第3話 背後からやってくる

 放課後、部室で着替えをしていると、「ここ使っていいんだよね」なんて同じクラスになった連中と話しながら月西が入ってきた。月西は僕に気が付くと、連中から離れて僕の方にやってきた。


「ひさしぶりだね、こうやって一緒に靴ひもを結んだりするのも。」

「そうだな月西が陸上やってたなんて知らなかったよ。」

「そっか。オレは知ってたよ。中学卒業してから今まで伊豆大島の方にいてさ。大会とかには中々出られないけど、記録とかは見られるから。ほっしーの活躍も知ってたし、ほっしーが「大会一位」とかってみるとオレも嬉しくなったよ。」

「そういうもんか。で、編入っていってたけど都大会とかのエントリーは大丈夫なの?」

「前の顧問と一緒にさ、都内のなんかの大会に出させてもらって、一応公式記録として扱ってもらえたんだ。それでもって、特例で都大会に出てもいいよ、って言われてるんだよ。」

「そんなことあんのか。で、タイムは?」

「11秒05。もうちょっとで10秒台だ、ってみんな喜んでくれたよ。じゃ、ほっしー先行ってるよ。またグラウンドで」


 そう言って月西は先にグラウンドに出た。10秒台か。

 そう思うと、僕はなんだかいたたまれない気持ちになった。


*****


 10秒台の壁は厚い。公式記録になると特にそう感じる。スタートの合図に最高の反応をし、筋肉を一気に爆発させる。地面の反動を使って低い態勢のまま加速をし、トップスピードへ。その後はリズミカルに地面を蹴り続けスピードを維持し、胸をゴールに突き出す。


 僕の感覚ではあるが、筋肉の一本一本に意識をめぐらせ、最適なタイミングと最適なエネルギーで酷使する。ツバメが、低く、滑るように空を飛ぶ様を僕はイメージをしている。そのように理屈と自分の感覚を積み重ねて、一つの失敗もせずにやっと出せるのが10秒台。それでもまだ、2年の途中に一回だけ出した10秒6のタイム以降、公式記録はおろか校内の記録でも10秒台を出せていない。


 僕の当面の目標は明日行われる校内記録会だ。ここで10秒台を出し、部長やチームメイト達に示すんだ。僕という存在がここにいるぞ、と。


「ほっしーは今日走らないの?」


 グラウンド脇で体をほぐしていると、先に部室をでた月西がやってきた。


「実はオレ、特別扱いさせてもらってるんだ。記録会に向けて、今日は調整さ。」


 そう月西に言うと、不思議そうな顔つきで言ってきた。


「陸上部で、しかも100mランナーが走らないなんておかしいだろ。せっかく久しぶりに会ったんだから、競争しようぜ。」


 月西には、こういうところがあるんだ。子どもらしい素直さというか、天真爛漫というか、悪く言うとこちらの事情をあまり考えないというか……。


 気づくと他の部員も僕達の周りに集まってきた。


「いいじゃん星川。小学生のとき出会ったスプリンターが同じ部活で競争、ってストーリー性があるじゃん!」

「いや、だからオレは今日走んないんだってば…」

「みんな、どうしたの?」


 ちょっと遅れて友華もやってきた。きっとこいつも僕に走れって言ってくるんだろうな……


「あ、月西君もいるじゃない、もう来てたんだ!」

「そう、今からほっしーとに100mの競争するんだ。」

「そうなんだ!楽しみだね!ほっちゃんとどっちが早いかな」

(さらっと競争なんて簡単に言うな。負けたほうが惨めだろ)僕は聞こえない振りをして、ストレッチを続けた。

「ほっしーは僕の100mの先生みたいなもんだからなぁ。あ、ほっしーどこ行くの?」

「オレはウェイトを取りにいくよ。」


 そう言って僕はグラウンドを出て部室に向かった。いきなり走ってコンディション落としたり、ケガなんかしたらどうするんだ?


 「全く、その辺のことを考えてないんだよな。」


 僕は独り言をこぼしながら、ウェイトを持って校庭の端に陣取った。

 ウェイトを準備したり身体を伸ばしたりなんかしていると、今日の短距離チームの全体練習が始まった。どうやら繰り返し自分の種目の距離を全力で走るらしい。何ともひねりの無い練習だ。


 けれど、ひねりや味気の無い練習でも見てる分には面白い。走り方の癖や特徴もそうだし、ストップウォッチを持って自分で計れば、そいつのタイムまで分かってしまうからだ。


 僕の関心はつい月西のほうへ向かった。


 スタートはちょっと苦手。スピードはあるが目を見張るほどでもない。タイムも12秒前半。確かに早いけど、驚くほどのものでもないな。3回ぐらい月西の走りを見た僕の評価は大体そんな感じだった。


 ただ、誰かと併走するとなると、月西の雰囲気は一変する。闘志が前面に出ているというか、「勝つ!抜く!」という気迫が僕のところにまで伝わってきた。


 その時の力強さ、迫力は相当なものだ。一歩一歩地面から力を受け、力で体を前に持っていく。「飛んでいるようだ」と言われる軽さや滑らかさを身上とした僕の走り方とは全く異なるものだ。


 ウェイトのインターバルの間、月西の走りを見ていると、また僕の背後に影がやってきた。


 本当に突然やってくるからいやになる。影は僕の耳にまとわり付くように囁いてきた。


「いいのか、ここでお前の存在を示さなくて。叩くなら今のうちだぞ。」

「何を言ってるんだ?」

「いいライバルが出来たじゃないか。それにあいつは人望も厚そうだ。すぐに陸上部の輪の中心になるぞ。」

「…そうかもしれないな。」

「いいのか?オレは忠告してやってるんだ。いつかあいつは、敵になってお前の場所を奪いに来るぞ。そうなる前に、圧倒的な実力で、お前の存在価値を示しておいたほうが良くないか?」

「なんでそう煽るんだ?僕は僕で、月西は月西で頑張る。それでいいじゃないか。さっさと消えてくれないか。」

「お前はいつもそうだ。オレは忠告したぞ。それにお前は薄々気づいているはずだ。今日だって一回ぐらいの競争は出来たはずだ。けれどお前はそれを避けたんだ…」


 影がそう言い切る前に、僕はメディシンボールを持ち上げ、背後に投げ落とした。影は消えたようだけど、僕には心残りができてしまった。僕が月西との競争を避けた?僕は月西におびえているのか?


 グラウンドの単距離コースに目をやると、全体練習最後のランのようで、2年生の一番早い奴と月西が走るようだ。いい機会だと思い、僕は手元のストップウォッチでタイムを計った。


 相変わらずスタートが悪い月西を2年生が引っ張る。だが後半、ものすごい力で月西が2年生を置き去りにした。


 僕のストップウォッチでほぼ11秒12。多少の誤差はあるだろうけど、僕にとっても脅威を感じるスピードだ。


 明日は校内の記録会がある。公式記録にはならないとはいえ、自分の持ちタイムを決めるには充分の会だ。月西は、今日一緒に走った奴全員と「競争」をして「勝って」いる。この事実から、僕が月西と一緒に記録会を走ってしまえば、本当に僕のタイムを上回ってしまうかもしれない。


「明日、記録会だね」


 そんな不安が顔に出ていたのだろう。ウェイトを片付けている僕に、グラウンドの反対から友華がわざわざ話しかけに来てくれた。


 ぼくがなんとなく曖昧な答えをすると、気を使ったのか、「11秒切れると良いね」と言ってくるりと振り返った。


 そうか、11秒か。不安がなんだか大きくなってきた僕は、わざわざ友華を呼び止めた。「友華、あのさ。友華がゴールで待っててくれたら、もしかしたら11秒切れるかもしれないんだけど。」


 半分笑いながらそう言った僕に向かって、友華は笑顔で「何言ってんの?」と言って自分の練習スペースに戻っていった。思ったより心臓がどきどきしている。不安?

興奮?何が原因だろう?


*****


 4月といえど、日が落ちればまだまだ寒い。部活が終わるころには既に薄暗くなっている。僕はプロテインを飲んだり体のケアをしたりしながらわざとゆっくり着替え最後に部室を出た。僕たち陸上部の部室は並びの一番奥にあるため、他の部室や水飲み場、体育館の入り口などを通り過ぎて校門に向かうことになる。


 他の部員と一緒になりたくないからわざわざ時間をずらして帰ろうとしたのに、体育館前で月西にでくわしてしまった。


「ほっしー片付けるの遅いね。帰りのバス停分からなくてさ、場所教えてくれない?」


 そう言って僕と並ぶように歩き出した。朝は父親の車で近くまで来たため、バスには乗らなかったようだ。


「嫌だよ、校門出てすぐ左、100mくらい直進すればあるから、迷いようないしさ。」

「それが不安だから聞いてんのに、ほっしーオレのこと嫌ってない?」

「いや、そんなこと…あるかもなぁ。月西は速いしなぁ。」


 そういって僕は煙に巻こうとしたが、月西はまっすぐ僕の方を見返した。


「ほっしー、オレはさ。今ならほっしーにも勝てる気がする。小学校のときは全然勝てなかったけど。」


 僕はそこ言葉を聞きながら、歩くリズムを変えずに問い返した。


「月西は何で走ってんの?」


 間髪入れず、勝ちたいからさ、と力強い言葉が返ってきた。


「勝って、一番早いことを証明するんだ。そうすればオレでも皆に認めてもらえる、ってこと、ほっしーといた学校で学んだんだ。勝たなきゃ、オレのことは誰も気にも留めない。けれど、勝ちさえすれば、みんながオレのことを認めてくれるんだ。こんなにいい気分になることは他にないよ。ほっしーだってそうじゃないの?」

「オレは違う。いい記録を出したいんだ。もっと早く、もっといいタイムを。それだけ、それだけだ。だからオレは必要のない勝負はしない。もし勝敗が必要ならそれはタイムの上だ。それにそういう考えをするなら、負けた方は悲惨だ。今まで陸上に多くのことを犠牲にしてきてるのに。勝敗だけをいうなら、陸上の結果だけでは残酷すぎる。」

「そういう考えは否定しないけど、100mは勝負だ。誰かのための展覧会じゃない。」


 予期しない口論で熱くなってしまったが、二人とも冷静になって言葉を止めた。ややあって、口を開いたのは月西の方だった。


「そういえばバス停どっち?」

「校門出てすぐ左って言ったじゃん。」

「ついてきて案内してよ」

「だから嫌だって。」


 そう言い合いながら校門を出ると、自転車に乗った大学生くらいの男とぶつかりそうになった。耳にはイヤホン、片手にはペットボトルが握られていた。


「危ねぇ。なんだあれ。」


 思わず月西が叫んだ。


「確かに、危ねぇな、あいつ。でもほら自転車が進む先に見えるだろ、あれがバス停だって。あ、誰かいるな。」

「ほんとだ、日色さんじゃない?」


 確かに、友華だ。あいつも遅いな。そうやってバス停の方を見ていると、僕らを追い越した自転車が彼女のほうに近づいていく様子が見えた。


 あ、危ない、と思っていると、友華が自転車にぶつけられてその場に倒れ込んだのが見えた。

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