頂の上の女神



「な、なにを……」


 思わず胸元に手をやり、ぎゅっと握りこむ。

 騎士服の下にはオリヴィア・ネルソン侯爵令嬢から貰ったコインネックレスがあった。



『これを私だと思って持っていてください。道中の無事をと願いを込めました。貴方をきっと守ってくれるはず』


 令嬢自ら首にかけてくれた。


 跪いていたダニエルの上にふわりと彼女の身体から百合の清涼な香りが降りてきて、僅かに感じるやわらかな体温とともに、息のかかる距離に遇された、それだけで幸せな気持ちになった。


 この佳人は第三王子の想い人。

 その身に真の愛の結晶を宿している。


 騎士としてそば近くで守れるのなら、それで満足だ。



 すがるように胸元を掴んだまま動かなくなった男を見つめ、エステルは言葉をつづけた。


「オリヴィアを信じたいならそうすればいい。その方がお前は幸せでしょうね。でも、『あの子』はまるで呼び寄せられたかのようにまっすぐお前めがけて飛んできたから、一応忠告しておくわ。私はもう、助けてあげられないし」



 日々鍛錬している筈のダニエルたちよりも慣れた様子で彼女は岩を登っていき、頂の上に立って見下ろした。


 彼女の背中には細い残月。

 しかし、その光だけでも彼女の顔に微笑みが浮かんでいることがわかる。

 風になびく髪も、月に白く照らされた手足も、獣の眼のように光る瞳も。

 まるで、夜の女神のようにこの世ならざる美しさがあった。


「エステル様?」


「そこで止まりなさい、デイヴ・バリー」


 慌てて後を追い登ろうとするデイヴをエステルは静かに一喝し、その場に縫い留めた。


「ロウ、ジャムコ、ペル、ガス……」


 ゆっくりと指折り名前を唱えだしたのを耳にして、デイヴたちは動揺する。


 ロウはエステルが最初に針金で一突きにした男。

 目をやられたジャムコに、森の中で死んでいた小男のペルと大男のガス。


「マットがいないわね。魔物にでもやられて置いて来たのかしら? ガスたちの遺体を見て怖気づいていたようだしね」


 ここにいない男たちの名前を列挙したことに、全員ぞっと身震いした。


「なんで……。なんで。あいつらの名前を……」


 さすがのラッセンも気味悪げに口ごもる。


「ああ。お前たちの事は把握していたのよ、ずいぶん前から。騎士格の者で謀反に加担するなら誰なのか、だいたいね」


 そして、ラッセン、ロビー、ベンと指さして名を当てた。


 エステルが警備隊員たちを訪ねたことは一度もない。

 初対面のはずにもかかわらず、その瞳に迷いはなかった。


「謀反? 俺たちは第三王子の指示に従っただけだ」


「国王陛下の了解も得ずに王子の婚約者である公爵令嬢に冤罪で即時処刑しようだなんて、随分剛毅なことね? お前たちは目先の褒美に尻尾を振って飛びついてしまったかわいそうな駄犬よ」


 この期に及んで嘲りの言葉を吐くエステルにデイヴは強い違和感を覚えた。

 今、この人は何を考えている?

 こちらをわざと怒らせようとしているようにしか見えない。


「お願いですエステル様。ここからでは修道院へは向かえません。どうか降りてきてください」


 デイヴは手を差し出した。


 この旅の名目は聖グレジオ修道院へエステルを送り届けること。

 その教会の灯台の光が別の山の頂でちらちらと光っていた。


「降りて、お前たちの慰み者にされたあと死ねと?」


 こてりと頭を傾けエステルは笑う。


「それはごめんこうむるわ」


 言うなり背中に手を回して隠し持っていた短剣を取り出し、首に刃を向ける。


「エステル様!」


「ここで死ぬことについて異論はないわ。そうでないと両親と弟が殺されることになっているようだから」


「それはいったい、どういう……」


「それをお前たちに説明する義理はないわね」


 彼女は軽く肩をすくめ、ダニエルの問いに答えない。


「エステル様、どうかおやめください。我々は今更命を救ってくださった方に危害を加える気などありません」


 宥めながらゆっくり岩をよじのぼる。


 あと少し。

 あと少しで公女に手が届く。


「デイヴ。お前がその気になったとしても、ラッセンたちはどうかしら。魔道具契約を結んでしまっているなら、契約違反は死あるのみよ?」


 ぎょっとして思わず警備隊の三人を振り向くと、彼らは一様に顔色を悪くした。


「王太后さまに伝えなさい。エステル・ディ・ヘイヴァースは貴方の教えに忠実に従ったと」


 仰ぎ見た時、すでにエステルは首に当てた短剣を力強く引いた。


「エステルさま----ッ!」


 デイヴはエステルに向かって手を伸ばす。


 全ての時がゆっくりと流れていく。


 刃が水鳥のように細い首にしっかりと埋まっていくのが見えた。

 手首を回転させ、広く切り裂いた短剣は彼女の手を離れてこちらへ落ちてくる。

 そして。

 凛とした眼差しのままの彼女の首から噴水のように赤い液体が飛び散った。


 サアアアア――――。


 赤い雨が、デイヴたちに降りかかる。

 濡れた手を伸ばしてその身体を掴もうとしたが、僅かな差で間に合わない。

 空虚な色の眼を開いた人形がゆっくりと後ろに倒れていく。

 身を投げ出す勢いで這い上がって捕まえようとした。

 そこで初めて知ったのは、この頂の先は断崖絶壁だということ。


 あと数歩。

 あと数秒。

 せめてもう少し。


 必死に追いかけたが間に合わない。


 白い身体はゆっくりと谷底に向かって落ちていった。


「エステル様――――――っ」


 岩にしがみついて声も限りに叫んだが、もう遅い。


 全て、暗闇に飲まれてしまった。

 

 

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