五
翌日。
女王とマカミは日が昇ってからの一時間ほど、昨日と同じく上半身裸の姿で潜き女達と共に漁を行った。
とは言っても、女王は今日も黒女の指導の下潜きの練習をするものの、浅瀬でさえ底まで沈むことができないでもがいていた。
しかし、
「汝、尻が沈むようになったなぁ!」
「あれーまことに!ようやってるわ!」
一時間の漁を終えて陸に上がった潜き女が、女王を指さして褒めた。
「ま、まこと、ですかぁ!?」
ゆらゆらと浮かび上がってきた女王は、海面に顔を出すと黒女に聞いた。
「まことだ!ちゃんと沈んでたよ」
「よ、よかったぁ……」
「ちょっと!海の中で気ぃ抜かないで!」
黒女は慌てて、磯桶から手を放して海に沈んでいこうとする女王を掴んで引き留めた。
「す、こしは役に立てそう、ですか?」
「まぁ、まだまだではあるけどね!」
「にへっ」
人からよく褒められるというタイプではなかった女王は、久しぶりに褒められた嬉しさから、にやけて変な顔で笑ってしまった。
「なんか臭い!!」
「!?」
己が獲ったサザエを女王の磯桶に投げ入れていたマカミが突然叫んだ。
マカミはしばらくキョロキョロしていたが、
「アイツ!アイツが臭いよヒメ!!」
「……あのマカミ様、ヒメって言うのは、ちょっと……え!?」
女王はマカミが指さした先を見た。
潜き女達が焚き火を囲んで休息をとっている磯辺に、汙志売と潜き女数人、そして奇妙な出で立ちの人物が立ち話をしていた。
その人物は紫の袍に白い袴、黒い
その衣裳は男の物であったが、
「その二人が新入りか!?」
ふたりに掛けられた声は、確かに若い女性のものだった。
ふたりは汙志売に手招きされ、磯辺に上がった。
「この方が、アマノトジ様……」
女王は思わず平伏しようと膝をつくが、
「そんなことはしなくていい」
アマノトジは女王の腕をとって立ち上がらせた。
「!?」
「汝がアマノトジって賊かい?」
「マカミ様、言い方!!」
女王は慌ててマカミをとめたが、アマノトジは気にも留めない様子で、
「如何にも。昨日は出迎えも歓待もできず悪かったな」
「あっ!い、いいえ!」
「潜きの仕事は辛いだろうが、決して悪いようにはしない。邑のために働いてくれ」
「は、はい」
アマノトジは女王の返事に目を細めると、ふたりを置いて汙志売達と共に集落の方へ歩いて行ってしまった。
「すごい、吾みたいな下々の者にまで、きちんとお礼をしてくれるなんて……」
「女王なのに卑屈過ぎない?……ヘーックシュッ!!……あー臭い!」
マカミは大きなくしゃみを一つして、
「なんか、アマノトジって変な生き物に乗ってるって、サルのやつ言ってなかった?」
あっという間に去ってしまったアマノトジを尊敬のまなざしで見送っていた女王だったが、マカミの言葉にハッとして、
「そうでした!周りに何かいますか?」
マカミはあたりを見まわすが、
「んー……分かんない。ここじゃないのかも。でも、分かったことがあるよ」
「匂い……ですか?」
「あぁ。死骸の匂い」
この辺りも胡座の邑と同じように、潜き女達による素潜り漁が盛んな地域のはずだったが、浜や磯に女の姿は見当たらない。
その代わり、男達が浜辺で丸木舟を作ったり、漁網の手入れをしたりしていた。
しかし、男達の仕事ぶりはとてもだらだらとしてやる気を感じさせないものだった。
サルタヒコは、ひとり浜辺に座り込み、小さな焚き火にあたっていた。
元々の赤ら顔をもっと真っ赤にして瓢(瓢箪でできた水筒)に入れた酒を飲みながら、刀子の先に刺した鮫のたれ(塩味の干物)を焙っては、
「アチチ、アチー!」
と、大袈裟に叫びながら口に運んでいる。
「……汝、いい顔色だなァ」
サルタヒコが振り返ると、手斧を持った男が一人立っていた。
瓢を羨ましそうにチラチラ見ている。
サルタヒコから少し離れた場所で、丸木舟を作っていた男達の一人のようだ。
「いやあ、流石ここは御食つ国、うまーいもんが沢山ありますなぁ!」
サルタヒコは刀子の先のたれを取って男に差し出した。
「吾は瓢の方がいい」
「おぉそうでありますか!失敬失敬」
男は嬉しそうにサルタヒコから瓢を受け取ると、ごくごくと飲み始めた。
「おぉお待ちを!貴重な物ゆえ飲み干して下さいますなよ!ハハハハハ」
サルタヒコは男から瓢を取り返して笑った。
「……やはり酒であったな!しかも初めて飲む!久しぶりだ、酒なんて……女共が戻ってくればまた好きなだけ飲めるのによ」
「おやぁ?そう言えば、この浜には女が一人も見当たりませんな!どうされた?」
サルタヒコは瓢に手を伸ばそうとする男から素早く瓢を遠ざけて、わざとらしく男に質問した。
「教えたらもっと酒が飲めるのか?」
「おい何してる!?早く戻って手伝え!」
丸木舟を作っていた男達がやってきて、酒をせがむ男の肩を掴んで止めた。
「漁なんて良いだろうが!どうせ吾等では大したもん獲れやせんのだから!!」
「まぁまぁ、どうです?皆様ここでしばしお休みになられたら如何です?話でもしながら、ね?」
サルタヒコはにやりと笑って瓢を振ってみせた。
男達の話では、先島半島を含む志摩国の沿岸部は五年前、嵐で壊滅的な被害を受けて舟などが軒並み流されたために、男達は外洋に出て漁をすることができなくなったとのことだった。
その穴埋めをするため、外洋に出なくてもできる女達の潜きに頼ることになった。
だが、実際潜きに頼る生活が始まると、潜き女達が獲ってくる魚介類や海藻類の方が、男達が釣ってくる魚よりも儲けが出ることに皆気づいた。
すると男達は漁に出ようとしなくなり、女達に依存する生活を送るようになってしまったのだった。
潜き自体は嵐が来る前から行われていたことだったが、嵐の後は潜きによる稼ぎだけに頼ることになったため、女達は今までよりも長時間海に潜らなければならなくなった。
長時間の潜きの上に家事や育児まで行わなければならず、女達は疲弊し体を壊す者も多くなった。
そんな中、突如アマノトジが現れて、
「己の身一つで自らを養うことができる潜き女に男など不要!潜き女達よ、吾の下に集い吾等だけの里を作るのだ!」
と呼びかけたので、潜き女達はあっという間に邑からいなくなり、アマノトジが襲撃して男達を追い出した胡座の邑に『女護ヶ里』が出来上がったのだった。
サルタヒコは話を聞きながら、男達に気づかれぬようため息をついた。
昨日から先島半島の邑を回って話を集めていたが、どこも似たような内容だったからだ。
「皆様家にいてんだったら、せめて家の事くらい手伝ったらいかがです?」
「何を言う!家を守るのが女の役目ではないか。何で吾等が!?」
男達は呆れたように言うと、変なことを言うとサルタヒコを馬鹿にするように笑った。
この流れまでどこも変わらず同じだった。
しかし、集まった中でも比較的老齢の男が、たれを噛みながら違うことを話し始めた。
「……これは吾の古い知り合いから聞いた話なんだがな……ここからもっと北の
「ほほう、それは興味深い!でも、どうして誰も信じようとしなかったんです?」
新しい情報にサルタヒコは身を乗り出して質問した。
「結局皆が捜すのを止めたのは、その女がどこかで死んだだろうと思っていたからだ。男は女に刺された時、己も女を刺したのさ。血塗れの刀子を持って倒れていたからな」
その日の夜。
黒女は皆が寝静まったのを見計らって外にて、森の中に入っていく。
女王とマカミは昨日と同じように、敷かれた藁の上で横になっていた。
「うう……う……痛……」
女王は身体を丸め、小さな声で呻き声をあげていた。
女王が体を起こすと、しゃがみ込んだマカミが、心配そうな顔で女王を見つめていた。
「あ……ご、ごめんなさい、起こしちゃった」
「どうしたんだい一体!?」
「あの……体中痛くて……背中も……」
マカミは女王をひっくり返すと上衣を脱がし、ずっとつけられているかまどの火に照らされた背中を見た。
「んー……よく分からんけど……もしかして、赤くなってる?」
そう言って、マカミは女王の肌をつつく。
「痛たっ!」
「……汝、それ日焼けじゃない?」
「日……ヤケ?」
「そうそう、人って体に毛が生えてないから、ずっと日の下にいると肌が茶色くなるんだよー。外にいる人って皆そうじゃない?女王は日焼けしたことないの?」
「そ……そう……そうか、白い肌じゃなくなるから、あまり影のない所にいるなって大津が……それでなんだ……痛た!」
女王は両手で己の肩のあたりを押さえて痛がった。
「痛いんだったらさぁ、アマテラスの力を使えば?汝いつも皆の怪我治してるじゃない」
「!?そんな!……己のために、アマテラス様のお力をお借りするのは、ちょっと……」
「まだそんな事言ってるのかい!?頑固だねぇ。痛いんだろ!我慢できんのかい?」
「う……でも……今、御玉持ってないし……」
「もうっ、仕方ないねぇ!」
しびれを切らしたマカミが立ち上がると、突如ボフッという音と共に赤い炎がその体を覆った。
そして、次の瞬間にはマカミと同じ体長の黒い狼が女王の前に座っていた。
「ほれ、背中向けな!舐めてやるから」
「!!えぇ!?」
「大概の傷は舐めりゃ治るんだよ!早く!」
「え、で、でも!?」
マカミは女王の体にのしかかって押し倒すと、強引に背中を舐めはじめた。
「!?うひゃっ、くっ、くすぐったい!!」
「治るかどうかは別として、冷たくて気持ちいいでしょうが!」
「!?そ、それは……んふっ……そうですが……んんっ!」
マカミは騒ぐ女王の肩から背中にかけてひとしきり舐めると、体から離れた。
「前の方は?」
「せっ、背中だけです!!」
「あんまりギャアギャア騒ぐと皆起きちゃうんじゃない?」
「!!そ、そうですね!気をつけます……」
女王は起き上がって上衣を着ると、
「あの……ありがとうございます」
と、マカミに向かって平伏した。
「いいって!一年も汝に付き合ってんだし、もう汝は吾が子と同じだよ!」
「!い、良いんですか?吾も?……嬉しいです……それであの、話、していいですか?」
「いいよぉ」
マカミは女王の隣に座り直した。
「……ど、どうしてこのままじゃ駄目なんでしょう?」
「へ?」
「吾、もっと……もっと酷いことされるかと思ってたんです、吾……何もできないから。でも!黒女様も汙志売様も他の潜き女の皆様も全然……だから嬉しくて。吾、京にいる方が辛いくらいで……」
「そうだったの?」
「はい……何よりその、アマノトジ様が、お優しくて。びっくりして……何で征討する必要あるんですか!? 皆ここで幸せに暮らしてるのに!」
女王は目に涙を浮かべている。
「!」
「アラガミ様はどうしても征討しないといけないんですか!?こ、このまま……このままそっとしておくことは無理なんでしょうか!?……吾、もう誰も、死んで欲しくないです!うぅっ……」
女王はフカフカなマカミの首の毛に顔を埋めて泣きはじめた。
「……あっ!でも、アラガミ様はアマノトジ様じゃなく、その乗っている獣の方だとしたら……」
「いや、アマノトジはアラガミだ」
「!?」
女王は驚いて顔を上げた。
「ヒメさー、この邑に馴染んでんのは良いけど、やっぱアレはアラガミだよ。吾、サルみたいに詳しくないから分かんないけどさー。だってアレ、人の匂いしないもん」
「そんな!!」
「とりあえず今日はもう寝て、明日にはここ出よ?サルやイザサとも相談した方がいいよ」
「うぅ……」
マカミは女王の顔を舐めて、涙をぬぐった。
「……アイツら何やってんだ?」
猫の姿のイザサは、昨日と同じように女王とマカミの家のそばに佇んで聞き耳を立てていた。
「人の匂いがしない?この腐臭のことか?」
イザサは鼻を鳴らすと、あたりを見まわした。
「昨日は薄かった匂いが、今日は濃くなっている。しかし……ここにはいないな。どこだ?……!?」
イザサがふと黒森の方を見ると、山頂付近に灯火が見える。
イザサは口角の端を上げて嗤った。
「さっさとカタつけちまうか!」
イザサは飛び跳ねながら集落を横切り、森の中に飛び込んでいった。
猫の姿のイザサは、木々が生い茂った暗い森の斜面を、難なく駆け登っていく。
「!」
イザサは斜面を登りきった所で急停止した。
近くの太い幹の木の陰に身を隠す。
たどり着いた山頂は僅かながら平地になっており、小さなあばら家が一軒建っていた。
開け放たれた小屋の出入口から、弱い灯りが漏れている。
「昨日来た時は誰もいなかったが、ここが拠点か。では、この死臭は何でだ?」
イザサは音を立てないよう慎重に歩を進めた。
前方から、白くキラキラした光の柱がまるでスポットライトのようにイザサに向かってサアッと奔った。
「!!」
イザサはギリギリのところで右に避けた。
平地は狭く、後ろに下がれば斜面を転げ落ちる所だ。
「何だ!?冷た……!!」
あばら家の陰から、白いモノがゴトゴトという音を立てながら現れた。
そのモノは馬ほどの大きさで、頭が二つあり、胴は一つ、脚が六本生えている白い牡鹿であった。
右の頭がキーンと鳴いた。
あばら家の灯りが消される。
「今のは此奴が放ったのか!?」
イザサは一瞬にして人の形に変化すると、両の腰に佩いていた刀を抜こうと柄に手を掛ける。
「!!」
あばら家の中から矢が一本飛んできた。
イザサが余裕の表情で矢を斬り払った瞬間。
「おわっ!!」
イザサの右側から白い光の柱が飛んできて直撃した。
イザサの胴体の右半分があっという間に凍りつく。
「ぐうっ!」
飛んできた矢がもう一本、イザサの左肩に突き刺さった。
「もう一体いるのか!?」
イザサは周りを見るが、暗いためよく見えない。
人に変化しても鼻が利くマカミと違い、イザサは人になると鼻は利かず、眼も人より少し暗がりがよく見える程度でしかなかった。
目の前のアラガミの、左の頭に生えた二本の角の間でバチイッと火花が散ったと見えた瞬間、イザサに向かって稲妻が飛んだ。
「!!」
あたりはフラッシュを焚いたように白くなったが、すぐに元の暗闇に戻った。
アラガミの左の頭がキーンと鳴く。
イザサの姿はそこになかった。
あばら家から、弓矢を携えたアマノトジが現れた。
「……骸はない。逃がしたか!追おう」
アマノトジはアラガミに跨ると、アラガミはゴトゴトゴトと脚を踏み鳴らしながら、速いスピードで斜面を下りた。
「力とは手段だ。汝が何のために強くなりたいのかが定まらぬうちは、どれだけ修練を積んだとて、たいして強くはなれないだろう」
猫の姿になって斜面を駆け降りるイザサの頭に、かつて飼い主だった男の声が響く。
「嫌というほどわかっているさ!なんせ今まで、色気出して勝てたためしがないからなぁ!クソッ!」
稲妻を喰らった時の衝撃で、イザサの身体についた氷は剥がれた。
しかし、負傷した右の手脚を引きずっている上に、毛は黒焦げ、左肩の矢傷からは血が流れる満身創痍の状態で、素早い身のこなしはもうできない。
「!?……おっとぉ!」
暫く森の中を走っていたイザサは突如急停止すると、回れ右をして進路を変えた。
急停止した少し先には、暗闇の中森の木々に埋もれるように、黒女と彼女と同じぐらいの年の男が逢瀬を重ねていた。
「……女だけの里ねぇ。やってけるとは思わねぇけどなぁ、大来よ」
イザサが人の形をしていればこの上なくバツの悪い顔をしただろうが、猫の姿だったので多少鼻の頭に皴が寄った程度に収まった。
侵入者をこのまま逃せば、必ず仲間を引き連れて戻ってくる。
人間相手なら多数でもなんとかなるが、アラガミの数が増えれば流石に勝ち目はない。
アマノトジと鹿のアラガミは、決して逃しはしまいと一夜中イザサを探し回った。
東の海が白み始めた頃。
黒森から離れた森の中に入った時、
「?……あれは!?待て、止まってくれ!」
アマノトジは突如叫んだ。
アラガミが脚を止める。
アマノトジはアラガミから降りると、しばらく歩を進めた。
「!!汝……黒女か!?」
アマノトジの目の前に、抱き合う黒女と男がいた。
「!!」
「アマノトジ様!!」
黒女と男がアマノトジに気づき、慌てて起き上がる。
「吾等が邑の決まりを知っているだろう?」
「!!」
黒女の顔は、暗闇の中でも恐怖に怯えきっているのが見てとれた。
アマノトジの目が、なんの灯火もないのにどんよりと赤く光る。
その目には、昼間女王達に見せた優しい眼差しなど欠片もなかったのだった。
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