絶対服従の呪い


 


「ああ! おやめください、公女様!」


 修道女の悲鳴が響き渡る。

 仮眠を取っていた三人は、それぞれ身体を預けていた長椅子から飛び起き隣室へ向かった。


「エスター!」


 扉を蹴破る勢いで入ると、白い寝間着姿の少女が寝台の真ん中で短剣を握りしめ、ぽかんとした顔で座っていた。


「お父様…」

 公爵令嬢然とした冷たい仮面ではなく、幼いころに領地の野山を駆けまわっていたあどけない表情が宿っていることに、エイドリアンの胸の奥は熱くなる。


「あーあ…。なんてもったいない……。これはいったいどうしてしまったのかな、エステル嬢」


 立ち止まったまま娘を見つめる男をクライヴは追い抜き、寝台のへりに座って彼女の周りに散らばるものを手の平にのせた。


 エステルの長く艶やかな髪は無造作に肩の上の長さに切り取られている。


 悲鳴の主であろう中年の修道女は普段はたいへん冷静な人物だったが、両手を握りしめて涙目になっている。


「申し訳ございません……。迂闊にも私がお渡ししたばかりに……」


 部屋の隅のテーブルの上にエステルが身に着けていたものすべてをきれいに並べて保管してあり、その中の一つが護身用の短剣だった。

 おそらく、目覚めてすぐにそれを確認したいと言われて修道女は素直に渡してしまったのだろう。


 所用で席を外していたソルタンも入室するなり、あまりの惨状に目を丸くする。


「驚かせてごめんなさい、修道女様。そして、みなさま。ここに運ばれてからもう半日経ってしまったとお聞きしたので、早く対処せねばとつい慌ててしまいましたの」


 すっかり軽くなってしまった頭をこてんと傾けて修道女に詫びるエステルに、クライヴは思わずぷっと吹き出した。


「君、相変わらずだね。セアラ殿を驚かせてしまったことは申し訳ないと思っているけれど、その手入れの行き届いた髪を切り落としたことについては後悔のかけらもないね。むしろ清々している感じかな」


「ハドウィック伯爵…」


「クライヴ。昔はクライヴおじさまって呼んでくれていただろう?」


「失礼しました。あの……クライヴおじ様」


「うん。おかえり、エステル。せっかくの綺麗な髪をいきなり切って、君はどうするつもりなのかな」


「それは……」


 クライヴが優しく指先でエステルの髪の乱れを直してやると、ようやくエイドリアンが近づき、隣からおそるおそる白い頬を撫でた。


「エスター……。もう、大丈夫なのか。どこか身体がつらくないか」


 父の大きな手に頭を少し傾けて頬を摺り寄せ、微笑む。


「セオはたどり着けたのですね。お母様とニコラスは無事ですか」


「ああ。彼の来訪直後から堅牢な防御の中へ避難させている」


 本来、『セオ』は王家の影であってエステルがヘイヴァースのために使って良いものではない。

 彼が動いてくれるかは一か八かの賭けだった。

 十年近く。

 ずっと寄り添ってくれていた日々の中で情のようなものが少しでも湧いているならば、最後の願いを聞いてくれるかもしれないと、望みをかけて命じた。


「そうですか……。良かった。タイミングを誤ると、もしかしたらニコラスが死んでしまう可能性があったので」


「それは……。エスター。どういうことだ」


「実は、この首なのですが」


 エステルは首筋の左側を指さした。

 そこにはうっすらと刀瑕の後が残っている。


「婚約の儀の直後に呪陣を刻まれていました」


「な……っ!」


 大人たちは言葉を失う。


「王太后様に連れられて行った奥の院にヴォルゲニヒ枢機卿が待ち構えていました。そして噛みつかれて、施術されてしまったのです。彼の歯と舌には特別な術が刻印されていて、噛みつき舌を押し付けると完了するようになっていました。私の血と彼の唾液と舌の紋章、そして婚約指輪が呪術の要件だったようです」


 ヴォルゲニヒ枢機卿。


 けっこうな年月、王太后の飼い犬だった男だ。

 そのような能力があったとは、同じ聖教会に身を置くソルタンですら知らなかった。


「なんてことを……」


 エイドリアンは怒りに目の前が真っ赤に染まったような心地になる。


 淡々と語っているが、呪陣の描かれた石の床に押し倒され、礼服を裂かれて生臭坊主に首を舐めまわされるという虐待行為を、王太后の指示でなされたということだ。


「これは王太后への絶対服従の誓約でした。他言無用はもちろんのことで、もし逆らえば両親とニコラスに害が及ぶと」


 だからこそ、あらゆる無理難題を受け入れ続けた。

 目の前の罪人を殺せと言われ、指示された手順で行ったこともある。

 全ては、夫となるジュリアン及び王族を守るためだと言い聞かせられ従ってきたが、さすがに年齢を重ねるうちに様々なことに疑問を持ち考えるようになる。


「しかし調子に乗りすぎたヴォルゲニヒ枢機卿の言動が目に余ったのでしょう。数年後に彼は処分されました。その時に少し思ったのです。今、この呪陣の効力はどれほどだろうかと」


 八歳のエステルに二人は『誓約逃れのために呪陣を傷つけても災いは降りかかる』と言い、実際自ら首元に小刀で傷を付けさせられて数日後、ニコラスが魔獣に襲われて怪我をしたという知らせが入った。

 それを信じて言いなりになっていたものの、暗部のことまで学ばされているうちにあれは稚拙な工作だったのではないかと思うようになった。

 しかも、幼女趣味のヴォルゲニヒは他界している。


「第三王子殿下主導で婚約破棄の儀が行われ、聖魔法により婚約指輪が解除された時、二つの要件が取り払われたなら、あと一つで呪陣を破壊できるのではないかと……思いました」


 最後の要件はエステル自身。


「エスター、エスター、エスター。なんてことだ」


 エイドリアンはたまらず娘を両腕で強く抱きしめた。

 その暖かで確かな父の体温の中で、エステルは肩の力を抜く。


「ごめんなさい、お父様。そもそも、王太后様からの妃教育の一番初めの講義は『犯される前に自害する』こと。そしてその方法でした」


 王太后の命じたことであるから。

 規約違反にならない筈。

 そう思った。


「あの……。あの女……っ。よくも……」


 縛るものすべてからの解放。

 死をもって、ようやく。


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