司教ナサニエル





 王都聖教会司教ナサニエルは人々の視線の中心いる物の一人だ。

 やっとの思いで書見台の前に立っているが、痩せぎすの肩を震わせ恐怖で気がふれそうだった。


 出来るなら、逃げ出したい。

 しかし、それは今更不可能であることは理解している。


 一言でも不用意な発言をしようものなら、第三王子の側近からたちどころに切り殺されるだろう。

 ほんの数刻前に高位貴族の使いと名乗る者たちが現れ、急ぎ神聖力を使った儀式を執り行ってもらいたいと頼まれた。

 この時、自分より高位の大司教たちは全員不在で要請に応えられる者おらず、ナサニエル以外あり得なかった。

 不思議なことに朝から次々と呼び出され、教会を空けていく。

 留守を預かる己が席を外すわけにはと躊躇したものの、ほんの数刻で済むと請われ同行したがついた先は王宮で、しかも第三王子の婚約者エステル・ディ・ヘイヴァース公爵令嬢の断罪と破婚の場。


 儀式を執り行うことを直前まで拒み続けていたが、側近の一人が放った一言に屈した。


『司教の心得次第で、ある孤児院が今すぐ不審火で全焼することになるかもしれないが、それでもかまわないか?』


 彼は高位貴族の子息だ。

 高級な装身具で身を固め、爪の先まで綺麗に整えられている。

 貴族が捨てた庶子、そして平民や流民の孤児など暖炉の薪程にも価値がないと思っているのは明白だ。

 ほんの一言で。

 彼は指を鳴らして皆殺しにするだろう。


(このような次第となり、誠に申し訳ありません。従うほかはない卑怯な私をどうか、お許しにならないでください。エステル様)


 心の中でナサニエルは公爵令嬢に詫びた。


 何と情けないことだろうか。

 娘ほどの年の令嬢が苦境に立たされているというのに。

 この、尊き御方を貶める側に与するなど、あってはならないことだ。


 たしか今夜はエステル嬢の誕生日で成人となる記念すべき宴のはずだった。

 それにもかかわらず、誰から見てもつじつまの合わない罪を着せて、断じている。

 せめて大司教ならば。

 この場を圧して覆すことができたかもしれない。

 しかし、低位貴族の庶子であるナサニエルにはなんの権限も、人脈もなく。

 なんと無力で役立たずの男なのだろう。


【ナサニエル司教。私は貴方様を決して責めません】


 ふいに頭の中へ言葉が降りてきた。

 雪の景色のようにすべてをそぎ落とした、威厳のある、少女の声。

 これは。


(エステル様!)


 今、エステルが使っているのは『心話』と呼ばれる術で神聖力を持つ者にしかできない手段だ。


 公女エステルは幼いころより才媛と誉れ高いが、なんらかの魔力や神聖力があるとは知られていない。

 そもそもこの国において高位貴族の令嬢は血統及び美しく愛らしいことが何よりも重要で、魔力持ちであることは重要とされていない。

 そのようなことは使用人たちに任せればよいのだ。

 騎士、魔導士、侍女などの職に就いて魔力を使用するのは、貴族でありながら働く女性のほとんどは婚約者がおらず自活せねばならない場合のみ。

 一応十代半ばに数年間、国の教育機関に籍を置くことが貴族の子弟の義務とされ、魔力等の測定と指導を行うがその講義の内容は浅く形ばかりのもので、能力を高めようとする令嬢はいないという背景もあり、公女が魔力を操るところを見た者はいない。

 どれほどの能力があるかはわからないが、この会話も誰かに感知されればエステルに危険が及ぶ。


(どうかお逃げください。このままではエステル様のお命も……)


【弟を人質にされているので無理です。司教様も同意せぬままここに連れてこられ、孤児院を盾に脅されているのではありませんか?】


 ナサニエルの平素の仕事はおおむね孤児院での奉仕だ。

 通いではあるが、多くの時間を子どもたちと過ごし育成に努めてきた。

 そして公爵令嬢とは幼いころより月に何度かヘイヴァースの名代として孤児院を訪れているため実は旧知の間柄であるが、それを知っての人選ではないだろう。


【このままでは今すぐにでも孤児院へ火を放たれるでしょう。時間を稼いでみましたがもう限界です。全て、殿下の指示通りになさってください】


 エステルは立ち上がると乱れ落ちた髪を両手で軽く撫でつけてドレスの乱れを軽く直し、一息ついた後にゆっくりとした足取りで書見台に向かった。

 先に司教の前についた王子も儀式開始の宣言は終えているで、さすがにおとなしく待つ。


「お待たせしました」


 いくつかの簪が落ちて髪形も乱れているというのに、エステルはますます気高く輝いていた。

 崩れてこそ、凄みが増したと言って良い。


「本来ならば私のような若輩者が執り行って良い儀式ではありませんが。大司教不在故に、私ナサニエルが代理として精一杯務めさせていただきます」


 覚悟を決めたナサニエル司教は両手を左右に開き、手のひらを天に向けた。


 淀みなく聖詞を唱える彼の周囲に淡い光が集まり始めたのを人々は黙って見つめる。

 細い体躯の地味な中年男で、彼が司教の末席に存在していることを認識している者はあまりいない。

 しかし、司教を名乗ることを許されるだけの能力があることは、今、彼が紡ぎ出す詞と彼の背後に浮かび上がり白く輝く円い神聖紋の美しさで十分納得できた。


「これより破婚の手続きを行います。――アシュフィールド国第三王子であるジュリアン・フェヴ・アシュフィールド殿下。貴方様はエステル・ディ・ヘイヴァース公爵令嬢との婚約の破棄を望みますか」


「心から望む」


「では、この書類に貴方様のお名前を署名ください」


 促されるやいなや、待ってたとばかりにジュリアンはがりがりと音を立てて署名する。

 彼がペンを乱雑に置いて一歩下がったところで、ナサニエルはエステルに顔を向けた。


「エステル・ディ・ヘイヴァース公爵令嬢。貴方様はジュリアン・フェヴ・アシュフィールド殿下との婚約破棄に応じますか」


「はい、応じます」


「では、署名を」


「はい」


 エステルはペンを取り、ゆっくりと丁寧に署名を行う。

 最後の一文字を書き終え、ペンが紙から離れた瞬間、二人の署名が金色に光った。


「――それでは。アシュフィールド聖教会司教、ナサニエルの名において、お二人の婚約関係が無くなったことを認め、宣言します」


 ナサニエルの声が大広間に響き渡る。


 一瞬、白い光が書見台を囲んだ三人を覆い尽くした。

 そして。


 パン!


 破裂音とともに、エステルの右手の中指にはめられていた指輪が粉々になった。


 ジュリアンの右手に存在していた同じ指輪も同様に。


 あっという間の出来事に、こうなることを知らなかった彼は驚いた顔で己の手を凝視していた。


「ああ……」


 ふっとエステルは息をつき、目を閉じる。


(さよなら、テオ……)


 指輪を、失った。




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