求婚



「お父様。私は大丈夫です。先ほど目覚めた瞬間に感じたのは、とてつもない開放感でした。とても…。とても心も体も軽くて。そして、お父様たちが無事と知れて本当にうれしい」


 父の背中をゆっくりと撫でながら心からそう思う。

 ジュリアンからも脅されて、いったいどれだけの者どもが家族の命を狙っているのだろうかと焦燥感がつのったが、ヘイヴァースは強い。

 母の降嫁先に祖父が決めたのは、その力とエイドリアン・ヘイヴァースの人柄を信じていたからだ。


「…クライヴのおじ様。デイヴ・バリーたちはまだ生きていますか」


 父の身体越しにまっすぐに見上げる少女にクライヴは微笑む。


「ああ。バリー伯爵子息デイヴ、コンデレ子爵令息ダニエル、警備隊のラッセン、ロビーとベン兄弟を頂上で無事保護。その前にマットという男が大けがを負っている上に魔物に囲まれている状況だったのを発見して救助した。全員治療と事情聴取の名目で騎士団駐屯地の特別棟に収容している。勿論、抜け出すことも『誰か』と連絡を取ることも不可能な状態にしているよ」


「ありがとうございます。彼らの任務は私の純潔を奪うことと遺体を持ち帰ることで、もしうっかり先に死んだなら、遺体を汚すように指示されています」


 エステルを囲む腕の輪がさらに狭められた。

 なだめるために広い背中をゆっくりと撫でる。


「斜め上の方向に徹底しているね…」


 深々とため息をつくクライブに苦笑しながらエステルは先をつづけた。


「生きていたなら都合が良いです。彼らには私の遺体の一部を持ち帰ってもらいましょう」


「エスター!」


 囲いを解いて叱るように名を呼ぶ父と、周囲の人々の驚愕の声を前にしても、彼女の表情は揺らがない。


「司教様。クライヴおじ様。密かに飼育している魔物たちの中に谷底で生息していた種族はいますか? もしお手持ちの魔物の胃袋を数日お借り出来たら助かります」


「なるほど。髪を切り落としたのは、排せつ物の中から出てきたと持ち帰らせるためか」


 ウーゴは顎に手を当てて思考する。


「はい。あとは指の数本でも…」


 左手を上げて見せた瞬間、エイドリアンはようやく娘の右手に短剣が残っていることに気付き、すぐさま取り上げて隅に放り投げた。

 カランと音を立てて短剣は床を転がっていく。


「指を切り落とすことは駄目だ。エスター。断じて」


「断罪の場で侍女ジェニファー・コーラルの手だというものを披露されました。ささいな粗相に立腹した私が残酷な刑に処したという証拠のために」


 手首だけを切り落とされて生きているかもしれない。

 しかし、彼女は伯爵令嬢としての人生を閉ざされた。


「お父様。今まで大切に育ててくださった恩を返せないばかりか、面倒ごとに巻き込まれたままだというのに、後始末もせずにこの国を去ることをどうかお許しください。エステル・ディ・ヘイヴァース公爵令嬢は死んだと。そうさせてください。少なくとも今は…」


 獣たちの排せつ物からエステルの身体の一部が出てきたとなれば、貴族たちは面白がり、すぐに話を広めるだろう。

 蛮族の娘に相応しい最期だと喜ぶ一方で、多少の不自然な点をわざわざ追及したりはしまい。

 そうして、エステルは葬り去られる。


「今は? 今、この難局さえ乗り切れば私たちの元へ戻ってきてくれると言う事か?」


「そうですね…。いつか……。十年後くらいに。ニコラスが無事に当主になったころにふらりと傭兵として戻ってこられれば…」


 今まではまったく考えられなかったが、悪くないとエステルは思う。


「傭兵らしい装備を調達していただき、このままずっと東に向かって独りで旅をしようかと思います。そうすれば私の容姿もさほど目立ちません」


 砂に埋もれてしまった祖母の故郷を見てみるのも良いだろう。

 公爵令嬢ではなく、日雇いで食いつなぐ旅人として。


「エスター。私の娘。どうかどうか、そんな寂しいことを言わないでくれ。お前はようやく十八歳になったばかり。誕生日を家族で祝うこともないまま消えてしまうなどやめてくれ」


 端正な顔を歪め、エイドリアンは碧の瞳からぱたぱたと涙を流した。

 彼がこれほど感情をあらわにするのはめったにない。

 エステルは途方に暮れた。


「しかし、お父様。自分で言うのもなんですが、王家にとって私は利用価値の高い女です。このままでは…」



「なら、こうしよう」


 ふいにウーゴが寝台のそばに跪く。


「エステル・ディ・ヘイヴァース公爵令嬢。私、ウーゴ・ノエ・ヴァンサンの妻、ルキアとなってくれないか」


「え……?」


 寝台に座したまま、エステルは目を見開きウーゴを見下ろした。

 ふたりの様を見るなり、なぜかエイドリアンはさっと娘から身を離し、ウーゴに場所を譲る。


「私はもう息子に家督を譲り、ローラン国では隠居の身。一切の権力がない代わりに自由だ。アシュフィールド国の手が伸びてきたなら、一緒に東方へ旅立つことも可能だ。ただ、貴女の父であるエイドリアンと同世代で若くない上に、元妻がかなり難ありで多少面倒ごとが起きるだろうが。……まあ、あれについては娘がねじ伏せてくれるだろう」


 ウーゴ・ノエ・ヴァンサン辺境伯は若年のころに王命で自国の王女と結婚し、彼女は男女の双子を産むなり離縁し、今は最高位の貴族夫人に収まっている。

 わがままな元妻との接触を断つためにウーゴは辺境に引きこもり、早々に息子と娘へ領主と騎士団長の座を譲った。

 そんな事情をエステルが知ったのはつい最近のこと。


「本当はもっと若くて美しい男を君の夫に推薦したいところだが、とりあえず今は私で手を打ってくれないか……。こんな色気もへったくれもない求婚ですまない」


 金と青の瞳を細めてふわりと笑うその顔は、エステルの知る誰よりも魅力的だ。


「……おじさま」


「ウーゴだ、ルー」


 薄い唇をにい、と上げて見せる。

「ルキア。君がヘイヴァースの名前を捨てたとしても、その身体に流れているのはエイドリアンとレイラ姫の血であり、輝ける星であることに変わりない。俺の命ある限り、君を守らせてくれ」


 『ルキア』は公爵領で母レイラに呼ばれていた胎児名だ。

 『エステル』と同じ意味で祖母の国の音だった。


 なぜかウーゴは昔からこの幼名でエステルを呼ぶ。

 そして、それが心地よくて嬉しかったのを思い出す。


「おじさま……。いえ……。……ウ、……ゴ、さま」


「そうだ。ウーゴだ。ルキア」


 深い声に誘われ、おそるおそる、右手を差し出した。

 ついさっきまで短剣を握りしめていた手。

 それを、武人らしいごつごつとした手に包まれる。


「私を、娶ってくださいますか」


 命を長らえるための手段。

 それでも。

 なんて甘い。


「ルキア。君を大切にすることを誓う」


 エステルは初めて。

 呼吸の仕方が分からなくなるほどの胸の高鳴りに混乱し、思わず強く目を閉じた。



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