ふたりきり



「ほら、口を開けて」


 低い音の囁きにエステルは戸惑う。


「あの……。自分で食べられます」


「これは、獣のつがいなら必ずやることだよ。私たちも夫婦になったのだからね」


 ほら、とクリーム色のスープで満たされたスプーンを口のそばまで差し出されると拒めるはずもなく。


「はい……」


 視線を彼の膝に落としておそるおそる唇を開いた。

 注意深く入れられたスプーンで流し込まれ口の中に広がるのは、セロリの根と林檎から作られたポタージュの、ほんのり甘く優しい味。


「白湯を飲むだけしか時間がなかったからたいそう空腹だったろうに、よく耐えたな」


 ウーゴは膝の上に載せている保温用布に包まれた琺瑯のスープボウルよりスープを掬ってはせっせとエステルの口に運ぶ。

 スープの他にも看病してくれた修道女たちが作ってくれた食事はたいそう美味しく、身体の隅々まで温めてくれた。


「何もかも、急がねばなりませんでしたので、仕方ありませんね」


 父、エイドリアンとハドウィック辺境伯はもうすでにこの聖グレジオ教会を後にしている。

 修道女たちも辞して、今は二人きりだ。


「君は目を離すと無茶をするから、くれぐれも頼むとエイドリアンから……そういや、彼をお義父さんと言うべきか」


「いえ。どうか父の呼び名はそのままで。でも、私の性格は父譲りとみなさま仰いますよね?」


 エステルが首をかしげると、ウーゴはその手にフェンネルの種とローズマリーで淹れたお茶の入ったカップを両手に握らせ、飲むことを促される。

 ゆっくりと飲み干すのを見届けた後、彼はぽつりと答えた。


「大胆なところは確かに似ているが、同じ人間ではないからな。父親としては心臓がいくつあっても足りないだろう」


 エイドリアンには心から同情する。

 実際、ウーゴも内心肝を冷やしたのだから。


 死を工作するためには髪の毛だけでは不十分だと主張するエステルは指を落とそうとしたが大人たちから阻止され、なら贈られた真珠の残骸が付いている爪だけでもはがすと言い出し、気の毒なエイドリアンは貧血を起こしかけた。


 勇猛果敢な男としてアシュフィールド国で名を馳せていても、愛する娘の事に関しては別だ。


 結局、修道女たちとソルタンが治癒魔法を駆使して手術を行い、真珠の付いた爪を数枚剥がして即刻再生させた。

 術中、平常心のまま寝台に坐している娘を背中から抱きしめ続ける父親の顔が紙より白くなったのは言うまでもない。


 そしていささか手足の力が入らないエイドリアンに代わり、代理父のハドウィック伯がエステルを抱き上げそのまますぐに近くの礼拝室へ移動し、婚姻式を挙げた。


 立会人はハドウィック伯クライヴと三人の修道女たち。

 式はソルタンが執り行い、婚姻書を二通り作った。


 一つ目はエステル・ディ・ヘイヴァースで署名し、ヘイヴァースの魔法空間庫にて厳重に保管し、 もう一つは平民ルキアで署名し、聖グレジオ教会奥の院とウーゴ・ノエ・ヴァンサンが保有する。


 時間が差し迫っているので、とにかく必要最低限の事柄を急いでこなした。


 おそらく、エステルの追放の件でジュリアン一派から呼び出しがかかるであろうエイドリアンは結婚の祝福の口づけを娘の額に落とすと再び公爵領へ転移し、クライヴは『証拠品』を手にソルタンと国へは秘密にしている魔獣管理塔へ向かった。

 明日にでもデイヴ・バリーたちを谷底へ導き、糞にまみれたエステルの残骸を発見させてくれるだろう。


「今更ですが、ローラン国は前ヴァンサン辺境伯と平民との再婚を許しくださるのでしょうか」


 当主を辞しても貴族であることには変わりがない。

 少なくともアシュフィールド国の法では許されず、抜け道として親に功績を立てさせ爵位を与えるか、貴族の養子に入れるかだ。


「それに関しては問題ない。離婚した時に、私の再婚に対して王家は一切口出しをしないとの誓約書を慰謝料とともに国王から拝領した」


「そうでしたか……」


 現国王はウーゴの元妻の異母兄にあたる。

 賢王としても知られており、約束が翻ることはないだろう。


「ルキア」


 空になったカップを優しく取られ、視線を上げた。


 白銀の髪、高い鼻、知的な額、美しい黄金とサファイアの瞳。

 エステルよりも二十年長く、様々な困難と戦い続けた男の顔がゆっくりと近づいてくる。


 公的な場なら冷静に、強く見つめ返すことができる。

 でも今は、寝台の上で。

 二人きりで。

 急ごしらえではあるけれど、夫婦という立場になってしまった。

 それに。


「ルー……」


 どうして。


 名を呼ばれているだけなのに。


 こんなにも甘い。


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