10 逃避

「みんな、乗ったわね?」

 エレオノーラはバックミラーを覗いた。助手席にはバート、後部座席にはカズトとアイが座っている。

「よろしく頼むぞ」

 運転席の窓からチコが覗き込んだ。

「ええ。わかってるわ。あなたは本当に行かなくていいの?」

「俺は船長だからな。船を護らないと。それにこういうのはお前の方が適任だ」

 チコは答え、助手席を見遣って続ける。

「楽しみにしてる奴もいるしな」

 エレオノーラは横目に助手席を見て、苦笑を浮かべた。

「ええ、そうね。なにかあったら連絡するわ」

 チコは頷いて付け加えた。

「なにもないといいけどね」

 彼は一歩下がって車から離れた。ドアガラスがせり上がり、エンジンが唸りを上げる。車は体を震わせて走り出した。

 見送るチコの隣に、ダリオが並んだ。

「大丈夫なのか?」

「どうかな。何でもないように振る舞ってはいるが、不安で仕方がないって顔に出てる。気分転換にでもなればと思ってね」

「確かに狭い船の中に籠もりっぱなしと言うのは良くないな。特に若い者には辛い」

 車はスロープを滑るように降りて加速していく。タラップはゆっくりと上昇し、外の景色を追い出していく。二人は格納庫の扉へと向かって歩き始めた。

 ダリオが尋ねる。

「ヨーセフの方は進んでるのか?」

「まあ、まあ、苦労しているらしい」

「まあ、まあ、と言うことは、多少は進んでいる、と言うことだな? よし。私も少し手伝ってやろう」

 チコは扉を開く。キイッと音が鳴る。今度、油を差しておくよう伝えておこう、と思いながら、彼は言った。

「考古学の知識があったとは知らなかったな」

「ないさ。だが、興味はある」

「くれぐれも邪魔だけはするなよ」

 チコは呆れたように言って、扉を閉める。

「何を言う。少しくらいは役に立ってみせるさ」

 そうかい、とチコは肩をすくめた。二人はその場で別れ、廊下を歩いて行った。


 車は細い道を抜け、街道に出て街へと足を向けた。前方に、腕を伸ばして抱え込もうとするような、包容力たっぷりの城壁が見える。

「今日はどんなところを回るんですか?」

 カズトは後部座席から首を伸ばして、フロントガラスの向こうを眺めて聞いた。

「いろいろよ」

 エレオノーラが答える。彼女はギアを一段上げて続けた。

「食料品や医薬品。機械部品から雑貨まで、たくさん回らないといけないわ」

「あちこち見て回るのは結構楽しいぜ」

 バートが後ろを振り向いて言った。

「あなたは違う目的でしょう?」

「目的は違っても、見て回るのが楽しいのはおんなじさ」

 エレオノーラはため息を吐き出す。

「やれやれね。だけどくれぐれも役目は忘れないでちょうだい」

「もちろんさ。わかってるよ」

 バートは答えて、ちらりとアイを見遣る。期待もワクワクもないのか、彼女はぼうっと外を眺めていた。


「これで最後ね」

 支払いを済ませて、エレオノーラは言った。

「随分買い込みましたね。荷台は一杯ですよ」

 窓から車の荷台を眺めてカズトは言った。

「一度空に上がると暫く街に寄れないこともあるから、買えるときに買っておかないとね」

「だからバートはああなんですね」

 カズトは言って、バートに目を向けた。

 バートは店員の女性と話し込んでいた。どこかの店に行くたびに、まるでそうすることが義務なのだとでも言うように、必ず女性に声を掛けていた。エレオノーラが、違う目的と指摘したが、それはこういうことだったのだ。

「まあ、そうね」

 苦笑して、エレオノーラは言った。そしてキョロキョロと辺りを見回した。

「アイはどこ?」

「えっ!?」

 カズトは素早く、ぐるりと店内を見回した。どにも彼女の姿はなかった。

「バートッ!」

 エレオノーラは鋭く声を上げた。呼ばれたバートはビクッと身をすくめて振り向いた。彼女は顔をしかめて言った。

「アイはどこに行ったの?」

「えっ?」

 バートは辺りを見回して答える。

「いや、ついさっきまで……そこにいたんだけど……」

「彼女を監視するのはあなたの役目よ!」

「そうだけど……」

 バートはばつが悪そうに頭を掻いた。彼が話し込んでいた店員の女性は、怪訝そうに首を傾げている。

「監視って?」

 カズトの問いかけに、エレオノーラは答えることなく言った。

「私は船に連絡するわ。あなたたちは手分けして彼女を捜して。見つけたらすぐに連絡すること。いいわね? わかったらさっさと行って!」

 訳もわからないまま、カズトはバートのあとを追って店を飛び出した。そして左右に分かれて街路を走り出す。街は広く、街路は入り組んでいる。どこを捜せばいいのかわからない。とはいえ、ともかく捜すしかない。きっと、心細い思いをしているはずだ。


 彼らが用事を済ましている間、アイは店の出口付近で静かに待っていたが、ざわざわと騒がしい音が聞こえてきて、なんだろうと窓から外を眺めてみると、街路の奥に人だかりが出来ていて、祭みたいに賑やかに騒いでいるのが見えた。彼女はそれが気になって、見に行きたいと思い、仲間に断りを入れるべきと考えたが、皆、買い物もしくはナンパに忙しそうで、邪魔をしてはいけないと思って、一人で店を出て、その人だかりの方へと向かった。

 人垣の先には、はげ頭の、上半身裸の筋骨隆々な大男と、少し小柄な、細身の男が何やら芸を披露していた。大男の方は、火のついた松明を手に持って、口に透明な液体を含むと、それを松明の火に吹きかけて、火炎放射器のように、火柱を上げるパフォーマンスをしていた。細身の方は、大きくて鋭利そうなナイフを右手に三本、左手に二本持って、くるくるとジャグリングをしていた。観衆は、悲鳴、驚き、感動の声を口々に上げて、それらの芸に見入っていた。アイは、なんとかそれを見ようとして、バレリーナみたいに背筋を伸ばして、つま先立ちになって、更に首をも伸ばしてみた。しかし結局、ほとんど何も見えなかった。

 間もなく、パフォーマンスは終演を迎え、演者が丁寧にお辞儀をして、チャリンチャリンと金の音が鳴った。観衆は、友人或いは恋人や家族とともに、満足げな表情を浮かべて引き上げていく。アイも、戻ろうと思ったが、その群衆の波があまりにも圧力が強くて、彼女はその人波に飲み込まれて、あらぬ方へと流されてしまった。

 その波が砕けて、気がついた時には、そこがどこかもよくわからない場所に、アイは立っていた。賑やかな様子は先ほどまでの所と大差はないが、街並みの雰囲気はだいぶ違っていて、どうやら通りを数本、外れたところまで来てしまったようだ。

 そうして、戻ろうにも方向がわからず、あたふたとしていると、通行人と肩と肩がぶつかってしまって、アイは、謝ろうと思ったが、通行人は振り向いて、舌打ちと冷たい視線を投げかけて、踏みならすような足取りで去って行ってしまった。彼女は、通行人のその様子に、小さな恐怖を覚えた。

 そして尚も、その場に留まっていると、後ろから激しくぶつかられて、アイはバランスを崩して路地に倒れ込んだ。相手の男の顔は厳つく、大柄でがたいが良くて、着ているものがはち切れてしまいそうな程にパンパンだった。その男が、大きな、割れるような声で言った。

「邪魔だ! なに突っ立ってやがる!」

 男は恐ろしげな血走った目で、長々とアイを見下ろした。アイは怖くなって震えた。男はフン、と鼻を鳴らして去って行く。

 その様子を見かけた通行人が、優しく声を掛けてきた。

「大丈夫かい?」

 彼女の隣には、少年が怪訝な顔で立っている。女性は続けて言った。

「勝手にぶつかっておいて、謝りもしないんだから。まったく、常識ってもんを知らない男だね」

 女性はアイを覗き込み、ハッとした顔で言った。

「怪我してるじゃないか。見せてごらん」

 アイは膝をすりむいており、血が滲んでいた。少年が腰を下ろして、傷口を眺めて言った。

「痛そう」

「そりゃ痛いさ。すりむいてるんだから」

「でも、治っていってるよ」

「そんな馬鹿なことあるもんかい。化け物でもあるまいし」

 母親は、呆れたような物言いで言った。

「だって、ほら」

 子供の指さすところを見ると、彼の言った通り、傷口は段々と修復され、滲んだ血は消えて、地肌が色を取り戻し始めていた。

「あら、本当。どうなっているの?」

 女性はアイを見つめた。視線が合って、アイは大きく目を見開いた。

「すごいよ! お母さん!」

 少年は感激したように言って、傷口に手を伸ばそうとした。

「やめてっ!」

 アイは叫んで少年を突き飛ばした。少年はびっくりして、尻餅をついたまま目をぱちくりとさせていたが、やがて、わんわんと声を上げて泣き出した。

「あら、あら……」

 母親は駆け寄って、慰めるように優しく息子の背を撫でた。そして、心配そうな顔でアイを見つめた。怪我などしたわけでなく、ただびっくりして泣いているだけだから、母親も、責めるつもりなどなかった。しかし、アイの目にはそうは映らなかった。彼女は立ち上がると、わなわなと体を震わせて、暫くのち、耐えきれなくなって、くるりと向き直り、弾けた風船のように駆け出した。母親は、呼び止めようと声を掛けたが、アイの耳には届いていなかった。彼女は逃げるようにその場から走り去った。


 カズトは街路から街路を走り、アイを捜した。しかし、どこにもその姿はなく、彼は途方に暮れた。街には夕暮れが迫っており、商店もそろそろ店終いと言う頃合いで、道行く人も、家路へと歩みを向け始めていた。このまま日が暮れてしまえば、捜すのは更に困難になる。どうしたものかと、唇を噛んで地団駄を踏んでいると、子供のこんな声が聞こえてきた。

「さっきのお姉ちゃん、すごかったね。怪我があっという間に治っちゃうなんて。僕もあんなだったらいいのに。そしたら、たくさん怪我しても平気なんだけどな」

「なに言ってるの。あなたが怪我ばっかりしていたら、私は心配でおかしくなっちゃうわ。もしそうなら、外で遊ぶのを禁止しますからね」

 女性の声が答えた。母親だろう。

「えーっ!」

 子供は不満の声を上げた。クスクスと笑う母親の声がそれに続く。

 微笑ましい会話だが、子供の言葉が気になって、カズトは親子に駆け寄って、声を掛けた。

「あの、すいません」

「はい?」

 親子は振り向いた。

「今、怪我があっという間に治っちゃったって、話をしてましたけど」

 子供が興奮気味に答える。

「うん。お姉ちゃんが怪我をして膝をすりむいちゃったんだ。それで、お母さんが見てあげようとしたら、あっという間に治っちゃって、びっくりしたんだ! すごいんだよ!」

 カズトは腰を落として、子供と目線を合わせた。

「そのお姉ちゃんて、僕くらいの年かな?」

「うん。そうだと思うよ」

「そのお姉ちゃんに会ったのっていつ? もう、だいぶ経つかな?」

「ううん。ついさっきだよ」

「どのあたりりで会ったのかな」

 子供は指して答える。

「あのあたりだよ」

 そして申し訳なさそうに、表情を曇らせて続けた。

「でも、あっちに走ってっちゃった。僕がびっくりして泣いちゃったから」

「あっちって、この道を真っ直ぐ?」

「うん」

「そのお姉ちゃんに、怪我が治っちゃった以外に、なにか変なこと起きたかな?」

「変なこと?」

 子供は暫し考えて、首を振って答える。

「ううん。なにもないよ」

 どうやら武器化はしていないようだ。

「そうか、ならいいんだ。ありがとう」

 カズトは安堵しつつ礼を言って、アイが向かったと思われる先へと向かおうとした。その背中に、女性が声を掛けた。

「あの……」

 カズトは立ち止まり、振り返る。女性は続けた。

「彼女に会ったら、気にしないでって、言っていたと伝えてください。ちょっと、びっくりしただけだからって」

「わかりました。必ず伝えます」

 カズトは言って、改めて礼を述べて、街路を走って行った。

 親子がアイと会ってから、それほど時間は経っていないから、彼女はそれほど遠くへは行っていないはずだ。なのになかなか見つからず、時間だけが無為に過ぎて、街には夜空が足を降ろし始めていた。カズトは通りを眺めた。もうほとんど人影はない。建物からは夕餉の煙が立ち上り、窓からは団らんの明かりが漏れ出ている。彼女はいったい、どこに行ったのか。彼は唇を噛みしめた。その時ふと、街路から逸れた、細い路地については捜していなかったことに気がついた。もし、彼女が怖がって逃げているなら、人目を避けようとするはずだ。カズトは振り返り、近くの路地に飛び込んだ。

 とはいえ、すぐには見つからない。辺りはだいぶ暗くなってきた。早く見つけないと、本格的に夜になってしまう。カズトは焦りを感じつつ、路地から路地を、何本も捜した。そしてようやく、建物と建物の間の、人の目にはつきにくい、細い路地の片隅で、膝を抱えてうずくまるアイを見つけた。

「捜したよ」

 アイはそろりと顔を上げた。活力を失った、弱々しい瞳が見上げる。やがて、彼女は視線を落として、路地の暗がりへと目を向けた。

 カズトは首を絞められたみたいに息苦しさを感じて、体が硬直したようにその場に立ち尽くした。やがて、彼は喘ぐように深呼吸して、なんとか落ち着きを取り戻すと、彼女の隣に腰を下ろして、一つ息を吐いて言った。

「お母さんが言ってたよ。気にしないでって。ちょっと、びっくりしただけだからって」

 アイは振り向いて、軽く目を見開いたあと、顔を伏せて背を丸めた。

 カズトは、そっとアイを覗き込んで聞いた。

「大丈夫?」

「……私……自分が怖い……」

 アイはぼそりと呟いた。そして、次に続けようとしているその言葉に、気持ちを落ち着けようとするように、ゆっくりと呼吸を繰り返した。やがて、彼女は言った。

「このまま、別のなにかになっちゃうんじゃないかって……」

「そんなこと……」

 アイは顔を上げ、カズトを見つめてその思いを吐き出した。

「あなたは、私を普通の女の子だって言ってくれた。でも、私は普通の女の子とは違う。だって、普通の女の子は、怪我をしてもすぐには治らないし、体が変な風になったりもしない。そもそも、あんな風に生まれてきたこと自体がおかしいのよ」

「……なにを……」

「だってそうでしょ!」

 アイは声を荒げた。彼女は怒ったような目で彼を見つめている。彼女は続けた。

「人は卵からは生まれない。人は人からしか生まれないの。あなたが会った男の子は卵から生まれたの? あのお母さんは卵を産んだの? 違うでしょ?」

「……」

「私はいったい何者なの?」

「……」

 カズトはなにも答えられなかった。今にも泣き出しそうな彼女に、掛ける言葉は思い浮かばなかった。

 ブレーキ音が響いて、ドアの開け閉めされる音が聞こえた。歩く音が近づいてきて、懐中電灯の光が二人を浮かび上がらせた。カズトは振り向いた。眩しさに目を細める。

 やや間が開いて、エレオノーラが言った。

「立って」

「私、どうなるの?」

「決めるのは私じゃないわ。早く立ちなさい」

 そんなに冷たく言わなくても、とカズトは思ったが、アイは素直に従った。彼女はエレオノーラに付き従って歩いて行く。

 肩をバートに叩かれて、カズトも立ち上がる。彼はバートに背中を押されながら、あとを追った。


 船に戻ると、チコとダリオ、そして数名の船員が待っていた。船員達は船から荷物を降ろし、運んでいく。彼らも噂は耳にしていたのだろう。複雑そうな表情を浮かべていたが、ただ黙って仕事をこなした。

 チコは腕組みをして立っていた。明らかに怒っている様子だ。彼は凜とした口振りで言った。

「自分が何をしたかわかっているな?」

「はい」

 アイは言った。目は伏し目がちだ。

「自分の置かれた立場もわかっているはずだな」

「はい」

「自分が軍に追われていることも」

「はい」

「今回はなにもなかったから良かったが、万が一、軍に見つかればお前だけじゃなく、エレオノーラやバート、カズトにも危害が及んだかもしれない。この意味がわかるな?」

「はい」

 チコは頷き、微かにためらいを見せてから言った。

「暫く反省室に入ってもらうぞ」

「待ってください!」

 カズトが急ぎ割り込んだ。

「彼女は怖くなって逃げただけです! 誰も傷つけたりしていませんし、誰も傷ついていません!」

「俺が言っているのはそういうことじゃない。断りもなく勝手に行動したことだ。そのことが仲間を危険にさらす可能性があった。それを問題にしてるんだ」

「……」

「エレオノーラ。頼む」

 エレオノーラは頷いて、アイを連れていく。チコはカズトに向かって続けた。

「あとで俺の部屋に来い。なにがあったか話せ」

「……はい」

 カズトは項垂れる。

「戻っていいぞ」

 カズトはバートに伴われ、うつむいたまま歩いて行く。

 その背中を見送って、チコの隣にダリオが並んだ。

「少し厳しすぎではないか?」

「なにがあったか詳しく知る必要がある」

「そのことを言ってるんじゃない。アイのことだ」

 チコはダリオを見遣り、ため息を吐き出して答えた。

「責任は取って貰う必要がある。規律は守って貰わないとな。とはいえ、責任の一端は俺にもある。だから俺もそれなりのことをするつもりだ」

「頭でも丸めるか?」

 ダリオは振り向いて、綺麗に整えられたチコの頭髪を眺めて軽く笑う。

 チコはその様子を一瞥して言った。

「暫く謹慎するよ。その間、船の指揮を頼む」

「私がか?」

 驚いたようにダリオは聞き返す。

「船長に戻るのは嫌か?」

「いや、嫌じゃないさ……。わかった。引き受けよう。少しブランクはあるが、まあ、なんとかなるだろう」

「ブリッジの連中は皆優秀だから、なんの心配もいらないよ」

 わかった、とダリオは頷く。ほどなく彼は言った。

「しかし、少しは大目に見てやれよ。一番苦しんでいるのはあの子なんだからな」

「わかってるよ」

 チコは頷いた。そして、荷物の整理に勤しむ船員達の姿を見つめてから、父親と共に格納庫をあとにした。

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