バルバラ



 ふわふわと柔らかくて優しいものが頬にそっと触れる。

 頭を撫でられ、自然と唇の端が上がってしまう。


「三の姫様、狸寝入れはやめなされ」


 低く、しわがれた声に喉を鳴らして笑った。


「ばあや」


 両腕を突き出して大柄な老婆の腰に抱き着く。


 エステルは今、五歳の子どもだ。


 白い簡素な袖のないひざ丈のまるで下着のようなワンピース一枚をまとっただけの、自由で楽しかったころの姿。


 このころに戻りたいわけではない。

 ただ、これがエステルの本質だと言うだけ。


「ばあや、大好きよ」


 額を彼女の膝に擦り付けると濃紺の豊かな短い髪がぱさぱさと音を立てた。


「まったく、姫様ときたら……」


 あきれ返ったため息が降って来るがくすくす笑いながら乳母の膝を堪能する。


「ねえ、もうずっとここにいていい?」


「なりませぬな」


 乳母はばっさりと即答する。

 そんな容赦ない所がとてもとても好きだ。


「もう疲れたわ。私、普通の人の五倍は頑張ったと思う」


「確かにそうですが、上には上がおりまするからなあ」


 節くれだった長い指が頭を優しく撫でるけれど、口から出る言葉はつれない。


「それに、あれだけ首を深く切ったんだもの。もう修復不可能でしょ」


「残念ながら、人生、そんなに甘くないものでねえ」


「ええー……」


 頬を膨らませ、唇を尖らせて見せると節くれだった指で頬をつつかれ、空気を抜かれた。


「ナサニエル殿の『祝福』が姫様の意志を上回りましたので、仕方ありませぬな」


「ああ……。まったくもう、ネルソン達は能無しね。よりによってナサニエル様を立ち会わせるとか、本当に馬鹿なんだから」


 ナサニエル司教は出自のせいで序列は末席どまりだが、神聖力においては群を抜いている。


 そんな彼が誠心誠意、エステルの無事を祈ってしまった。


 おかげで、エステルは思い切りよく自害したにもかかわらず魂はとどめられ、この世とあの世のはざまに留まることになってしまい、こうしてここにいる。


 『ここ』は乳母のバルバラの魂が護る、ヘイヴァースの宝物庫。


 本当に大切な物はみなこの中に収容されており、邪な者は侵入できず、また、バルバラの許しなくして持ち出すこともかなわない。


「ねえ、ばあや。お母様のドレスも装飾も、みんな駄目になってしまったわ」


 エステルはすんと鼻を鳴らす。


「せっかく、ばあやが着せてくれたのに」


 夜会用のドレスがいずれも使えないと解った時、エステルは宝物庫のバルバラを訪ねた。

 侍女たちが信用ならない上に時間がなく、彼女に頼る以外に道がないのは明白だったからだ。

 そして、この空間の中で全身の汚れと穢れを落とし、亡き母の思い出のドレスを着付けて貰い、髪を結い化粧を施して淑女として完璧な姿でヘイヴァースのドレスルームへ戻ることができた。


 だからこそ、その先に何があっても怖くなかった。

 待っているものが死しかないと知っていても。


「形あるものはいつか壊れるのが理。それでよいのですよ」


「私も、壊れたはずなのだけど」


 首の血管を断絶し、崖から落ちる念のいれようだったというのに。


「それは、ナサニエル殿の加護が発動してしまいましたからのう」


「あああ……。ナサニエル様のおせっかい……」


 身体がどうなったのかはわからないが、とにかくいずれエステルは現世によみがえらねばならない。


「これ。せっかくのご助力になんてことを。私はそんな恩知らずに三の姫様を育てたつもりはありませなんだ」


 ぺち、と額を叩かれ、むうと唇をさらにとがらせる。


「まったく、可愛いお口がこのままではキツツキのようになりますぞ」


「それもいいかもね。もう、私、キツツキになりたい」


「そうですか。ならまず、木に穴をあける修行をせねばなりますまい」


 減らず口を叩くエステルを、乳母バルバラは軽くあしらった。


 バルバラは祖母のアリーヤの護衛だった。


 魔力と神聖力を併せ持つ彼女はアリーヤが側妃になった時も護衛をつづけ、娘のレイラと孫のエステルに仕え、それぞれを一の姫、二の姫、三の姫と呼ぶ。


 そして数年前に寿命が尽きると同時にヘイヴァースの異空間宝物庫の番人となった。

 死しても忠義を尽くすバルバラに父もエステルも頭が下がる思いだった。

 しかしそのおかげでエステルは時々この宝物庫をこっそり訪れ、乳母に甘えることで心の均衡を保つことができた。

 たとえ、多くの人々に蔑視され、どれほど過酷な王子妃教育にさらされても。


「姫様。もう婚約の呪縛は解けました。今度は好きなようになさると良い」


 指輪がはまっていた指を撫でさすりながら乳母はぽつりと言った。


「好きなようにって……。どうしたらいいかわからないわ」


 長い間『公爵令嬢』を演じてきた。

 毒舌の、人形令嬢。

 血液は氷のように冷たく銀色に違いないとまで言われていた。


「せっかく花盛りと言うのに恋も愛も知らぬままあの世へ行かれては、きっと一の姫様も二の姫様もお泣きになるだろうよ」


「恋も愛もって……。そのせいで私は殺されようとしたのに?」


「あれは忘れなされ。ろくな末路をたどるまい」


 そう言うと、乳母はエステルの頭を膝から降ろして立ち上がらせる。


「そろそろお行きなされ。魂だけでここにいると、戻れなくなりますゆえ」


 両手を握り向かい合うと、エステルはゆっくりゆっくり成長していく。


「私はずっと。ずっとずっと、ばあやと一緒にいたいのに……」


 だんだんと視線があがり、手足も伸び、乳母とかわらぬ身長になってしまったことにエステルは眉を下げる。


 とうとう、十八歳の姿になってしまった。

 五歳の時、乳母はとてもとても大きな人だった。

 しかし、亡くなる直前には老いて小さな人となってしまった。

 そして今、また、見下ろしていることが悲しい。


「嬉しいお言葉、乳母の胸に宝物として大事に致しまする」


 ごつごつとした手がエステルの手を愛しそうに握りしめた。

 早くに亡くなった母の代わりに寄り添ってくれた人。

 この人がいなければ、生きていくことは難しかった。


「さあ、お行きなされ。今度は自由に、羽ばたきなさるのですよ」


 バルバラはくるりと背後に回り、とん、とエステルの背を押した。


「どうかどうかお幸せに。バルバラはここで願い続けます」


 大きな温かい手。

 もっと生きろと。

 もっと知れと。

 諭された。


「ありがとう、ばあや」


 エステルは、舞い上がった。

 生きるために。


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