エイドリアンの頼み
簡素な部屋の中に重い沈黙がしばらくの間支配したが、ふいにエイドリアンが顔を上げ、白銀の男をじっと見つめた。
「ウーゴ。今、君に妻はいるか?」
質問の意図が分からず、問われた男はオッドアイの瞳をすがめる。
「…いや。いないままだ」
「なら、質問を変える。恋人もしくは親しい女性は身近にいるか」
「どちらもいない。…どうした、エイドリアン。お前の言いたいことが俺にはさっぱりわからない」
「もし、親しい間柄の女性が一人もいないというのなら…。エステルを娶ってくれないか」
「は?」
やや目尻が垂れた切れ長の目を見開き、ウーゴは驚きの声を上げた。
もちろん、残りの二人もあっけに取られてエイドリアンを凝視している。
「エステルが目覚めて…。後遺症がひどくないのであればなるべく早く。夫婦の関係になってほしい」
正気を疑う発言に、ウーゴは石のように固まった。
「いやいや、いや。ちょっと待て、エイドリアン。なんでそんな結論に至ったのかわからんが、とにかく落ち着こう」
両手をひらひらと振って、クライヴが止めに入る。
「俺は冷静だ。クライヴ」
背筋をまっすぐに伸ばし静かに断じるエイドリアンに、ソルタンはふと思い当たる事柄に行きつく。
「…もしかして、アシュフィールド王家との復縁を阻むおつもりですか」
「その通りです。ヘイヴァースはもう二度と娘を差し出さない。何があっても」
冴え冴えとした表情で頷くエイドリアンにクライヴは頭を抱えた。
「…すまん、ちょっと待ってくれ。俺には意味が解らない。説明してくれないか」
「アシュフィールドは二百年くらい前に妃になる者に対する制約を定めた。その最も重要な事柄が処女であることだ。もし婚姻前に穢れた場合、資格をはく奪される」
「なるほど。それで第三王子は騎士たちに護送がてら輪姦を推奨したのか」
クライヴの不用意な一言に整った眉をわずかに上げたが、エイドリアンは言葉をつづける。
「ネルソンの娘の扱いが今後どうなるかは知らん。しかし、エステルがもし生きていると知れば、王家は何らかの復縁を命じるだろう。十年、王太后のしごきに耐えた稀有な存在をやすやすと手放すはずはないからな」
八歳の時に婚約を命じられて以来、エステルは虐待としかいいようのない困難な教育をひたすらにこなしてきた。
第二王子の婚約者であるオズボーン侯爵令嬢ガートルードは、その三分の一もない簡単な内容であったにもかかわらず。
「婚姻が成立するまで…。いや。王太后が死ぬまで耐え抜けばあとは何とかなると思うしかなかった。何せ、いきなり拉致同然に王宮へエステルを連れて行き、私の同意のないまま大司教立会いの下婚約指輪を嵌めたのはあの女だから」
王太后アレクサンドラは前王ギリアン亡き後、影の為政者として君臨し別宮に移った今もそれは変わらず、第三王子ジュリアンとの縁組は彼女が決め王命を下した。
現王スチュアートは愚鈍ではないが、苛烈な母に対して頭が上がらない。
政治的手腕に関して、彼女の右に出る者はいないからだ。
「いったいどの国に、暗部や魔獣討伐隊で訓練を受けさせられた王子妃が存在する? 実戦経験なら王太子や第二王子よりもはるかに上だ」
護衛騎士たちですら知らない、秘密の訓練。
男子禁制の閨教育と偽り、王宮の地下の練習場で武器を握らせ、時には戦闘の最中に転移させたりもしていた。
もちろん何度も大怪我を負った。
しかしそのたびに聖魔法で完全治癒させ、再び『訓練』に放り込んだ。
エイドリアンは何度も婚約を白紙撤回させようとしたが、それを阻んだのはエステル本人。
『ヘイヴァースとお母様たちが侮辱されるのだけは耐えられません』
王太后アレクサンドラは側妃アリーヤとその子孫を疎ましく思うことを隠さなかった。
それに同調した人々が好き勝手に振舞うのを静観し続けた結果がこの断罪劇だ。
「これはあくまでも俺の推測だが、王太后の命はそろそろ尽きる」
そうでなければ。
ジュリアンをこれほど野放しにしたりはしない。
国の恥を晒してまで王太后がやりたかったことは。
「ネルソン達を躍らせ、一気に刈り取るための舞台だったのか…」
実際、各国の大使を招いた酒宴で彼らは愚を犯したばかりか、その後も暴走し続けた。
目と鼻の先の別宮が全く動かないことに疑問を持たないばかりか、支持されていると勘違いをして。
「その餌にエステルを使った王太后と、アシュフィールド王家を俺は許さない」
エイドリアンはウーゴに頭を下げた。
「頼む。一年…いや、二年。期間を決めてくれて構わない。どうか、エステルを妻にしてやってくれ。君の事情も重々承知の上だ。それでも俺はこうして頼むしかない。アシュフィールド国の貴族では無理だ。若い男はなおさら…」
「頭を上げてくれ、エイドリアン」
深く息をついて、ウーゴは椅子に背を預ける。
「まずは、あの子が目覚めを待とう。全てはそれからだ」
長い夜が明けようとしていた。
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