第30話 王子と暗殺者
「…………標的を動かした」
眉一つ動かさず、王の影、ユリアンは己の頬を撫でる。テレサによって付けられた傷からは赤い血が流れていた。
彼女の考え通り、この執務室にはユーリアはいない。襲撃の直前、ファレルからの合図を受けたテレサが理由を付けて彼女を移動させたのだ。
その上で、テレサはユーリアのフリをして襲撃を待った。確実に敵の意図を挫くために。
しかし、ファレルからの指示はユーリアの移送のみ。ここに留まり刺客を迎撃することはテレサの独断だ。
「貴方では私は止められない。退け」
敵と相対しながらもやはりユリアンは眉一つ動かさない。
まるで別人だ。テレサも王の影として変装や他人になりすましたことはあるが、ここまで完璧な擬態は見たことがなかった。
こうして向かい合うまでユリアン・マクビッツという人物に怪しい点は一切なかった。
貴族の娘として伝統に従い、アドワーズ騎士団に入団し、副団長に就任した。明るく朴訥な人格で、怜悧ではないが実直だった。ファレルの補佐を任せるにたる人物だったはず。
一体いつから王の影だったのか。いや、あるいは最初からそうだったのか、テレサには分からない。
だが、ユリアン・マクビッツは
「貴方も王の影なら分かるはずですよ。影は任務を果たすためなら己が命などなげうつ、と」
テレサは短剣を順手にもち、姿勢を落とす。相打ち覚悟だ。なんとしてもユリアンを、そう名乗っていた王の影を仕留める。
「――勝てませんよ、あなたは」
対するユリアンもゆっくりと指を開き、獣の爪のように構える。爪牙の構えだ。すれ違いざまの一撃でテレサの首を落とすつもりだ。
「――フゥ」
向き合った互いの呼吸が少しずつ合わさっていく。
緊張の糸はぴんと張り詰め、少しずつ頂点へと近づき、いずれ切れる。二人はその瞬間を待っていた。
ユリアンの言葉は正しい。今のテレサでは彼女には勝てないだろう。
エリカに射抜かれた右肩の負傷は未だ完治していない。テレサの本領は短剣の二刀流だ。右腕が使えない今はそれが封じられている。万全な状態ならばまだしも、今のテレサでは勝ち目は薄い。
ゆえにこその相打ち狙い。王の影の名は捨てて久しいが、
「――はっ!」
両者が同時に踏み込む。短剣はまっすぐに突き出され、獣の爪が振るわれた。
しかし、まったくの同時と思えたその二つはわずかに一方が遅れる。テレサだ。ほんのわずかに右肩の負傷分テレサが出遅れてしまった。
短剣が弾かれる。右の爪に代わって、左の爪が振るわれ、テレサの首を寸断する。その直前で――、
「――な!?」
ユリアンの動きが止まった。まるで影を縫い付けられてしまったように、彼女の体は完全に静止していた。
指の一本も動かせない。王の影ならば身体操作で手錠を引きちぎることくらいは容易いが、それでも動けない。なにか目に見えない力が働いているのだ。
「魔術……!」
すぐにユリアンはその正体に行き当たる。知識としては知っていても、体験するのは初めてのことだった。
影縫いの秘技。本来は形のない霊やあるいは言霊を縛るための魔法だが、人間などの動物に対しても効果を発揮した。
「助かりました、ニーナ様」
その場を退いたテレサがこの場を見ているであろう魔法使い《ニーナ》に声をかける。彼女の目でも姿は捉えられないが、今この城にある魔法使いは捕虜となっているウェルテナ傭兵団の魔法使いを除けばただ一人だ。
『い、いえ、私は頼まれただけですので……』
ニーナの念話が脳内に響く。今彼女は一階上で寝起きのユーリアの相手をしている。例に漏れず理由も聞かされずにたたき起こされ、機嫌は最悪だった。
「若様ですか……」
『は、はい、あなたを、テレサさんを助けてほしいと……』
五人の刺客がおとりと気付いた時点で、ファレルは城内で火を起こした。事前にニーナから彼女の結界がそう言った異常事態に反応するように設定されていることを聞かされていたからだ。
火事を感知してすぐにニーナはファレルに対して念話を繋いだ。そこで指示されたのが遠隔魔法でのテレサの援護。優れた魔法使いである彼女でも簡単なことではなかったが、元からユーリアの居室に結界を張っていたおかげで気付かれずに魔法を発動させることができた。
「……そう言われては仕方ありませんね」
主に守られたのでは護衛としての
『い、急いでくださいね。そ、そんなに長くは拘束できませんから』
「承知しました」
テレサは予備の短剣をユリアンの喉元にあてがう。このまま少し力を込めれば、命を奪える。
それが分かっていながら、ユリアンの表情は変わらない。蒼い瞳は木の
そんなユリアンに対してテレサは畏怖と哀れみの入り混じった苦々しい感慨を抱く。
ある意味この少女は王の影としての完成形だ。偽り押し殺す我さえ元から存在しない影法師そのもの。彼女は命じられればどんな人間にもなれ、どんな相手も心を動かずに殺し、自身の苦痛や死さえも他人事として受け入れられるのだろう。
もし、ファレルの護衛に選ばれなければ、あるいは彼がもっと冷淡で人を使い捨てることを何とも思わない人間だったならば、自分もこうなっていたかもしれない。そんな思いがテレサの脳裏を過った。
だが、彼女もまた戦士だ。必要とあらば刃を振り下ろす身体と精神を切り離すことはできる。例えその後でどれだけの淀みを負うことになっても。
「――待て。まだ殺すな」
「若様。しかし……」
「そいつはまだ使い道がある。だから殺すな」
ファレルは息を整えながら、テレサの側に来る。彼女に視線を向け、怪我をしていないか全身を確かめて安堵の息を吐いた。
「たとえ拷問したとしても何かしゃべるような相手ではありませんよ」
「わかってる。だが、こいつが死ねば次が送られてくる。それは面倒だ」
ファレルの言い分にはテレサとしても頷ける部分はある。
王の影は基本的に使い捨てだ。例えば一度送った刺客が失敗したとしても、次の刺客を送り込むだけだ。
だが、計画が進行中であれば次の刺客が送られてくることはまずない。少なくともしばらくの間は次の暗殺者を警戒する必要は亡くなる。
「それにもったいない。これだけ使えるやつは手駒に欲しい」
しかし、その後に続く言葉はファレルらしいがテレサには頭の痛いものだった。
悪い癖が出た、とでも言うべきか。何の因果か、有能な人材と見れば臣下にしたがるのはファレルとユーリアの数多い共通点の一つだ。さらに言えば、ファレルの場合は決まって関わる相手が美しい女であるというのが、テレサには問題だった。
「……若様はわたくしでは不足というわけですね」
「そんなわけあるか。だが、お前にはオレの側にいてもらわなきゃならん。オレには一人でも多くの味方が必要だ、こいつも含めてな」
ファレルはそう言って、動けないユリアンに視線を向ける。
暗殺者が身内に、それもアドワーズ騎士団に潜んでいるであろうことはファレルも予想していた。そうでなければ、彼等が帝都に現れたことに説明がつかない。
つまり、ファレルは内部に裏切者がいることを知りながらこの戦でアドワーズ騎士団を率いて戦っていた。刺客がユーリアはともかく自分や軍に害をなすことがないと分かっていたし、戦いを通してその正体が明らかになるならそれもいいと考えていた。
だが、そんなファレルをこのユリアンは騙し切った。その擬態能力、諜報能力はこれから必ず必要になる。ファレルにはその確信があった。
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