「あー……」

 マカミは困り顔で頭を掻いた。

 女王が振り返ると、肩から胸、臍の下までにも渦を巻いたような文様の赤い文身が入れられている。

 この文身は、女王が天照大神の御霊を託けるためにほうり(神官)達によって入れられた古いまじないだった。

 残念なことに、痛みを伴う大変な苦労をして文身を入れても、結局この方法では御霊を託けることができなかったのだが――

「こ、こ、これをみ、皆様が見たらど、どうしよう!な、なんて思われるか……怪しいです、よね!?ま、まさか衣を脱いで働くとは思ってなくて吾、あの!!」

 マカミは混乱する女王の二の腕を掴んで、

「まぁ落ち着け落ち着け!!それこそ今更騒いだってどうしょうもないじゃないよー!じゃあその皮剥いでみるかい?」

「むむむ無理ですそんなの!!」

「何騒いでんだ!!」

 汙志売がしびれを切らして家の中に入って来て叫んだ。

「!!」

 女王は思わず胸を隠して汙志売に背中を向ける。

「おっと!」

 マカミは慌てて女王の前に立ちふさがって文身を隠そうとするが、汙志売はマカミを押しのけて女王を見た。

「汝何隠してんだ!こっち見な!」

「あ!!」

 汙志売が女王の腕を払うと、胸があらわになった。

「!!」

「……手、見せてみな」

「?……は、い?」

 女王はキョトンとした顔で、両手を開いて見せた。

「……なんだ、金目の物でも隠し持ってんのかと思ったよ」

「えっ!?」

「早く仕度しなって言ってんだろ!もしかして、汝は今日を働かないで終わらすつもりかい!?働かない奴にいいは食わせないよ!」

「えっ!?いえ、あの……でも!」

「しつこい!!」

 そう言うと、汙志売は外に出て行ってしまった。

「……見てた……よね?それ」

 マカミは女王の文身を指さした。

「えっと……多分そう、じゃないかなと……」

「よく分かんないけど、とにかく着替えよ!」

 マカミはさっさと衣を脱ぎ始めた。

「う……はい」

 女王も観念して着替え始めた。


 不思議なことに、汙志売も外で待っていた黒女も、上半身が露わになった女王を見ても何一つ追求しなかった。

「汝、まことに女だったんだね!さっきは疑って悪かったよ!」

 と、むしろマカミのそこらの男よりも立派な体躯の方が気になっていたようだった。

 邑の潜き女達が漁をする磯は、ふたりが上陸した白浜の続きにあった。

「新入りが来たぞ!」

 汙志売が海に向かって声を掛けると、潜き女達が十二人、顔を出してふたりを出迎えた。

 十代から三十代といった年齢の、働き盛りの女達だ。

 興味津々といった面持ちの潜き女達に注目されて、女王は思わずマカミの後ろに隠れる。

 しかし潜き女達は、マカミの立派な体つきや、対照的な女王の華奢な体についてはあれこれと磯桶にしがみつきながら大声で感想を言っても、女王の文身については一切触れないのだった。

「?」

 女王は不思議で仕方がない。

 この毒々しく赤い不気味な呪いを施した体を見て、まるで何もないかのような態度をとった者は今まで一人もいなかったし、言わないとしても目を逸らすなど、拒否感をむき出しにした対応を取られたものだった。

 女王は誰かに理由を聞きたいと思ったが、もともと内気な性格が災いしてなかなか言い出せない。

 その上、

「海に潜るんだろ!そーれっ!!」

 と、マカミは女王を置いて桶ごと海に飛び込んでしまい、代わりに聞いてもらうことも出来なくなってしまった。

 マカミは潜き女の間近に飛び込んで危ないと叱られ、ギャアギャア騒いでいる。

「大来も磯のそばで暮らしたことないの?」

 女王は、その様子を面白そうに眺めていた黒女に話しかけられた。

「え?……あ、はい……」

「海に入ったことは?」

「ま、まだ……」

「じゃあ怖いよね。吾も最初は怖かったもの。でも少しずつ体を慣らせば大丈夫だから!」

 黒目は女王を励ますかのように笑った。


 現在の伊勢志摩地方で海女が行う漁法は、海女が陸地から漁場まで直接泳いで行って漁をする「カチド」、夫婦・親子といった男女一組が舟に乗って共同で作業する「フナド」、男の船頭と複数の海女が舟に乗って漁場まで行って漁をする「ノリアイ」と三種類あり、邑の潜き女達が行っているのは「カチド」にあたる。

 カチドの漁場は己で泳いで向かうために陸から近く、漁は磯辺や他の漁法の漁場よりも浅い海で行われる。

 ふたりが渡された謎の道具はアワビオコシと呼ばれ、これを使って海中の岩場にへばりつくアワビなどを素早く剥がして、磯桶と呼ばれる曲桶の中に入れる。

 磯桶は獲物を入れるだけでなく、疲れた時に休憩するための浮きの役割も果たしていた。

 獲物はアワビやサザエ、トコブシにイワガキ、ナマコ、ウニにイセエビといった現在でも海女漁といえばこれ、と思い浮かぶ魚介類の他に、ワカメ、ヒジキ、テングサといった海藻類も含まれた。

 女王は一時間程、まだ冷たい春の海に震えながら、黒女に手取り足取り潜き方を教わった。

 その結果、何とか磯桶にしがみつきではあるが浅瀬に出ることができるようになった。

 しかし、どれだけバタバタ足を動かしても、尻が海上にぷかぷか浮いてしまって潜ることができない。

「あれを磯桶の代わりに使ったらいいんと違うか!?」

 女王の情けない有様をみて潜き女達は爆笑することしきりで、

「いやー、一目見てなにも出来なさそうだとは思ったけど、ここまでとはね!」

 と、他の潜き女達と共に漁を始めていた汙志売も苦笑する。

「吾がヒメの分まで獲ったからいーだろ!」

 マカミは桶いっぱいに入ったアワビやトコブシを汙志売に見せて女王を庇った。

「汝は調子に乗りすぎだ!小さな物を獲りすぎるなと言っただろ!?」

「働きすぎも困ったもんだ!」

 潜き女達はまた笑う。

「じゃあそう言うことにして、もう今日はふたりともいいから。上がって火にあたりな!」

 汙志売は陸の方を指さして言った。

 陸ではノルマをこなして仕事を終えた潜き女達が、焚き火で暖をとっている。

「え?……吾はまだ」

「最初っから汝に期待しちゃいないよ!せめて明日はその尻を沈められるようになるんだね!」

「?……は、はい……」

 ぐったりして磯桶にしがみついていた女王は、怪訝な顔で返事をした。


 その日の夕刻。

 昼間女王とマカミが舟を待っていた浜島の方角に夕日が沈んでいく。

 薄暗くなってきた邑の広場の中央では、女王とマカミ、そして潜き女達が大きな焚火を囲んで新入り歓迎の宴を開いていた。

 皆潜ぐ時と違ってきちんと上の衣も着こみ、胡坐をかいて思い思いに飲み食いしつつ騒いでいる。

「アマノトジはどいつだい?」

 マカミがあけすけに質問すると、

「残念だが今日は邑にお戻りになれんそうだ。明日お会いになるから、楽しみにしてな!」

 汙志売はそう答えながら、他の潜き女達と焚き火の中に活きたアワビやサザエ、イセエビなど、今日獲れたものをどんどん入れていく。

「はい、オガイ(クロアワビ)だよ!」

「あっ!あつっ!!」

 女王が潜き女から渡された殻付きのアワビを受け取ると、熱さに思わず取り落としそうになった。

 その慌てた姿を見て皆が笑う。

「こ、これ!どうやって食べれば……」

「手でつまんで食べんだ。切ってやろうか?」

「あ、ありがとうございます」

 アワビを渡した潜き女が、腰に差していた刀子で器用に身を切り分けた。

 女王は恐る恐る手でつまんで口にする。

「……美味しい!こんな食べ方初めてだ……」

 焼けたアワビを口に入れた女王は、干した鮑とは違った食感に驚いてつぶやくと、夢中になって殻の中の身を食べ始めた。

「何だいこれ!清酒すみさけじゃないか!どうやって手に入れたんだい!?」

 女王の隣に座るマカミは土器かわらけの盃に注がれた透明な液体の匂いを嗅ぐと、驚いて叫んだ。

「そうだ!他の邑にいたら一生飲めん貴重な酒だ。でも、今日は新入りが二人も来たんだから、大盤振る舞いだぁ!」

 マカミの隣で飲んでいた潜き女が、既に酔っているのかマカミの肩を叩いて得意げに話した。

「アマノトジ様は吾等が獲ったもんを上手い事やり取りして、酒やらよねやらに交換してきて下さるのさ!それにアマノトジ様は独り占めをなさらん。手に入れたもんは皆邑の女達に分けて下さる」

「……!これ、白米しらけのよねだ」

 女王は手渡された大きな白米の握飯にぎりいいをまじまじと見て驚いた。

「へぇ!大来は白米知ってるんだ」

 隣に座って握飯にかぶりついていた黒女が、女王の言葉に驚いて聞いてきた。

「あ!いえ……その!たまたま、み、見たことがあって……」

「吾、こんな真っ白い飯があるなんてこの邑に来るまで知らなかった。凄いよ。この邑も、邑をお作りになったアマノトジ様も」

 女王は、黒女の優しさに甘えようと思った。

「……あの、黒女様に聞きたいことが、あるんですけど……いいですか?」

「もちろん!」

「あの、吾……へ、変じゃないですか!?やっぱり」

 女王は身体に入れられた文身ごと掴むかのように、上衣の胸の辺りを掴んだ。

「だって、これ!……でも、邑の皆様誰も何も言わなくて……なんで、吾に優しくして下さるんですか!?」

「……優しくしてるわけじゃないよ」

「へぇっ!?」

「この邑はね、誰がどこから来た何者だとか、そういうことを言ったり聞いたりしないんだ。大来はまだアマノトジ様にお会いしてないよね?」

「あ……はい、まだ」

「アマノトジ様自体がね、謎のお方だから。どこから来たどういうお方かお話にならないし、吾等の事もお聞きにならないの。皆それを見習っているんだよ。だから」

「アマノトジ様が……謎のお方」

「だから、ここに来る前のことは関係ないの。ここへ来た女は皆同じ、潜き女」

「!皆、同じ……」

「そ。それとね。潜きもどうしてもやらなければいけないってわけじゃない」

「えっ!?」

「働かなくていいってわけじゃないんだよ!潜きが無理なら、汝の出来そうな仕事を手伝ってくれればいい。潜きの仕事はつらいから体を壊すことも多いし、潜きができなくなった時のことも考えないとって……これもアマノトジ様がね」

「す、すごい。弟みたいなこと言ってる」

「え?」

「あ!いえ……なんか、凄いですねアマノトジ様って。色々考えてらっしゃって」

「そうだよ!アマノトジ様も素晴らしいし、何よりここは良い邑。男達は気に入らないみたいだけどね」

 マカミは汙志売や他の潜き女達と楽しそうに酒の飲み比べをしている。

 歌う者、踊る者、食べ続ける者、酔いつぶれる者。

 女王は旅の途中で様々な邑に立ち寄ったが、女達がこれほど明るく生き生きとして楽しんでいる様を見たのは初めてだった。

「あー今日は大来とマカミが来てくれたおかげで、美味しいもの沢山食べられた!ありがとう」

 黒目は女王に礼を言うと立ち上がった。

「今日はもう先に寝る。明日もよろしくね!」

「あ!はい、ありがとうございました」

 大来は思わず平伏して礼を言った。

「そんなに緊張しなくていいんだよ!邑の皆が親族うがらみたいなもんなんだから」

「は、はは……」

 女王は曖昧に笑って、家に帰っていく黒女を見送った。

 死んだ母と弟以外の親族とは、気さくに話した経験のない女王だった。


 深夜。

 女王とマカミはあてがわれた家に戻り、床に敷かれた藁の上で熟睡していた。

 今まで決して楽ではない旅を続けてきたため、地べたや藁の上で寝ることに慣れていた。

 潜き女達の寝息やいびきが集落に響く。

 そんな中、黒女が静かに家から出てきた。

 その手には火のついていない松明が握られている。

 黒女は極力音を立てない様忍び足で集落を横切ると、集落を覆う森の中に入っていく。

 猫の姿のイザサが、その様子を女王達が眠る家の陰から見つめていた。

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