7 異変

「いらっしゃいませ」

 トレイを片手に持って、アイは元気よく笑顔を向けた。

 宿屋の食堂はいつも以上に繁盛していた。もちろん、食事がその目的ではあるのだが、アイが目当て、と言うのもあっただろう。事実、彼女が給仕係をするようになってから、ぐっと客足は増えた。わざわざ街の外れからやってくる者もいるほどで、宿屋が本業であるにもかかわらず、こちらの方が儲かっているくらいだった。

「裏からタマネギを持ってきとくれ!」

 ニーナが鍋をかき混ぜながら大声で言った。

「はい。今すぐ!」

 やはり大きな声でカズトは答え、裏手に向かった。軒先に吊されたタマネギを一房取って、急いで厨房に戻る。

「まったく! 忙しいったらありゃしない!」

 ニーナは文句を言ったが、まんざらでもないという顔をしていた。

「アイも料理はできますよ。教えたらすぐに覚えます」

「そうかい。そりゃいいね。だけどあの通り……」

 ニーナは客席の方を振り向いて、にこやかな様子でアイと会話を重ねる客達を眺めて続けた。

「あの子が目当てで来てる連中も多いからね。ああして給仕をやってもらう方がありがたいよ。まあ、こっちはあたし一人でもなんとかなるさ。それより、あんた。タマネギの皮くらいは剝けるだろう?」

「はい」

「それじゃ、そいつを全部剝いて、そこのボウルに入れとくれ」

 カズトはバリバリと音をさせながら、タマネギの皮を剝いた。暫くすると目がしょぼしょぼとして、鼻もグズグズとしてきたが、なんとかそれに耐えて任された仕事を完遂した。

 夜も深くなり、最後の客が店をあとにすると、それまでの喧噪が嘘だったかのように、しんと静かになった。

「さて、今日はもう終いにしようかね。カズト。鍵を閉めてくれかい?」

 言われたとおり、カズトは扉に鍵を掛ける。彼が戻ってくると、ニーナは言った。

「今日もご苦労様だったね。少し遅くなったけど、夕食にしようか」

 テーブルには余り物が並べられ、三人は食卓を囲んで料理を頬張った。余り物とはいえ、十分においしい。

「あんた達には本当に助かってるよ」

 ワインを一口飲んで、ニーナが言った。

「お陰で大繁盛さ。大もうけさせてもらってるよ。ありがとうね」

「いえ、僕たちの方こそありがとうございます。ただでお世話になっているわけですから、このくらいは当然です」

「そうかい」

 ニーナは微笑み、思いついたという顔で言った。

「そうさね。あんた達さえよけりゃ、どうだい? ずっとここで住み込みで働くってのは」

 悪くない提案だとカズトは思った。ここは人も温かくて居心地が良く、二人にとって、アーチ号と同じくらいに、気持ちの安らげる場所だ。腰を落ち着けるのに申し分ないだろう。とはいえ、彼の一存でそれを決めるわけにはいかない。

「そうですね。アイと相談してみます」

「あいよ。気なんか遣わなくていいからね」

 そう言ってニーナは優しく笑った。その笑顔が、まるで母親のようだとカズトは思った。


 カズトはアイと話し合い、ニーナの提案を受けることに決めた。一生懸命働いて、お金を貯めたら、それで家を買って二人で住むのもいいだろう。このままニーナの宿屋で働くのもいいし、アイは料理が出来るから、料理屋なんかを始めるのも悪くない。そんな風なことを考えながら、彼らは懸命に働いた。そうして忙しく日々を過ごしていると、嫌なことも全て忘れることが出来た、

 そんなある日の朝、目が覚めると、いつもは先に起きて仕事に向かっているはずのアイが、布団を頭から被ったまま出てこなかった。どうしたのだろうと、カズトはアイに呼びかけた。しかし、彼女は返事もせず、布団に潜ったままだった。

「アイ?」

 カズトは彼女を揺すってみた。うーん、と小さく唸る声が聞こえた。

「どうかしたの?」

 問いかけるが、やはり返事はない。

「布団、めくるよ」

 カズトは言って、布団をめくった。そして、横たわるアイを見て、彼はハッと息を呑んだ。顔をリンゴのように赤く染め、額に汗を浮かべて、苦しそうに呼吸を繰り返していた。彼は手を伸ばして彼女の額に触れた。焼けた石を触ったのかと思えるほどに、彼女の額は熱くなっていた。彼自身も熱を出したことはあるが、ここまで熱くなったことはない。

「どうしてこんなに……」

 唖然と呟きつつ、考えている暇などないぞと、彼はバネのように部屋を飛び出して、すぐにニーナを伴って戻ってきた。彼女は、医者を呼びにカズトを走らせ、自身はタオルと水の入った桶を用意するために、階段を駆け下りた。

 医師は間もなくやってきて、あれやこれやと調べたが、結局、原因はわからず、ひとまず、解熱剤を飲ませて、頭を冷やすなどして様子をみるしかないだろう、とそう言った。

 医師は、なにかあればすぐに連絡するようにと言い残して帰っていった。ニーナは、店を開かないわけには行かないからと、看病をカズトに任せて下へと降りていく。カズトは、椅子に腰を下ろしてアイを見つめた。彼女は苦しそうに呼吸を繰り返している。あまりに辛そうで、代われるものなら代わってやりたい。彼女の中で、いったい何が起きているのだろうか。

 カズトはタオルを手に取った。数分前までは冷たかったはずが、熱湯にくぐらせたみたいに熱くなっている。彼は冷水で湿らせ、アイの額に乗せた。こんな物で本当に効果などあるのだろうか。普通ならそうだが、彼女の場合は……。カズトは首を振り、その考えを追い出した。いま彼に出来ることは、ただこうして、彼女の無事の快方を願うことだけだ。

 翌朝、差し込む日差しに彼は目を覚ました。思わず眠ってしまっていた。彼はハッとして、急ぎアイの様子を確かめた。呼吸は落ち着きを取り戻し、肌の色も、微かに桃色に染まる程度だ。彼はタオルを取って、額に手を当てた。熱は下がっていた。アイがゆっくりと、薄く目を開けた。

「気分はどう?」

 カズトは落ち着きのある、静かな声で聞いた。

 アイは少しかすれた声で言った。

「私……どうしたの?」

「熱を出したんだ。でも、もう大丈夫みたいだね。下がったようだから」

「ずっと看病してくれたの?」

「うん。心配だったから」

「……ごめんなさい」

 アイは顔を背けた。

「謝る必要はないよ。誰だって病気になることはあるんだから。薬が効いて、熱も下がって良かったよ」

 カズトはタオルを固く絞り、彼女の頬を撫でてやる。彼女は子持ち良さそうに目を瞑った。カズトは尋ねた。

「おなか空いてない? なにか食べる?」

 アイは頷いた。

「用意するね。それと、ニーナさんにも伝えておかないと」

 カズトは立ち上がり、戸口へと向かい、扉を開けた。その背中に、アイが言った。

「ありがとう……」

 カズトは振り向き、微笑んで扉を閉めた。

 アイの体の不調は、その後も何度か続いた。ただ、回数を経る度に程度は軽くなり、やがて具合を悪くすることもなくなって、元の調子を取り戻した。むしろ体つきが良くなったほどで、カズトもニーナも安堵に胸を撫で下ろした。そして馴染みの客達も、彼女の無事を喜んだ。

 そうして、数日が過ぎ、いつものように宿屋で仕事をしていると、赤ら顔の、いかにも品の悪そうな客が入ってきた。男は既にどこかで一杯引っかけているようで、ふらふらと千鳥足で歩いて、なんとかテーブルに辿り着くと、どっかと腰を下ろして、円を描くように体を揺らしながらダミ声で言った。

「おーい。注文!」

「はーい。ただいま」

 アイがやってきて注文を取る。

「酒だ。酒をくれ」

「他には?」

「いいからさっさと持ってこい!」

 客は言ってしゃっくりをする。

 アイは軽くお辞儀をして戻っていく。彼女は特段、気にした様子はなかったが、周りの客達からは冷たい視線が向けられていた。男はそれを気にする様子もない。

 ほどなく、アイは男の前にジョッキを置いた。男はそれを見遣り、次に、焦点の良く定まっていない目でアイを見上げた。そして、立ち去ろうとするアイの左手首を掴み、酒臭い息で男は言った。

「良く見りゃかわいいじゃねえか。なあ、嬢ちゃん」

 アイは驚いた顔で、カッと目を見開いて男を見下ろした。男は続けた。

「俺の相手をしてくんねえか? なあ」

 男はアイを引っ張って、二の腕の辺りを掴み直し、更に引き寄せた。顔と顔が近づいて、酒臭い息が吹きかかって、アイは身震いした。男は尚も言い募る。

「金なら余分に払うぜ。な、いいだろ?」

「い……いや……」

 アイはようやく絞り出した。

「なんだって?」

「やめて……お願い……」

 異変に気がついたニーナが、厨房から叫んだ。

「ちょっとお客さん! なにやってるだい!」

 ニーナはエプロンで手を拭いて、助けに向かおうとする。

「ばばあに用はねえよ! 引っ込んでな!」

 男はそう唾を飛ばして、更に言う。

「減るもんじゃなし、そこに座って一杯付き合えってぇんだよ!」

 そして、握る手に力を込めた。

「痛い! やめて!」

 アイは右手で男の手を掴み、絶叫にも近い叫び声を上げた。

 その直後に起きたことに、誰もが、ただ口を開けっぱなしにして、呆然とするより他なかった。

 アイの背中から、絵画で見るような、天使の羽みたいなものが生えていた。もちろん、人から羽が生えるなど異様なことだが、それ以上に異質だったのは、彼女の右の前腕部分が、大砲のような形に変化していたことだ。つい先ほどまで、人間の、女の子だと思っていたその姿が、突然、奇妙な姿形に変わって、驚かないはずはない。言葉が出ない、とは正にこのことで、誰もが、あんぐりと口を開けっぱなしにして、その光景に釘付けになっていた。

「ひっ! ひいっ!」

 男は椅子ごと床の上にひっくり返り、尻餅をついて、喘ぐように口をパクパクとさせて、逃げようと手足をばたつかせた。青ざめた顔には、驚愕の表情が浮かんでいる。その大砲らしきものが、自分に真っ直ぐ向けられているのだから当然だ。

 アイは、何が起きたんだという顔で、奇妙な姿に変わってしまった自分の右腕を見つめた。特に痛みや違和感はなく、自分の体の一部であると認識できる。そして心の中に、この男に対する、怒りと敵意の感情が沸き起こっているのを感じた。彼女は怖くなり、体が震えた。その異様な物と、覚えたことのない感情に。

 男は、ドタバタともがきながらもなんとか立ち上がると、ぐるんと向き直り、後ろを振り返ろうともせず、一目散に出口へと走り、扉にぶつかるようにして外へと転がり出た。その様子を、人々は目で追って、扉がバタリと閉じ合わさると、その見開かれた視線を、ゆっくりとアイに向けた。彼女の恐れは頂点に達した。

 アイはゼンマイ仕掛けの人形が歩くときのような、ぎこちない動作で数歩後退すると、コマみたいにくるっと背を向けて、裏口へと一目散に駆け出した。

「……アイ?」

 ニーナはすぐそばを駆け抜けていくアイを、呼び止めようとしてその姿を見て躊躇した。

 アイは勢いよく扉を開けて、外へと飛び出した。そして裏庭を突っ切って、暗闇の中へと消えた。

 カズトは両手に薪を抱えて、裏口へと向かおうとしたところで、アイが飛び出してくるのに出くわして、びっくりして立ち止まった。もちろん、突然のことに驚いた、というのもあるが、室内から漏れ出た光に照らされて、浮かび上がった彼女の姿に面食らったからだ。それはすぐに夜の闇に消えたので、ほんの僅かな時間の出来事だったが、確かに、白い羽のような物が見えた。なんだろう、という疑問が、当然ながら浮かんだ。同時に、彼女の様子にはただならぬ雰囲気があって、なにか良くないことが起きたのだと直感した。だから彼は、薪をその場に放り捨てると、ランプを手に、彼女が消えた方へと向かった。

 カズトは裏庭の突き当たり、板塀のそばでアイを見つけた。彼女は膝を抱え、顔を埋めてうずくまっている。白い羽は消えており、いつもの姿に戻っていた。幻でも見たのだろうか……。そう思って立ち尽くしていると、そろりと、アイは顔を上げてカズトを見上げた。光の加減もあっただろうが、彼女の顔は年老いたようにも見えて、またその瞳には、畏怖の色が満ちていた。

 アイは引きつった表情を浮かべると、声にならない声を発して立ち上がり、オオカミから逃れようとするウサギのように駆け出した。

「待って!」

 カズトはあと追った。すぐに追いついたが、アイは隅っこに座り込んで震えていた。彼は少し離れた所で立ち止まり、ランプの明かりを弱めて地面に置いて、ゆっくりと腰を下ろした。

「僕だよ。わかる?」

 カズトは優しく声をかけた。

 ランプの光が薄く辺りを照らす中、アイは恐る恐る顔を上げ、彼をじっと見つめた。それでようやく理解したらしく、ゆっくりと頷いた。彼は安堵して尋ねた。

「大丈夫?」

 アイは答えず、怯えた目で彼を見るだけだ。なにがあったのか、訳を知りたいと思ったが、今は触れない方がいいだろう。代わりに彼はこう言った。

「こんな所にいたら風邪を引いちゃうよ。中に入ろう」

 アイは激しく首を振った。

 そこに、宿屋の方から小さな明かりが進んできた。その明かりは彼らから少し離れた所で立ち止まった。

「どんな具合だい?」

 ニーナはアイの姿に安堵した様子を見せて、静かに問いかけた。

「戻りたくないみたいで……」

「そうかい……。ちょっと待ってな」

 ニーナは宿屋へと足早に歩いて行き、毛布を手に持って戻ってきた。

「冷えるといけないからね。これをかけてあげな」

 カズトは毛布を受け取り、アイにかけてやる。すると、少し震えが止まった。ニーナは続けた。

「今日は早じまいにしようね。店の方はいいから、あんたは一緒にいてやんな」

「はい」

 カズトはニーナを見上げて頷く。彼女は悲しげな目をアイに向けたのち、静かな足取りで宿屋へと戻っていった。

 翌朝、アイは起きてこなかった。昨晩のことがやはりショックなのだろう。

「あの子、大丈夫かい?」

 ニーナが心配して聞いた。

「今日は出たくないって……」

「そうかい」

 ニーナはため息をついて続ける。

「そばにいてあげるといいよ」

「いいえ」

 カズトは頭を振る。

「僕がいるとかえって気にするかもしれません。今はそっとしておいた方がいいような気がします」

「そうだね。そうかもしれないね」

 ニーナは頷いた。

「……あの、なにがあったんですか?」

 ニーナは顔をしかめて、昨晩の出来事を話した。

「そんなことが……」

 カズトもまた顔をしかめた。驚きもあるが、それ以上に、アイに怖い思いをさせた男に対して強い怒りと憤りを感じた。

「だけど……あの子はいったいどうしたって言うんだろうねえ」

 ニーナはそう言って、不安の表情を浮かべた。アイの、あの不思議な姿のことを言っているのだ。カズトがそれを見たのは一瞬のことだったが、ニーナや他の人たちにははっきりと見えただろう。手品だとか、仮装だとかでも言えば、信じる者も中にいるかもしれない。しかし、それに疑念を持つ者も多いはずだ。

「わかりません。ただ、このことは、他の誰にも言わないで貰えますか?」

「もちろん、あたしは誰にも話すつもりはないよ。だけど、街の連中はどうかね」

 ニーナは暫し思案して続ける。

「そうだね。ちょっと様子を見てくるよ」

 彼女はエプロンを外して、ぐるぐる巻きに畳んでテーブルに置いた。

「店を頼んだよ。誰かが来ても入れるんじゃないよ」

 三十分ほどして、ニーナは戻ってきた。

「誰か来たかい?」

「はい。なん人か……。ニーナさんがいないと伝えると、帰って行きました」

「そうかい。様子でも見に来たかな?」

 ニーナはそう言って、テーブルの縁に腰を掛けて腕を組んだ。

「それで、どうでした?」

「噂になってたよ」

「……そうですか」

 カズトは表情を曇らせた。安住の地と思っていた場所が、住みにくくなるかもしれない。

「街の連中ならそれほど心配しなくても大丈夫だよ」

 カズトの思いに答えるように、ニーナは言った。

「本当ですか?」

 カズトは希望の色を浮かべた。

「噂になってると言ったって、それほど大騒ぎになってるってわけじゃない。それに、こういう大きな街じゃ、噂なんてのはそのうち忘れ去られちまうものさ。みんな、そんなものに構ってられるほど、暇じゃないからね。ただ、あの連中は、そうじゃないだろうね」

「あの連中?」

「軍の連中だよ。追われてここまで逃げてきたんだろ?」

「知ってたんですか?」

「まあね。事情は聞いているよ。まあ、困ってる人を放ってもおけないからね。特にあんたらはまだ子供だし」

「ヤンさんもそうでしたけど、この国の人はみんな、そうなんですか」

「みんなって訳じゃないよ。あたしらは変わり者なのさ」

 意味がわからずカズトは首を傾げた。ニーナはクスッと笑って続けた。

「ともかく、連中がこの噂を耳にしたら、放ってはおかないだろうね」

「まさか、僕らを探しに来るって?」

「簡単に諦めるような連中じゃないよ」

「でも、ここは……」

「王都だから安全? そんなことは関係ないね。必要なら手段は選ばないさ」

 カズトは唇を噛んで、やがて言った。

「彼らは、アイがああなることを知ってたんでしょうか」

「だろうね。そうでなきゃ、あの子を連れ去ろうなんて考えないさ。なにを企んでるのかはわからないけどね」

 カズトは視線を落とし、思案して、間もなく、決意の視線をニーナに向けて言った。

「街を出ようと思います」

「街を? 街を出てどうするつもりだい? 行くところはあるのかい?」

「いえ」

 カズトは頭を振り、続ける。

「ただ、ここにいてもアイが辛いだけだと思います。そんな思いはさせたくありません。それに、街の人に迷惑をかけるわけにもいきません」

「街のことなら心配はいらないさ。連中に好き勝手はさせないよ。だけど、他に行っても同じじゃないのかい? また同じことが起きるかもしれないよ」

「それは……なんとかします。ともかく、今はここを離れた方がいいように思います」

 ニーナはカズトの目を見つめ、やがて頷いた。

「わかったよ。意思は固いようだね。そこまで言うなら仕方がないね。だけど今すぐって訳にはいかないよ。いろいろと準備が必要だからね」

「わかりました」

 カズトはぺこりと頭下げて続ける。

「いろいろとご迷惑おかけします」

「いいってことさ。少し寂しくはなるけど、子供ってのはいつかは親から巣立っていくってもんだからね。さて、お前さんはアイのそばにいてやんな。話もしないといけないだろうからね」

「はい」

 カズトは姿勢を正して、改めて頭を下げた。


 その日、まだ夜も明けやらぬ中、カズトはアイの手を引いて、朝靄に包まれる街路を、ニーナのあとを追って歩いていた。二人とも鼠色の外套を身に纏い、頭をフードで覆っている。

 やがて三人は、街外れにある、小さな一軒家へとやってきた。ニーナがドアをノックすると、暫くして扉が少しだけ開いて、住人が顔を出した。男は素早く来訪者を確かめて扉を開く。三人は中へと進み、住人は外の様子を確かめてから扉を閉めて鍵をかけた。

「急にすまないね」

 ニーナが言った。

「いいってことよ」

 男は手を振って、改めてカズトとアイを見遣り、続ける。

「その二人が?」

「ああ。無事に届けておくれよ」

「もちろんさ。任せておきなって」

 男は文字通り胸を張る。そして続けて言った。

「それにしても不憫だね。まだ子供だってのに」

「あたしらがもっとしっかりしてりゃ良かったんだ。そうすりゃこんな思いをさせなくてすんだんだ」

「そうだな」

 男は神妙な面持ちで頷いた。

 ニーナは腰を折り、カズトと目線を合わせて言った。

「いいかい? しっかりと、その子を護ってやるんだよ。それと、くれぐれも無茶はするんじゃないよ。いいね?」

「はい」

「困ったことがあったら、遠慮なくあたしを頼ってくれていいからね。迷惑がかかるからなんて、遠慮なんかしたら承知しないから」

「……はい」

 少し涙ぐんだ声でカズトは答えた。

 ニーナはカズトを抱きしめた。次いで、アイにもそうしようと思ったが、うつむくように顔を反らすのを見て、彼女はそれをやめた。ニーナは息を吐いて言った。

「さあ、頼んだよ」

 男は頷いて、こっちだ、と二人を地下へと促す。

 カズトは階段を一歩踏み出して、後ろ髪を引かれる思いで振り向いた。ニーナが、旅立つ息子を見送るような顔で二人を見つめていた。彼は駆け戻って抱きつきたいと思った。しかし、彼の手を握る別の手が、それを思いとどまらせた。カズトはその手を引いて、階段を降りていった。

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