も約束しよう」


「それは大いに助かります。ですが、条件とは……?」


 食料の配給は喉から手が出るほどにありがたいが、それで無茶な条件を呑むほどアンジェリカは愚かではない。


「ここから南下したところに手つかずの平野がある。多少、難があるのは事実だが、そこを開拓してもらいたい」


「開拓……拓いた土地はあとでお取り上げになるおつもりですか」


 ゆっくりと首を振るファレル。


「そこまで酷ではないさ。開いた土地に住むこともそこで農作を行うのも自由だ。ただし、収穫が上がるようになれば税は納めてもらうがな」


 ファレルの言葉をそのまま受け取れば、流民の扱いとしては悪くないどころか、寛大に過ぎる扱いではある。大抵の場合は汗水たらして、時には犠牲さえ払って土地を開拓してもあとから取り上げられるか、追い出されるかだ。


 しかし、問題は納めろと言われている税の割合だ。その税率によっては満足な家もない現状の方がはるかに恵まれているということにもなりかねない。

 この場で交渉するしかない、とアンジェリカの瞳に闘志が灯った。


「税は最初の三年間は五割、それ以降は七割だ」


「重すぎます。そのようなことでは皇女殿下の治世が嗤われましょう。最初の三年は三割、それ以降は四割でどうでしょう」


「それだったらこの連中を追い出して領民に開拓させた方がマシだ。最初の三年は四割、それ以降は六割だ」


「皇女殿下は領内の労務につけば今年は税を三割に免ずると布告されたそうですね? であれば、彼等もその恩恵に預かることが許されるはずです」


「教会税はどうするんだ? オレの案を呑むなら計らってやってもよいが」


「そのようなものは不要です。ここは神の家ですが、たとえ見た目はみすぼらしくとも集う人々が降伏ならば主は満足されます」


 やはり手ごわい、とファレルは兜の下で笑みを浮かべる。大抵の教会関係者は賄賂の額のみを問題にするが、彼女は違う。譲歩を引き出すには他の手を使う必要があるが、そちらはそちらでファレルの好みではなかった。


「最初の三年は四割、その後は五割だ。これ以上は譲歩せんぞ」


「ええ、素晴らしいご判断かと。貴方にも神の加護がありますように。当然、斧や鋤は用意していただけるのですよね?」


「…………いいだろう。ついでにこの教会の修繕もしてやる。領内の教会がみすぼらしくては領主の沽券にかかわる」


 ため息交じりのファレルの申し出にアンジェリカの笑顔が輝く。ファレルとしてはどうせ金を出すなら徹底的にやる、という己の信条に従っただけなのだが、彼女にとってまさしく救いの神が現れたような気分だった。


「実は隙間風が酷くて困っていたのです! これで夜子供たちに寒い思いをさせずに済みますわ!」


「……そうか」


 話は済んだ、とファレルが立ち上がる。その背中に向かってアンジェリカはこう投げかけた。


「貴方は思慮深く、また慈悲深い方なのですね、黒騎士様。人は貴方をあしざまに言いますが、わたくしが保証します。あなたは善人です。神の御加護を」


「…………見込み違いだ。後日証文を送る」


 アンジェリカの目からどう見えたとしても、自分は決して善人ではない、とファレルは知っている。すべきことをするとはそういうことだ、身ぎれいなままではいられない。


「あ、そうだ! 毎週末は礼拝ミサを行っておりますので、ぜひ一度いらしてくださいね! 黒騎士様!」


 ファレルは答えずに教会を立ち去る。愛馬にまたがると兵士たちを率いてきた道を戻っていく。交渉としては成功とは言い難いが、どこか清々しい気持ちがしていた。


 これが黒騎士ファレルと後に帝国の聖女と呼ばれたアンジェリカの出会いだ。この時以降、二人の運命は複雑に絡み合っていくのだった。



 

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