仮宮に戻った女王は、宮にいる数少ない侍女に手伝ってもらい、首の後ろで一つに結った垂髪に、白絹の上衣と緋色の裳に同じく緋色の帯を締めるという祭祀用の装束姿に急いで着替えた。

 身支度を整えた女王が麻布の鞄を手に客殿に入ると、深縹色の冠と袍に白い袴という朝服姿の中年男と、その後ろには黒色の冠と袍の朝服を着込んだ若い男が二人、平伏して女王を待っていた。

 女王が敷かれていた藺筵いむしろ(い草で編んだむしろ)の上に座ると、中年の男が口を開く。

「志摩国志摩評督、磯部足鉾いそべのあしほこと申しまする。御杖代様におかれましては」

「あ!その、頭を上げて下さい!そういうの良いです、から……」

 女王は申し訳なさそうな声で、磯部に向かって話しかけた。

 女王は皇族、しかも先の大王の孫という高貴な身でありながら、いまだ毅然とした態度で人と応対することができずにいた。

 それでも、旅を始めた頃に比べれば……と女王を見ながら傍らに座ったサルタヒコは思う。

 人が平伏するとつい己も平伏してしまっていた女王である。

 背筋を伸ばし、姿勢を崩すことなく応対できるようになっただけでも大した進歩だった。

「ありがたきお言葉!では失礼して早速」

 磯部足鉾と部下達は頭を上げた。

 そして、磯部は事情を話し始めた。

「この志摩国の南に『先島さきしま』と言う名の半島がございます。実はその半島の果てにある黒森と申す山に、数年前から海女刀自あまのとじなる賊が住み着きまして。山の近くのむらから男達を追い出し、おみなだけの邑を作ったのでございます」

「女だけ!?」

 サルタヒコは思わず色めき立って叫んだ。

「最近は周囲の邑に女を要求したり攫ったりする始末。どうか御杖代様のお力で退治していただきたいと」

「!あ、の」

「待たれよ磯部殿!手こずっているとはいえ、人が領地を占拠しておるのならば志摩の軍団を差し向ければよろしいだけのこと。なぜこちらに話を?」

 女王が話しだす前にサルタヒコが口を挟んだ。

「何度も出兵しているのですが、追い返されてばかりで……実は、つい先日近江の京から内々で兵を京へ回すようにとの通達がありまして」

「!?」

 女王とサルタヒコは思わず互いの顔を見た。

 近江の朝廷が兵を集め始めているという情報はまだ入ってきていない。

 やはり戦になるのか?

 吉野の父はこのことを知っているのだろうか?

 弟はどうなるのだろう?

 女王は、今にも泣きそうな顔になり、サルタヒコに疑問をぶつけようと思わず身を乗り出した。

 しかしサルタヒコは、そっちの話は後だと言わんばかりの険しい顔で首を横に振って拒絶した。

「襲撃を逃れた者の話では、アマノトジという賊は全身を布で覆っており、何者かを判別することはできませんでした。しかし、見たこともない不気味な獣に跨って戦っていたと」

「不気味な獣ですとぉ?」

「なんでも脚が数えきれないほどあって、頭が二つ付いているとか」

「!!」

「なんと!アラガミではありませんか!」

「サルタヒコ様はき、聞いたことないんですか?その神様のことを」

 女王はおどおどとサルタヒコに聞いた。

 今までの道行きの中では遭遇したことがない類のモノだ。

 サルタヒコは再び首を横に振った。

「あの辺りにそんなアラガミがいるなんて聞いたことありませんよ!しかもアラガミに乗った人なんて」

「もう志摩国には賊討伐に割ける兵がほとんどおりませぬ。隣の伊勢国に増援を依頼しましても、志摩と同じく兵が少ないためこちらまで回せぬと……賊はこちらが手を出せないと勘づいたのか、新たな邑を手に入れんと強襲を繰り返しております。何卒、何卒御杖代様のお力をお貸しいただきたい!」

 磯部がそう言い終えると、磯部と部下達は揃って再び平伏した。

「どうされますか?女王」

 サルタヒコが女王に問う。

 女王は困った顔をした。

 どんなに嫌でも、答えは一つしかない。

「吾……吾の役目は、アマテラス様をお祀りできる地を探し出すこと。そして……人に仇なす怪異を征討すること!……アラガミ様ならば、仕方ないです……やり、ます」

「おぉ、ありがたい!」

「これで胡座こざの邑を取り戻せるぞ!」

 磯部達は顔を上げて安堵の表情を浮かべる。

 サルタヒコはニヤニヤしながら磯部の方を見ると、

「ままま、お話はこれ位にして……」

 と、嬉しそうな顔で右手でくいっと盃に注いだ酒を飲む仕草をしてみせた。

 磯部はサルタヒコのジェスチャーに気が付き、

「そうですな!我が館にて歓待の宴を用意しております故、どうぞお越しくださいませ。えー……」

「あー……吾は、大丈夫です……今日はもうや、休みますので」

「磯部殿!ヒメのことはお気になさらず!その分このサルタヒコがしっかりお相手致しますぞ!さぁさあ参りましょう参りましょう!!」

 サルタヒコは磯部のところへ歩み寄ると、磯部を立ち上がらせ、馴れ馴れしく磯部の肩を叩きながら連れ立って部屋を出て行ってしまった。

 磯部の部下達は慌てて二人の後を追って部屋を出ていく。

 女王は来訪者達が見えなくなったのを確認すると、

「ふあぁ~疲れたぁ……」

 と、その場に崩れるように倒れ込んだ。

 知らない人と話をする、特に今の引見のような型苦しいやり取りは、内気で人見知りな性格の女王には神経をすり減らす、やりたくない務めのうちの一つだった。

「それで?どう戦うつもりだ」

「ふぇっ!?イザサ様!?」

 誰も来ないと油断していた女王は、文字通りその場から飛び上がって驚いた。

 男が一人、女王のそばにしゃがみ顔をのぞき込んでいたのだ。

 為奢沙王いざさおうは余裕の表情で、飛び上がった女王の頭を避けて激突を回避する。

「い、い、いつからそこに!?」

 身長百九十センチに近い引き締まった体躯のイザサの肌は、女王や磯部達倭の民よりもずっと白く、奥目奥二重の三白眼に高い鼻という彫りの深い貌の形は、現代でいうところの白人の容貌そのものだ。

 しかしその髪は白人の特徴であるブロンドやダークブラウンではなく、ほんの微かに青みがかかった白い色をしていた。

 容姿だけではない。

 美豆良に結った髪と、麻でできた筒袖の衣に足結をした袴を履くというかなり前時代的な衣袴装、両腰に佩いた二振りの刀も、異様で目をひくものだ。

 そして何より印象的なのは瞳だった。

 右眼は傷を負って潰れていたが、残った左の瞳の色は薄い水色で、陽の光を受けると女王が今まで見せてもらったどの玉よりも透明に光り輝く。

 女王はその天色あまいろの左眼を見る度に魂が吸い込まれるような気持ちになり、目が離せなくなるのだった。

「相変わらずノロい奴だ。それでよく今まで生き残れたな」

 イザサは女王の隣に胡坐をかいて座った。

「す、すいません……」

 女王はしょんぼりとうなだれて答える。

 イザサはそんな女王の顔を見て、誰も気づけないほどほんの一瞬だけ微笑んだ。

「本当にアラガミなのか、確認したのか?」

「あ!……いえ、まだです!探ってみます」

 女王は慌てて居住まいを正すと、持ってきた麻布の鞄から、十センチ弱の大きさの荒筥あらばこ(葛で編まれた小箱)を取り出す。

 蓋を開けると、筥に丁度収まる大きさの白銅鏡まそかがみが入っていた。

 女王は鏡を床の上に置くと、両手を合わせて目を閉じる。

 そして女王はすぐに目を開け、両手を白銅鏡にかざした。

「?」

「……見えたか?」

 鏡には一面の緑が映っていた。

 深い森のようだが、木々の他には何も見つけられない。

「……い、いらっしゃるみたいなんですけど、ど、どこだか分かんないです」

 女王は困惑した顔でつぶやいた。

「分かんないだと!?」

「ごめんなさい!あの……吾、この国の事知らなくて、その……」

「ギャ――!!もう放さんか!!吾はこれから大事な務めが控えておるのだ!!放さんかこの駄犬め!!」

「!?」

 サルタヒコの叫び声が部屋の外から聞こえてきた。

 女王とイザサが出入り口の方を見ると、

「ほらほら!真っ赤な顔してキーキー泣き喚くんじゃないよ!あんまり喚くとこの尻ぶっ叩いてもっと赤く……」

 という朗らかな大声と共に、ジタバタするサルタヒコを肩に担いだ女が入ってきた。

 健康的な小麦色の肌に、鉄黒の長い豊かな髪を頭の後ろで束ね、麻でできた貫頭の上衣を着、腰にはやはり麻でできた布を纏うという一般的な庶民の恰好をしている。

 女はこの場にはふさわしくない衣裳で現れたが、それ以上に異様だったのは、鮮血のように真っ赤な猩々緋色しょうじょうひいろの瞳だった。

 そして、百八十センチはあろうかという巨躯。

 女は女王に気が付くと、ニコッと屈託のない笑顔を見せた。

「おっ、ヒメ!おめかししてんじゃない!で、これからどうすっか決まった!?」

「マカミ様!」

 大口真神おおくちのまかみは部屋に入ると、出ていったはずのサルタヒコを女王の目の前にドスンと置き、己もその横に座って胡坐をかいた。

「いてぇっ!!……なんという無茶苦茶な扱い!尻の骨にヒビが入ったんと違うか!?」

 サルタヒコはさも痛そうに尻をさすった。

「あ、え?あの、歓待の宴に参られたのでは?」

「コイツなしで軍議ができる訳ないだろ?遊びたきゃ仕事してからにしろ猿野郎!」

「遊びではないと言うに!接待も重要な務めの一つで……うぅ」

 イザサがギッと睨みつけて威嚇すると、サルタヒコは委縮して、口をへの字にして黙ってしまった。

「で、何だって?」

「……あっ!?」

 鏡を見た女王が小さく叫ぶ。

「どうした!?」

 一同が鏡をのぞき込むと、木々の間から大きな梟が一羽飛び立っていった。

「……」

「……ははぁ、飯豊いいとよ(梟のこと)にしては大きいですなぁ!後五十年生きることができれば、立派な山の主になれましょうぞ!」

 サルタヒコが苦笑して言った。

「……これがアマノトジか?」

「うぅ……なんだか、ち、違うアラガミ様を見てたみたいで……ごめんなさい!」

 女王はその場に平伏して謝った。

「首が二つで脚が無数にある獣ですぞ女王様」

「……その、どんなですか?」

 女王は顔だけ上げてサルタヒコに聞いた。

「はい?」

「例えばその、どんなけのもの……でしょうか?」

「え?」

「具体的にどんな形してっかってこったろ」

「吾、己で見たか、詳しいお姿を聞かないと、ちゃんと探れないんです……」

 女王は体を起こすと、しょんぼりと肩を落として言った。

 女王には百キロ以上離れた距離にいるアラガミの所在を感知する能力を与えられていたが、具体的にそれがどのようなモノか分からなければ、調べようがないのだった。

「そうでしたなヒメ!情報が少し足りなかったですなぁ」

 サルタヒコは耳の後ろを掻きながら、申し訳なさそうに謝った。

「なんだ、すぐにでも殺りあえるかと思ってたのによ」

 イザサはため息をつくと、

「……仕方ねぇ。吾が行って見てくるわ」

「イザサ殿にしては殊勝な心掛けですがいけませんな!あそこは女だけの邑なんですぞ。貴殿みたいな巨漢が行ったら即捕まりますわ」

「何だよめんどくせーなー」

「ふむ……磯部殿に頼んで誰かに潜入してもらうというのは?例えば従婢まかたちか何か使って」

「!?」

「何言ってんだ、情報収集は汝の役目だろ!汝が女装して行けよ」

「吾がですか!?こんなしわくちゃなおうな誰も引き取らんでしょ!!アマノトジは何のために女攫うと思ってんです!だったらこの犬めに行かせましょう!」

 サルタヒコはマカミを指さして叫んだ。

「何で吾が行くって言ってると思ってんだ!?」

 イザサは声を潜め、サルタヒコの耳元で叫び返す。

「うっ……」

 サルタヒコは己の言葉の矛盾に気がついて、言葉に詰まった。

 物事の後先考えずに突っ走る直情的な脳筋タイプのマカミには、潜入調査といった神経を使う任務は不可能だ。

 二柱は今までのつきあいから嫌というほど理解していた。

「汝じゃあ化けて若返れ!」

「無理が過ぎる!」

「だめです!」

「「「!」」」

 三柱はぎょっとした顔で、突然大声を出した女王を凝視した。

「どうされました?急に大声などお出しになって」

「わ、吾のせいで誰かに迷惑かけるなんて、その……」

「でも分かんなきゃしょうがないじゃない」

 退屈しだしたのか、マカミがあくびをしながら言った。

「吾が悪いんです。吾、出来が悪いから……だから、その、吾、吾が行きます!その邑へ!!」

「「「……えぇえー?!」」」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る