彼女去りしのち



 デイヴ・バリーは岩にしがみつき手を伸ばした姿勢のまま、彫像のように固まり動けない。


 信じられない。

 あの方が。

 エステル・ディ・ヘイヴァースが自ら首を切り裂き、崖から身を投げた。


 ぽたりと、髪を伝ってしずくが手の甲に落ちる。

 赤い。

 あの人の身体の中にあったはずのもの。


 どうして。

 なぜ。


 あの人は、いつも平然としていて。

 何があっても、顔色一つ変えないで。

 死にそうになかったじゃないか。


 殺せと。

 犯して殺せと命じられ、首を垂れて受けた時。

 どこか他所の世界の話のようで現実味がなかった。

 不可能なことだとどこかで思っていたから。


 七年間も護衛としてそば近く仕えてきたが、出会いからずっとエステルは辛らつな言葉を吐く人形にしか見えなかった。

 常に完璧な所作で歩き、無邪気に走ることはない。

 整えられた髪は一筋の乱れもなく、修道女のように慎ましく、下々を睥睨する。

 そんな彼女の、乱れる様を見て見たかった。

 怒りでも、哀しみでも、憎しみでも。

 人間らしい、体温を感じてみたかった。


『お前はこの扉のこちら側で、大人しく待ってなさい。それがお前の仕事よ』


 あの大広間へ続く扉の前で。

 新興伯爵家の四男ごときのエスコートはいらないと拒まれた。


 彼女はいつもそうだ。

 いつもいつもデイヴを拒み、距離を置こうとする。

 あの時、手を取ってくれてなら。

 あんな、くだらない偽証など、加担しなかった。


 何があっても、お守りしたのに。

 抱きしめて、離さなかったのに。




「しまった、死体を持って帰れって……」


 あとから這い上がってたどり着いたラッセンが血濡れた岩に飛びついて、舌打ちする。


 彼もそこかしこにエステルの血を浴びていた。

 振り向くと、ダニエルもロビーもベンもみな赤く染まっている。

 これだけ大量の血が流れたなら、彼女は即死に近かったのではないかとどこか冷静に考える自分がいる。


「……今は、無理だ。夜が明けたら探索しよう」


 不思議なことに、言葉が普通に出た。

 これほどの高さから崖底に落下したら彼女の身体はめちゃくちゃになっているだろう。

 しかしせめて、亡骸はきちんと公爵家へ届けたかった。


「くそ、犯すって指示がこなせなかったな……」


「ラッセンお前、よくもまだそんなことを」


 デイヴがラッセンに掴みかかった時、また上空で禍々しい空気が現れた。


『キキキキ――――』


 耳をつんざく、あの叫び声。

 空にぽつりと見える黒い影が一つ、ものすごい速さで大きくなっていく。


「おい、また来たぞ!」


「かんべんしてくれようー」


 ロビーたちは恐怖のあまり、尻もちをついたまま動けない。


「くそ、くそっ! 姫さんの言う通りじゃねえのか? おい、坊ちゃん! あんたあの女から何をもらった!」


「そ、そんな……。そんなはずはない」


 呆然と目を見開いて胸元を握りしめるダニエルにラッセンは掴みかかる。


「おいこら、ここで死ぬ気か! はやくその握っているやつを出せ!」


「いやだ。そんなはずはない。オリヴィア様は……」


 みなまで言わせず、ラッセンはダニエルを殴り飛ばした。

 岩から転げ落ちたダニエルに馬乗りになり、ラッセンはその握りしめたままの両手を開かせようとする。

 それを見ていたロビーも這って二人に近づき、抵抗して暴れるダニエルを取り押さえようとするが、うまくいかない。

 デイヴはエステルのいた場所で弓を見つけたが、矢は一本もなかった。


「ちっ」


 剣を持ち直し、飛び降りる。

 この際、ダニエルを殺して奪うしか--。


「あ、あああ。もうだめだあ~」


 ベンが泣きながら叫ぶ。


 怪鳥が目をぎらぎらと輝かせ、まっすぐに降下してくる。


 応戦するには武器も体力も残っていない。

 なにもかも間に合わない。

 もう駄目だと思って全員が諦めかけた瞬間に、男の声が聞こえる。



「お前ら、伏せろ!」


 とっさに全員身体を低くした。

 すると、物凄い光と熱量の風が彼らの上をざっと通り過ぎた。


『ギャア――――――』


 ボンッと爆発音がし、思わずデイヴは顔を上げる。

 大きな火の玉が怪鳥に当たり、あっという間にその全身を燃やした。

 そして、渓谷に向かって落下していった。


「大丈夫か」


 声の方を見ると、ローズクォーツの髪に赤い瞳の男が十数人の騎士を従えて立っていた。

 これほど多くの者が近くまで来ていたとは全く気付かなかった。

 驚きながらも、デイヴは立ち上がり、頭を下げた。


「助けていただき、ありがとうございます」


 ラッセンたちは呆然としたまま動けない。


「お前たちが王都から来た騎士で間違いないか?」


「……はい」


「なら、問う。エステル・ディ・ヘイヴァース公爵令嬢はどうした」


 この状況にもかかわらず、冷静に尋ねる男に見覚えがあった。


「私はクライヴ・ハドウィック辺境伯。ここの領主だ。そして、聖グレジオ修道院も一応ハドウィクの管轄だな」


 柔らかな口調だが、立ち姿の一切に隙がない。



「それで、もう一度問う。エステル嬢はどこだ」



 ピジョンブラッドの瞳が男たちを捕らえた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る