一
白鳳十二年三月(西暦六七二年四月)――
志摩国に春が訪れていた。
晴れた空に燕が飛び、遠くで雲雀の鳴く声が響く。
小高い山と川の間にある僅かな平地に田圃が作られている。
しかしその数はまだ少なく、平地の大部分は森に覆われていた。
まだ田起こしがされていない田圃の水に、空に浮かぶ雲が映る。
水は春の日差しを受けて優しく煌めいた。
「
黒鳶色のうねる髪を二つに分け、耳元で留めて垂らしている。
身に着けている
京から持ってきた普段着は、長い旅の間にこの一着になってしまっていた。
後手元にあるのは、引見の時に着用することになっている祭祀用の装束だけだ。
ただ、ヨレヨレの衣とは不釣り合いな、濃い色の翡翠でできた大きな勾玉の首飾りをその華奢な首にかけていた。
水面には、微笑む女王の顔が映っている。
こんなに穏やかに一日を過ごすのは何日ぶりだろう、と女王は思った。
遠い唐国で流行しているという髪型や、華やかな色合いの衣などに夢中になるよりも、こうして野山の花や小さな生き物を探したり、流れる雲や屋根から滴る雨粒などをぼんやりと眺めたりする方が女王は好きだった。
田圃と森の向こうに見える小高い山は、木々の若芽の薄萌葱色で美しく彩られていた。
女王は顔を上げると、今あの山にはどんな花が咲いているんだろう、と考えた。
「これを髪に飾ればもっと映えますのに!」
女王は笑顔でそうアドバイスして、手折った八重の山吹の花を髪に挿してくれた弟の言葉を思い出した。
漢文を学び、暇さえあれば書物を読み漁っていた博学の弟に聞けば、今咲いている花の名をスラスラと教えてくれるだろうか。
しかしその弟、
「ヒメー!ヒメはいずこにいらっしゃる!ちょっと、誰か見なかった!?ねぇ!?」
「!」
女王のいる田圃から少し離れた杜の辺りから、中年男性の甲高い叫び声が聞こえてきた。
女王が杜の方を見ると、薄色に萌黄色の縁をつけた冠と
男は杜のすぐそばの田圃で、腹のあたりまで泥に浸かり田起こしをしていた男達に向かって女王の所在を聞いている。
一人が女王の方を指さした。
「あー!!ちょっと何そんな所でボーっとしてるんですか!!探しましたよ!もー、いつの間にかいなくなって!!」
男は女王の所まで跳ねるようにして駆け寄ると、女王を責め立てた。
「ごめんなさい、サルタヒコ様。今日はもうお務めないのかなぁ、と思って……」
「お供を誰か連れて行くか、せめて一言誰かに声を掛けてからにして下さらんか!ヒメは女王なんですからね!何かあったら吾の首が飛ぶんですぞ!」
サルタヒコと呼ばれた男は、女王を人差し指でつつく素振りをしながら怒って言った。
「やっぱり、今日もお務めが?」
女王はがっかりしたような声で言った。
「え!?……あぁハイハイ。そうでございます!国府の方から
「吾?」
女王の顔が曇った。
力は己にあるわけではないのに、皆から己の力を貸して欲しいと懇願されることが辛かった。
「ささ、
サルタヒコは女王の袖をひいて畦道を歩いていく。
「あの、サルタヒコ様……その、お
「その件でございますが、アマテラス様もご機嫌麗しいようで何事もございませぬ。もしかしたら、今回はうまく行くかもしれませぬなぁ」
「そぅ、そうですか……」
しかし女王は笑顔を見せない。
しばらく時が経ってから……という事態は今まで何度もあったからだ。
あと何日、何もなければこの旅は終わるのだろう?
女王は歩きながらため息をついた。
大来女王がアマテラスの御霊をその身に宿らせた『御杖代』となり、かつてあったという神器『
現在はこの
そして、女王達は杜となった森のそばに小さな仮宮を建ててもらい、屋代に異変がないか様子を見つつ、志摩国の民のためアマテラスの力を使っていたのだった。
先程まで女王がしゃがみ込んでいた畔に、体長二メートルはあろうかという巨大な銀目の白猫が座っていた。
右眼は斬られてできたような傷で潰れており、尻尾が二本、各々好き勝手に揺れている。
猫は女王がしゃがんでいた辺りの匂いを嗅ぐと、フンッとくしゃみをした。
「全くここは海と山以外なんにもありませんなぁ!なんでも田圃が作れる平地は国にココしかないそうですよぉ!こんなんでやってけてるんですかねぇ!?」
サルタヒコの大声が杜の向こうから聞こえてくる。
猫は声がする方を見ると大きなあくびをし、
「アラゴトだと良いんだがなぁ」
と、大人の男のいい声で人の言葉を発した。
「おい、あれ……」
少し離れた場所で田起こしをしていた男が猫に気づき、恐る恐る指をさす。
他の男達も指さす方を見てぎょっとした。
この時代、まだ『猫』という存在は民衆にまで浸透していなかった。
あるいは、『猫』の姿をしていても、『ねこ』と呼ばれていなかったかもしれない。
それ以前に、ここまで大きな猫は現代でも存在してはいないのだが――
猫は男達に気づいているのかいないのか、悠々と腰を上げると、霞が晴れるようにフッとその場からいなくなってしまったのだった。
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