翌日。

 女王と大口真神は、仮宮から南へ歩いて三時間ほどという距離にある、浜島という邑の浜辺に立っていた。

 マカミはいつもと変わらない格好だが、女王も真神と同じ麻の衣を着ている。

 アマノトジが支配する邑には女しかいないため、住民を増やすにはどこかから若い女を調達しなければならない。

 そのためアマノトジはしばしば他の邑を急襲して女を攫ったり、定期的に女を要求したりしていた。

 これを利用し、女王とマカミを周辺の邑の女達の代わりに引き渡して潜入させようということになったのだった。

 ふたりのそばには、兵士が五人護衛兼引き渡し役として控えている。

「本当に行くのー?大変なんじゃない?」

「マカミ様良いんですか?吾なんかに付き合って」

 マカミは大きく伸びをして、

「いーわよ!どうせ狩りも出来なきゃ大したおのこもいないしで暇だからさー。あ、なんか今度行く邑って男自体いないんだっけ?楽しーのかなー、男いない邑って」

 女王は緊張感の全くないマカミの言葉を聞いて微笑む。

 マカミと一緒にいると、その大らかな性格のおかげで、女王はいつも緊張している心が少しくつろぐような気がするのだった。


 晴天の下、砂浜に穏やかな波が打ち寄せる。

 ふたりの目の前にある海は大洋ではなく英虞あごという名の湾だ。

 英虞湾の向こう、それほど遠くない所に深い森に覆われた小山が見える。

 先島という名の半島は、その黒森という名の小山を終着点に東に向かって伸びていた。

「おい、舟が来たぞ!」

 女王達のそばに立っていた兵士の一人が海を指さした。

 黒森の方から、一艘の丸木舟が浜に向かってやってくる。

 女王が目を凝らすと、女王達と同じような麻の衣を着た若い女が二人で舟を漕いでいた。

 舟が浜にたどり着くと、

「今日から邑に来るっておとめは、その二人だけか?」

 と、より年上に見える女の方が女王達に向かって声をかけた。

「そうだ!」

「五人だとアマノトジ様は仰せだぞ!」

「仕方ないだろうが!もうこの辺りに女は居らん!!」

「口答えをするな!アマノトジ様の御業は海を越えて届くぞ!」

「!!」

 兵士達は女の言葉に思わず身構えた。

「……汝達なれら、早く乗りな!」

 と、もうひとりの女が促したが、女王とマカミは顔を見合わせる。

「案ずるな。女を傷つけたりはしないよ」

 前の女の言葉に、ふたりはうなずくと丸木舟に乗り込んだ。

 女達は舟を押して海に出すと、ひらりと乗って漕ぎだした。

 穏やかな湾内とはいえ、舟は揺れる。

 女王は不安そうな顔で縁にしがみついた。

 

 イザサとサルタヒコは、見送る兵士達から少し離れた浜堤に座り、丸木舟を見送っていた。

「……御業ってなんだ?」

「知りませんよ……いやー、本当に行ってしまわれた!もう慣れたとはいえ毎回驚かされますな!『行く』の一点張りで言うこときかないんだものぉ」

「彼奴には彼奴なりに、譲れないもんがあるんだろうよ」

「ところで、大津王はどういう反応しますかな!ヒメがこんなことしてるって知ったら」

 サルタヒコはニヤニヤしながら言った。

「知るかよ」

「イザサ殿も駄目ですぞ!かずき女が漁をするところを見に行っては……グヒヒ!」

「何だその笑い方」

「だってねぇ……ヒヒヒ」

 サルタヒコはイザサに耳打ちした。

「……戯けたことを!」

 イザサは呆れきった顔で吐き捨てるように言った。

「まことこういうのに興味がないんですなぁ、イザサ殿は」

「吾は人じゃないからな」

「勿体ない!ね、ね、あの王はどういう反応すると思います!?」

「八つ裂きにされるぞ、そんな事言ってたら」

「そんなむごい事なさいませんって!」

「奴の祖父はあの葛城だ。外面よく振舞って上手い事隠しているつもりだろうが、吾には結構な殺気を向けてくるんだぞ。汝は歯牙にもかけられていないようだが」

「なっ!?……まことにそんなことなさいますかねぇ?だってあのヒメの弟殿ですぞ?」

「あの中じゃヒメの方が異常なんだ!……それより、昨日の話だ」

「はい?」

「近江の京が徴兵を始めたっていう話」

「あぁー。一応使いをやりましたけど、吉野の方はもうご存知なのでは?人同士の諍いは、酒の肴にはなっても吾等に関係のない話で」

「甘い」

 イザサは厳しい顔でサルタヒコの言葉を遮った。

「窮鼠がそんな聖人君主な態度を取ると思うか?目の前にこれ以上ない位強力な武器つわものがあるってのに」

「……ヒメも徴兵されると?」

「ヒメをあてにするのは近江の京だけじゃない。吉野もだろう」

 サルタヒコの顔が真っ赤になった。

「無礼な!アマテラス様は武器ではありませぬぞ!大体、あの剣を熱田に封じたということは、人はもう神の力を借りぬということ。ならばアマテラス様の出番もないはず!」

「じゃあ吾達は今何やってんだ?」

「!!……何って、吾等はアマテラス様の安住の地を探し」

「だから甘いって言うんだ!汝等が何を契約したかは知らんが、汝等の依頼に対する大海人皇子の見返りが、屋代を建てる土地だけだとは到底思えん」

「!!」

 サルタヒコは口をへの字に曲げて黙り込む。

「屋代を建てる前に戦が始まらなければいいな、猿田彦命」

 イザサは立ち上がって衣についた砂を払い、

「こんな地の果てでいつまでも暇を持て余している訳にはいかん。アラゴトはさっさと片付けないとな。汝も汝の務めを果たせ」

 と言うと、一瞬にして猫の姿に変化した。

「海はどうも好かん。しかし陸路を行くとなると時間がかかる。早く行かんと日が暮れてしまうな」

 イザサはサルタヒコを置いて、あっという間に走って行ってしまった。

「えっちょっと!結局行く……行っちゃった」


 丸木舟は二キロほど海上を進み、黒森のそばにある美しい白浜にたどり着いた。

 浜では三十代位の年齢の女と、女王より三~四歳ほど年上に見える少女の二人が舟の帰りを待っていた。

「なんだ、二人しかいないじゃないか!」

 年長の方の女が舟を漕いでいた女達に声を掛ける。

「ここらにもう女はいないから、これだけなんだと!ちゃんとアマノトジ様の御名は出したよ」

「……わかったよ。汝等、いつまでもじっとしてないで降りな!」

 女王とマカミが舟から降りると、女はふたりを頭のてっぺんからつま先までじっくり見た。

「また極端なのがやってきたね!一人はひょろひょろし過ぎてどこにも使えなさそうだし、もう一人は何だい?本当に女なのかい?」

「そうだよ!胸見るかい!?」

「いらん!どうせ後で分かる」

 女はマカミが胸をはだけようとするのを呆れ顔で止めた。

「どこにも使えない……」

 女王はがっくり肩を落としていると、

「大丈夫だよ!大変だけど、死ぬほどじゃないから」

 と、少女の方が女王に声を掛けた。

「た……大変は大変、なんだ」

「邑の外の暮らしと比べたら、ここの暮らしの方がずっと楽だよ!」

「?」

「ちょっと黒女くろめ!邑の紹介は吾の役目だよ!おしゃべりなんだから」

「ごめんなさぁい!」

 少女が笑って謝ると、女達も笑って返した。

 少女の行動を咎めるものはおらず、和やかな雰囲気だ。

「吾は汙志売うしめ、その子は黒女だ。汝等が慣れるまで吾等が世話を焼くから、分からないことがあったら何でも聞くんだよ」

「じゃあ聞くけどさ、ここって臭くない?」

「!」

 マカミが突然質問した。

 汙志売は苦笑して、

「磯の香りだよ!汝、今まで磯のそばで暮らしたことないのかい?」

「ないねぇ」

「これは教えがいがあるよ!」

 女達はまた笑った。

「何の匂いなんですか?」

 女王がマカミに質問すると、マカミは不思議そうな顔で、

「なんか腐ってる匂い。でも嗅いだことない色んな匂いがいっぱいするから、よく分かんないな」

「魚が腐っているのかな?」

 女王は鼻をひくひくさせてあたりの匂いを嗅いでみるが、よく分からず不思議そうな顔をして首をかしげた。

「汝の名は?」

 黒女が興味津々といった顔で女王に聞いた。

「あ!吾は……大来、です」

「マカミだよー」

「大来とマカミかぁ、これからよろしくね!」

 笑顔で話す黒女につられて、女王も笑顔を見せた。

「ほら、いい加減立ち話はやめてこっち来な!邑に案内するよ!!」

 汙志売達は既に浜を出ようと歩き始めている。

 黒女もそれに続いて歩きだした。

「ヒメ、真の名を名乗ったのに女王様だって全然気づかれてないね!良かったね!」

「うっ!!」

 マカミは笑顔で手招きする黒女を見ながら率直に言った。

「……そ、それはそれで……困るというか……つらい、です」

 女王は泣きそうな顔でなんとか答えた。

 己が民に知られる存在でないというのは当然としても、倭の皇族という権威ある立場にあるという威厳、カリスマ性がない。

 己と真逆の性質を持つ弟のおかげで、そのことは誰よりもよく分かっていた女王である。

 マカミの遠慮ない真っ直ぐ過ぎる意見は、時に女王の胸を深く刺すのだった。


 邑は浜から少し離れた内陸に作られていた。

 集落の中心は広場になっており、その広場を囲むようにして竪穴の住居が十五棟建てられている。

 女王とマカミはその中でも、葺かれた草がまだ新しい家に案内された。

「今日からここが汝等の新しい住処だよ。今は二人だけだけど、次また新しい女が邑に来たら、ここに入ってもらうことになっている。一つの家に五人で住む決まりだからね」

 汙志売が説明すると、黒女は持ってきた直径六十センチほどの曲桶をそれぞれふたりに手渡した。

「その中に、潜きに必要な道具が入ってる。汝等の全財産だ、失くすんじゃないよ!」

「潜き?って何だい?」

「はぁ?……あぁ、磯のそばで暮らしたことないなら知らなくて当然か。潜きってのは海に潜って貝や海藻を獲ってくることさ」

「も、潜る、んですか!?」

「じゃ、これから着替えて。今日から潜きを教えてやるから。ほら、さっさとする!」

 ふたりは汙志売に背中を押されて家の中に入った。

 家の中は十畳ほどの広さで、土を固めた床に藁が敷かれている。

 隅には土で固められたかまどがあり、既に火が焚かれていた。

 出入り口と天井の通風孔から入る日の光と、かまどの火が照らしているものの、それでも家の中は薄暗い。

 女王は桶を日の光に照らして中をのぞくと、

「うっ!……こ、これ、着るのかな」

 と、呻くようにつぶやいた。

 桶の中には、長さが三十センチ程、鉄製で握りに近い部分が少し湾曲した、薄く平たいへらのような道具と、ふたりが今着ているものと同じ薄い麻布でできた腰巻きが入っていた。

「マカミ様!マカミ様の所には、上の衣入ってました?」

 女王は、不思議そうな顔で謎の道具の匂いを嗅ぐマカミに話しかけた。

 マカミは桶をひっくり返して中の物を床に落としたが、出てきたのはやはり腰巻きだけだ。

「んー……下のだけみたい」

「えぇ……これだけでそ、外に出る、と?」

「ねぇウシ様!この下の衣だけ着ていくのかい!」

 マカミが大声を出して外の汙志売に聞いた。

「そうだ!」

「だって」

「えーっ!!どどどどうしましょう!?む、胸っていうかその……隠さないで!?」

 女王はうわずった声で叫んだ。

「別に恥ずかしくなくない?外で土掘り返したりしてる人の女って、結構裸で働いてるじゃない。詳しく知らないけどさー」

「そ、それもあるんですが!吾って、ほら、あの!!」

「今更騒いだってしょうがないよー。何されても仕方ないって覚悟してここ来たんでしょ」

「で、ですが!み、み、見られてはまずいのでは……これ……」

 動揺しきった女王は上衣を脱いで、己の背中をマカミに見せた。

 その背中一面に、まるで蛇がのたうっているかのような文様の赤い文身ぶんしん(刺青)が入れられていた。

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