第3話 嵐の前

「広瀬君、次音楽選択? 一緒に行こうぜ〜」

 柏木が広瀬に声をかけている。

「いや、美術選択なんだ」

「そっか残念〜」

 去っていく柏木。岡田が俺の机に顔を乗せながら、

「僕も聡太も美術選択だよ〜」

と嬉しげに言う。

「そうなんだ。一緒に行こう」

 広瀬が微笑む。

「なんで広瀬君は美術選択にしたの?」

 と岡田が問いかけると、広瀬はうーんと考え、

「美術の方が好き…だからかな」

 と答えた。その瞳がどこか遠くを見ているようで、なんとなく心に引っかかった。

「そうか。ちなみに岡田は音痴だから美術選択なんだそうだ」

「ちょっと聡太くぅん!? 君も発表が嫌で美術選択だもんね似たようなものだよぉ!?」

「俺は歌えるし」

「はぁぁマウント取ってくるんですけどこの人なんなの」

 揉み合っていると広瀬が

「はいはい。早く移動教室するよ」

 と笑いながら立ち上がった。

「はーい」

 三人で連れ立って教室を出る。

 美術の時間中、スケッチブックを手渡された広瀬が目を輝かせたのが印象的だった。そんなに描くことが好きなのかと思ったが、ぎこちない手で一生懸命にスケッチする広瀬を見ていると、どちらかというと新しい世界に出会って喜んでいる少年のようだった。不思議な人だ。俺はというと、左手を描いていると岡田に「何それ手袋?」と言われた。楽しく描けりゃいいんだよ。一方広瀬はといえば、美術室の観葉植物を清冽な筆致で描いており、教師に褒められていた。羨ましい。

「上手いね〜〜!! いっぱい描いてきたの?」

と岡田が問えば、広瀬は

「いや、あんまり描いたことはないけど、でも楽しい」

と笑った。心底楽しそうな笑顔にこちらも和んだ。

 自然に、俺達三人は一緒に行動するようになった。柏木がたまに広瀬にからんでいるところを見るが、奴は人との障壁が低いからいつもどおりとして、他のクラスメートもそういうものとして受け入れていた。一通り広瀬を質問攻めにして得心したというのもあるだろう。一部の女子がたまに「広瀬君、かっこいいよね」と噂しているのを耳にすることもあるが、特に告白するようなイベントは発生しなかった。広瀬の性格的に、遠巻きに憧れるといった好意の向け方がしっくりくるのだろう。

「耀って恋愛したいとか思う?」

 ある日、岡田が昼飯中に広瀬にそう訊いた。んー……と思案し、広瀬は

「あんまり憧れとかはないかな……」

 と答えた。

「そうなんだー、男友達といる方が楽的な?」

「いや、それもあるんだけど、なんか恋愛にいい感情がなくて。だって『こころ』でも「恋は罪悪ですよ」って言ってたし」

「はぁ〜〜……深。まだ俺恋のいいとこしか目に入んないわ〜」

「経験ないとロマンチズムが保存されるよな」

「悪かったですね。そういう聡太もないじゃん!」

「俺はしないだけだもん。興味ない」

「うわ〜プライド高ぁ。酸っぱいブドウ理論んん!」

「ほんとにないんだよ」

 こればかりはいくら言葉を尽くしても岡田には理解されないだろう。俺には恋愛感情がないのだ。体のどこを探してもなかった。こういう体質だと、大抵の同世代と話が合わなくなる。理解されることはもう、半ば諦めている。それは岡田に対しても同じことだった。広瀬が恋愛に消極的なのには何か訳があるのだろうか。

「……なんで広瀬は恋愛にいい感情がないのか訊いてもいいか」

 そう問いかけてみると、広瀬は困ったように笑った。

「経験、かな」

「えええ耀、経験ありなのか……うらやまけしからん…………」

 岡田が頭を抱える。オーバーな奴だ。岡田がちょけたせいで、深くつっこむ機会を失った。もし俺と同じ理由なら、少し、なんというか、孤独が薄まるかと思ったんだが。そう考えて自嘲的な笑みが浮かんだ。なんだ、俺も理解者がほしいだけなのか。

「そういうんじゃないけどね。自分というか、他人のね」

 広瀬が突っ伏す岡田の肩を慰めるように触れている。

「そっか〜、まぁでも広瀬モテそうだし俺にとっちゃ羨ましいよ」

「そんなことないと思うけど……色々難しいよな」

 広瀬の顔に一瞬、苦痛に耐えるような色が浮かんだ。それが何を意味するのか、俺には理解できなかった。その瞬間、俺は理解者ばかりを欲する自分を恥じた。他人の苦しみも容易には理解できないのに、してもらうことばかりを望んでいるのは幼稚なのではないか。ここ数日付き合ってみて、広瀬には穏やかさや冷静さの裏に何か独特な影があるような気がしていた。その根に何があったのか、いずれ知ることになるのだろうか。関係が深まっていくにつれて。急に教室が暗くなった。遠くで雷鳴が聞こえる。嵐が近づいていた。

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