第6話 ゴールだけを見て

 今日、上柚木陸上競技場では東京都大会の準決勝と決勝が行われる。梅雨入りにはまだ早い五月の上旬だって言うのに快晴とはとは言いがたく、黒く低い雲が僕たちの様々な思いをグラウンドに押し込めているようだった。


 先週の日曜日に都大会の予選会が行われていた。僕は散々の出来だった。スタートも体のバランスも何も改善できなかった。今まで築いてきたアドバンテージと、あの日と同じように自分の影から逃げようとする強迫観念で、何とかタイム上位で救ってもらった。


 今までの公式大会ではゴール前で流して2位で突破することはあっても、ほぼ1位で突破してきた僕にとっては始めての経験だ。


 勿論、こんな苦痛を感じながら走る100mも初めての経験だ。


 走りたくない。こんな気持ちになった原因はなんだ?タイムが上がらないなんてことは何度もあったはずだ。それでもトレーニングや試行錯誤の先にはベストに近いタイムが出せると信じていたし、継続することで調子を取り戻すことは出来た。


 ただ今回は違う。もっとメンタルな部分で異変があるのだろう。原因を探ろうと考え込むと、余計に気分が落ちてくる。可能なら逃げ出してしまいたい。誰にも言わないが、僕の率直な思いだ。


 メインスタンドの一番前、ちょうど100mの半分ぐらいの位置が僕らのチームの待機場所になっていた。僕は充分なアップも行わずそこに座っていたが、とうとう召集がかかった。


「その、なんだ。がんばれよ」


 部長やチームメイトがそう励ましてくれたが、なんだか頭に入ってこなかった。友華と月西はその場に居なかった。まだあいつらのレース時刻には早いけど、恐らくウォーミングアップをしているのか、或いはリラックスした時間を過ごしているんだろう。友華に会って何か言ってもらいたかった。けどそれはムシのいい話か。


 待機場所から召集場所に移動するときも、僕の気持ちは沈んだままだった。途中途中でチームメイトや後輩が、何か励ましをしてくれたようだったけど、僕の耳にはその言葉は残らず状況は変わらないままだった。準決勝で惨敗したら、どんな顔で戻ってくればいいだろう。僕の頭はそんなことでいっぱいだった。


 「星川も終わったな」


 召集場所でそんなささやき声が聞こえた。確かに、そう思われて当然だろう。今までの僕だったら、調子のいいときは聞き流していたし、調子が悪くてもある種納得して受け容れていたように思う。どっちにしろふっと笑って聞き流していたのだろう。


 けれど、この日は違った。受け容れるでもなく、受け流すでもなく、その言葉は僕の心に突き刺さった。そしてその言葉が溶けて僕の心の中で不快感とともに広がった。


 笑ってごまかすでもなく、僕にしては珍しい言葉が口を突いて出た。


「うるせぇ、四の五の言うんじゃねぇ!見てろ!」


 僕は第1レーンに配された。良くも悪くもメインスタンド、チームメイト達から一番近いレーン。普段はレーンの場所なんて気にしないけど、今日だけはなんだか意味があるように思えた。


 審判員が出てくる。僕は体をほぐしながら目線をゴールに見据えた。


「On your mark!」


 確かにそうかも知れない。僕はもう終わったのかもしれない。月西に突き飛ばされた夜、影の自分と走ったときに気づき、予選会でそれは確信に変わった。


 僕の走りに軽さはもうない。風のようだといわれた星川は、どこかへ行ってしまった。


「Set!」


 スタートの体制を整え、スタンドを一瞥し目線をスタートラインに落とした。


 部長やチームメイトの姿が見えた。何とかそれらしい姿を。何とか善戦した姿を。みっともなく散るよりかは、可能性のある走りを。


 僕は息を大きく吸い、号砲を待った。


「パン!」


 音に反射し飛び出した。感覚としては少し遅い。


 7歩目、いつも通りここまでは低い体勢を取る。


 そこから5歩目、体を起こす。目線をあげた先にはゴールが見えるはず。いつもと変わらない、僕のベストな姿勢移動。


 だけど、今日は違った。ゴールの横で友華が手を筒にして叫んでいるのが見えた。

 瞬間、僕の心の不快感が花火のようにはじけた。僕は心の中で叫ぶ。


「違うだろ!せめて善戦?オレが望んだのは違うだろ!誰よりも早く、ゴールにたどり着くことだ。この瞬間、オレが最速だ!前へ出ろ!躍り出ろ!誰よりも早く!前へ!」


 体の重みが足に伝わる。僕の両足は力強く体をはじき返している。


「記録も勝利も望まないなら、ここに居る意味はないだろ!」


 姿勢はゆがんでいる。陸上のセオリーを無視した走りだ。それでも体を前に倒さずにはいられない。足の回転が追いつかなくなる感覚。気持ちだけが前に行っている。


「関係ねぇ!勝て!勝つんだ!勝てばいいんだ!オレがそれを望んだんだ!前へ出ろ!」


 倒れこむようにゴールラインを通過した。周りが見えないままのゴール。今までにない、初めての感覚。順位は?タイムは?


 一位星川、11.52

 審判員からそう告げられた。


*****


「よくやったな星川!」

「決勝残れてよかったな!」


 待機場所に戻ると、チームメイトから予想外の反応が返ってきた。いつもはもっとあっさりしていたんだけれど…


「ありがとう、でもタイム見たか?結局11.5秒だから、組み合わせの運でたまたま……。」


「いいんだよ、そんなことは!決勝に残れたんだから、やっぱりそれはすげぇよ!」


 部長が後ろからやってきて、バシンと肩を叩きながら僕に声を掛けた。それが堰を切ったのか、チームメイト達がバシバシと僕の頭や肩を叩いてきた。


「先週の予選まであんな悪い状態だったのに、どうやって持ち直したんだ?」

「でもいつもは出来てたロケットスタートは相変わらず出来てなかったけど、後半50mの盛り返し、凄かったな!」


 僕は、部長やチームメイトの思わぬ喜びように呆気に取られた。


「いや、必死で…お前らの姿も見えたし…」

「あ、星川が必死とか言ってる!一番似合わねぇ言葉なのに!」


 そんな言葉からその場が笑いに包まれた。確かに僕は必死に走るってこと、してこなかった。


「でも、こう言うとあれだけど、なんか感動したよ!絶対勝つんだっていう気持ちが伝わってきたって言うかさ、オレ達も燃えてきたよ!」

「お前ら急にどうした?いつもはレース後もあんまり話しかけてこないのに…」

「いやさ、星川のこと、あんまり人、寄せ付けないしそのくせダントツに早かったからちょっととっつきにくかったんだ。別の世界の人間なんだなって。でも、ここ最近の星川見てると、やっぱりオレたちと同じ高校生なんだなって。」

「そうそう、なんたってオレたちの代表だからな。あまりそういうとこ、見せたくないんだろうけど、やっぱり頑張ってる姿を見ると応援したくなるんだよな。」

「そうか、なんかありがとう。」


 そう言って僕は、顔を伏した。正直、涙が出るほど嬉しかった。そうか、記録だけが僕の存在意義だと思ってたけど、記録だけじゃない。勝つこと、必死になることで僕を応援してくれることもあるのか。


 高校の陸上に、計算や打算なんかいらなかったんだろうか。一年生の頃から必死にやっていれば、タイムも、僕の居場所も、もっと早く勝ち取ることができたんだろうか。今頃気づくなんて。





 馬鹿だ。





「何してんだよ、次の次、月西が走るぜ!最前線で応援するぞ!」

「あぁ、分かった。すぐ前に行く。」


 僕は靴紐を緩め、タオルで顔を拭いた。いつもなら応援なんかどうでもよく、決勝レースのコンディショニングに気をつけるところだけど、今は自然と応援に気持ちが向いていた。


******



「お疲れ様」


 ふっと気づくと、僕の横に友華が座ってた。手にはスポーツドリンクとタオルを持っていた。ちょうどスタンドに上がってきたところなのだろうか、顔にうっすら汗が浮かんでいた。


「いいレースだったね。」

「皆がそう言ってくれてるから、そうなんだろうな。」

「えー、覚えてないの?」

「実を言うと、あんまり。必死でさ。」

「私、自分の最終レースが終わった後すぐ、ほっちゃんの応援してたんだけどなー。覚えてないのかー。」

「いや、それは覚えている。友華の顔が見えてから、自分の走りが変わった気がするよ。だから決勝に残れた。」

「ホントかなぁ。」


 そうやって口を尖らせたあと、友華は持っていたスポーツドリンクを口に含んだ。


「久しぶりに大きな声で応援したから、声がかれちゃった。ほっちゃんもいる?」


 僕は差し出されたペットボトルを受け取ると、一気に飲み干した。


「ごめん、全部飲んじゃった。」

「ふふ。いいよ。」


 友華の顔が笑っていた。僕にはとてもまぶしくて、すぐに目線を外した。


「私、さっきのレース見てとってもワクワクしたんだ。ほっちゃんどこまで速くなるんだろうって。こうやって、人の気持ちを動かせる走りが出来る人、中々いないと思うよ」

「あんまり自覚無いけどな。そう言われると正直、照れる。」

「でもね、本当よ。もっと、ずっとほっちゃんの走る姿、見てたいと思ったんだ。」


 友華がそういい終わったとき、ちょうど月西のレースの予鈴がなった。


「あ、月西君のレースだ。前行って応援しようか。」


 そう言って友華はスタンドに降りていった。僕は友華を呼び止めるように声を掛けた。


「友華、お願いがあるんだけど、決勝レースもゴールの先で応援してくれないか?」


 友華は振り返ると大きく頷いた。


「あとさ、決勝レース終わったら、さっきのスポーツドリンク新しいの一本買ってやるよ。」

「ありがと!」


 そう言って友華は集団の中に入っていった。


*****


 決勝のコールがされた。隣のレーンには月西。空を見上げると、午前中の雲はどこへ行ったのか、遠く青い空が底抜けに広がっていた。


 いい気分だ。ぐるっと競技場を見渡す。チームメートが応援してくれているのが見える。グラウンドでは投擲が行われている。僕たちのゴールの方では、女子400のチームの点呼が行われている。その中で、大きく手を振っている姿が見えた。友華だ。


「やっぱりほっしー、決勝まで来たか。」


 身体をぶらぶらさせていると、月西が話しかけてきた。


「つっきーが横か。いい勝負になりそうだな。」

「久しぶりに聞いたよ、『つっきー』ってのも。確かに。いいレースになりそうだ。」


「あぁ、今度はオレが先にたどり着く。」

「今度?」


 不思議そうに聞き返す月西を横に、僕は体を倒し、独り言のように言った。


「あぁ、今度こそ、だよ」


 僕は自分の足と手に意識をさせた。


「On your mark!」


 スタート位置につき、正面を見た。ゴールの先で、友華が大きく手を振っている友華が見えた。


「Set!」


「なぁ、つっきー。おれは早いぜ」


 号砲が鳴った。


 いい天気だ。さっきまで見えてたチームメイトたち、審判、横にいる月西も、そしてゴールさえも全部視界から消えた。


 ただ一つ、ただ一人。僕には、100m先の友華だけ見えていた。

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ゴールゲイザー バラック @balack

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