脅迫
「エステル。貴様が今日、ドレスルームでささいな粗相をした侍女のジェニファー・コーラルを責め立て、厳罰に処したそうだな。その後行方不明になったため、同僚が探したら暴行された死体が見つかった」
芝居がかった仕草で階段を降り、王子はゆっくりとエステルに向かって歩を進めた。
「それで、なぜ手首のみここにあるのでしょうか。遺体が見つかったのなら、全身を運び入れるのでは?」
軽く首をかしげて尋ねるエステルの簪がちりりと鳴る。
「――う、うるさい! 先に手首だけが見つかったのだ! 残虐な暴行を好むと使用人たちから聞き及んでいるぞ!」
「その使用人とは、いったい誰なのでしょう。……ああ、このデイヴ・バリーの証言と言う事ですか」
ちらりと斜め後ろに立つ公爵家の騎士を振り返った。
「お前も忙しいことね。ほんの一刻前に屋敷の前で家臣たちと並んで見送っていたはずのジェニファーの危機を察知し、私の護衛を務めつつ殿下に詳細をお知らせせねばならなかったのだから」
身分が上だと言うだけで七歳も年下の小娘に恥をかかされ、デイヴの瞳はどろりと濁る。
「まあ、殿下にとってはどうでもよいことですね。その手首が誰の物であろうとも」
そう。
たとえ論破できたとしても、次の証拠を彼らは用意するだろう。
「そうまでして、破談にしたいということですか」
「うるさいうるさいうるさい! さっさと捕らえて跪かせろ!」
ジュリアンの指示により、数人の騎士たちがエステルの両手を後ろにねじり、強い力で床に押し付け膝をつかせた。
扇が床に落ちて転がっていく。
しゃらん、とその場に不似合いな優しい音がエステルの髪と耳元から聞こえる。
あらわになった耳元とうなじ、細い肩としなやかな腕。
そして襟足から立ち上るかぐわしい香りに、取り囲んだ騎士たちは思わずごくりと喉を鳴らした。
「ふふふ。いい眺めだな、エステル。きさまが罪人として床に膝をつく日がこようとはな」
ジュリアンの後ろに付き従って現れたのは、王都で一番格のある神聖教会の司教の一人だった。
そして、侍従たちが書見台を運んできて王子と司教のそばに設置する。
「一刻の猶予もならないということですか」
凪いだ目でエステルはジュリアンを見つめた。
「ああ。穢れた血の流れる女が王子である私の婚約者であるということは、気が狂いそうになるくらい不快なことだ」
「気が狂いそう?」
くすりと笑うエステルに、ジュリアンはすぐさま駆け寄り、結い上げられた髪をわしづかみにして吊り上げた。
いくつかの簪が床に落ちて硬質な音を立てる。
「強がるのもたいがいにしろ。今、ここでお前を助けてくれる奇特な人間は誰もいない。父も兄たちも、お前の父親もな」
「……父の不在を仕組んだのは貴方ですか」
後ろ手と頭と同時に強い力で引っ張られ、自力で立つこともままならないままエステルは問うた。
「どうでもいいことだろう。今更。さあ、さっさと署名しろ。そうでなくてはならないことくらい、俺でも知っている」
この国の王族結婚は特殊であった。
王の血統を維持するために、魔導士や大司教と連携し神聖魔法による術でさまざまな縛りを作った。
その一つが、婚約宣誓書だ。
大司教立会いの下、署名した時より婚約者には術が発動する。
その内容は最高機密でジュリアンですら知らない。
ただ、縛りがある代わりに婚約者である間は王家に守られ、さまざまな権利を得る。
そして。
その様々な『護り』と『権利』は婚約解消又は破棄の手続きをすると消えてしまう。
今、ジュリアンと騎士はエステルを捕らえることまでは可能だが、死なせることは不可能。
『護り』が発動するためだ。
それを解除するために、彼はその権限をぎりぎり保有する司教をここに呼んだ。
ただ、これは彼の独断で秘密裏に行う必要があったため、大司教に頼むことはできなかったのだろう。
「これ以上俺を待たせるなら、今度はお前の弟の手首を寄こすぞ。あれは腹違い故に生かしておいてやろうと思い今のところ手出しはしていないが、あちらで待機している者に命じて即座に殺ることはできる」
耳元に顔を近づけてねっとりとジュリアンは囁いた。
「ニコラス・ヘイヴァースの人生が十二年で終わるか否かはお前次第だ」
ニコラス……。
エステルの瞳が、わずかだが初めて揺らいだ。
それを間近で見たジュリアンは満足げに唇を吊り上げた。
「さあ、どうするエステル。弟を殺してまで婚約者の座にしがみつくか、それとも……」
「お言葉に従い、署名いたします」
強いまなざしがジュリアンの目を貫く。
濃紺色の髪は乱れ、引っ張り上られた顔は吊り上がっている。
無様な姿の筈なのに、凛とした強さと美しさがあった。
「そ、それならさっさとしろ!」
慌てて手を振り下ろすと、驚いた騎士も思わず手を放し、いきなり解放され均衡を失った身体は横倒しに床へ転がった。
「--っ」
肩と顔を強打したが、エステルは歯を食いしばる。
両手を白い大理石について、ゆっくりと起き上がった。
「ナサニエル司教。儀式をどうぞ始めてください」
名を呼ばれ、その場に立ちすくんでいた司教はびくりと肩を揺らした。
顔面蒼白で小刻みに震わせながらも両手を胸元に下げられている聖なる紋章に当てて宣言する。
「破婚の儀式を……始めます。お二人とも、書見台の前にお立ちください」
全ての音が止まった。
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