蜜に、溺れる ※




「…………」


 言葉が見つからない。


 エステルは、ただただウーゴの瞳を見つめるしかなかった。


 右目の黄金はロンズデール公爵家の流れをくむ母マノンの色。

 左目の夏の空はヴァンサン家の色。

 二人のしるしがここにある。

 しかし、二人はもう。


 おそるおそる手を伸ばすと、彼は優しく握って頬を寄せた。

 固くて大きな大人の手。

 頬骨も顎もしっかりとした彫りの深い顔をゆっくりとなぞって指先に彼の男らしい肌とまばらに生え始めている髭のチクリとした刺激を感じる。

 少し目を細めてエステルの好きにさせていたウーゴは突然、手のひらに音を立てて口づけした。


「ルー」


 ウーゴの薄めの唇の大きな口はいつも真一文字に閉じられている。

 そんな彼の唇は思ったより柔らかくて、暖かい。

 さらに少し湿った感触を受けて、つい肩を揺らした。


「……そういえば、誓いのキスもまだだったな」


 言われて今更そのことに気づく。


 教会が急いで書類を作成したものに素早く署名し、ソルタンに聖魔法で封じてもらった。

 単純な事務手続きのみの婚姻式。

 とにかく時間が惜しかった。


 でも、今、この場は。


 偽装や政略などという言葉が不似合いな空気に支配されていた。


「様々な困難と対峙した君に比べるとはるかに未熟な俺だが、常に誠実であることを誓う」


 白銀の睫毛を伏せて、手のひらに、指先に、唇を落としていく。


 未熟だなどと、とんでもない。


 エステルは彼の言葉と声と唇、いや、彼の全てにめまいを感じた。

 成熟した男の色香とはこういうものなのか。

 侍女や令嬢たちが頬を染めながら興奮気味に交わす雑談を思い出す。

 今までは彼女たちの言葉を他人事として聞き流していた。


 自分には遠い世界。

 一生関わることはないと。


「……未熟だなんて、どうかおっしゃらないでください。…私は。私は今まで、言われるままに動くただの操り人形でした。人としての経験が圧倒的に不足しています」


 答えている間も、ウーゴはエステルの指の一本一本に唇を落とすことを止めない。

 胸の奥に何か熱いものが湧き出て塞いでいく。


 くるしい。


 唇を開き、肩で息をしながら、エステルは気力を振り絞り続ける。


「私を……。ひとに、してくださいますか…? ウーゴ様」


 彼が、目を上げた。

 かちりと視線がかみあい、動けない。


「…俺も、人であったのか、いささか自信がない。スノウたちと過ごす方が楽だったから。己は真実フェンリルなのではないかと疑うくらいに。」


 冗談めかした言葉とは裏腹に、強い光を宿した瞳がゆっくりと近づいてくる。

 もう、鼻と鼻が触れそうなほどの距離でウーゴは囁いた。


「一緒に。人となって、生きよう、ルキア」


 言葉を紡ぐごとに吐息がエステルの唇を撫でる。


「……は、い」


 かろうじて答えると、とうとう唇が重なった。


 掠めるような、互いの唇の先だけが触れ合うような口づけ。


 だけど、初めての触れ合いは。

 息が止まりそうなほど心地よかった。

 手も顔も足も、身体の全てが熱くなる。


「ルー」


 もう一方の手がエステルの後頭部を優しく触れる。

 二人きりになる前に修道女たちに洗われ顎の下で切りそろえてもらった短い髪の間を、彼の指が行き来すると、それだけでさらに背中に経験したことのないうずきが走った。


「誓います」


 たまらず目を閉じ、無意識のうちに首をそらす。


「あなたと、ともに。ずっと……」


 荒々しく口を封じられた。

 




 ふと目を開くと、間近に静かに眠る男の顔があり息をのんだ。


「……」


 彼の両腕はエステルのウエストの下と上に置かれ、抱きしめられたまま眠っていたことを知る。

 のせられた腕はたかが一本なのに意外に重くて身動きできず、じっくりと、白狼と称される顔を眺めることにした。


 ウーゴ・ノエ・ヴァンサン。

 父の友。

 ローラン国の辺境伯だった人。

 そして、今は、エステルの夫。


 思わず、笑ってしまった。

 すると、ゆっくりと白銀の睫毛があがり、奥二重の瞼の下からオッドアイの瞳がゆらめく。


「……おはよう」


 少したれぎみの目じりに優しいしわが寄る。

 そして、鼻と鼻を軽く触れあわせられた。


「なにか、面白いことがあったかな」


 抱き寄せられて囁かれ、甘い予感に思わず肩をすくめる。


「不思議な気持ちに……。なったので」


「どういうことに?」


 ついばむように唇を何度も愛されて、なかなか答えられない。

 仕掛けられた戯れにしばらく翻弄され、ようやく落ち着いたところでエステルは言った。


「ずっと。物心ついた時からずっと一人で眠ってきたのに、今は貴方がいて。こんなに近くに」


 貴族として、淑女として。

 広い寝室で独りきりで眠るのが当たり前だった。

 豪華ではあるけれど広すぎる寝台はいつも空々しくて味気なく、常に誰かの悪意を警戒して深く眠ることはできなかった。

 誰かと共にすることは、考えたこともない。


「そういえばそうだな」


 髪を梳かれてエステルは猫のように目を細める。

 こんなことが気持ち良いなんて。


「不思議だ。たしかに。でもそれは、きっと――」


 大人だから、と耳元で囁かれ、足を絡められてようやく互いに裸だったと思い出す。


「あの……」


「夜明けまで、まだ少し時間がある」


 ウーゴから与えられる蜜に、溺れた。



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