2-6 『胸騒ぎの夜』
「遅いだけに飽き足らず、回避の挙動が見え透いているぞ」
「ごっ! くっ、なら――――」
「……大振りすぎるな、それでは駄目だ」
「げふっ……」
ヴァルクが目にも止まらぬスピードでツグの周囲を回り、隙だらけの背中に木刀を叩き込む。呻き声を上げて地に伏したツグの頭上から、ため息交じりのヴァルクの声が振ってきた。
「あの、もうちょっと手心とか……」
「まだその段階ではない。修練とは己の無力を知るところから始まる。……言っておくが、別に今の俺は常人に出来ない動きはしていないからな。素早く見えるのも、実際は相手の視線を切るように意識して動いているだけだ。お前でも出来る。―――さあ、続きだ。俺から十秒は耐え抜くまで、風呂と飯にありつけると思うなっ!」
「くっそおおおおおおおおおお!」
再び木刀を構えるヴァルクを前に、ツグは恨み言を吐き出しながら立ち上がる。躱す、躱す、躱す――――、
「避けたっ! よし――」
「甘えるな」
「ぶごっ」
初撃の一閃をなんとか見切り、興奮に上擦った声が出たツグの脇腹にヴァルクのしなやかな蹴りが叩き込まれた。そして変な姿勢で転がるツグを、
「あっはっはっはっはっは!」
「…………うわ、痛そう」
爆笑するミリアと口元をもにょらせたフォズが、修練場と化した一室の隅の椅子から、じっと見ていた。
******
みんなと仲良くできる人間でありなさい、と、よくわからない要求を最後に、イルミナギカとツグの話し合いは中断した。させられた、と言ってもいい。
「そろそろお風呂に入らなきゃ。……ああ、ちゃんと貴方も後で入れるわよ。浴場も男女で分けてあるから安心なさい」
そんな、なんとも女子らしい理由で話し合いの席を立ったイルミナギカは、「じゃあ、これからよろしくね」とだけ言い残してどこかへ行き、セージュにツグの私室まで案内されたまでは良かったのだが。
「お、終わったか」
「あ?」
「悪いが風呂は後だ。腹はどのくらい減ってる?」
「あ? ……や、別にそんなに減ってないけど」
「良し。じゃあ行くぞ」
「えっちょ――」
そして何故か部屋の前で待っていたヴァルクに連行され、着いた先が冒頭の修練場と化した部屋だったわけだが――――。
「端的に言って、お前は素人だ。折角一撃必殺の武器を持っているのに、勿体ないことこの上ない。【停滞】との戦いまで残り二週間も無いんだ。これから、身のこなしがそれなりになるまで急ぎで鍛錬を行う。いいな?」
「拒否権は無いんだろ。…………もう一回だ。来いよ」
「その意気だ。心がけは評価しよう」
そして何度目かもわからない、情けない
――――先のツグの言葉。「僕さ、正直何も無いんだよな」から繰り広げられた自己軽視と献身的姿勢の応酬に、『結晶の魔術師』ウィレイズの面影を見出したフォズは、ここ数時間、ずっと考え込んでいた。
【停滞】との戦いに怖気付く気持ちはあるが、本題はそちらではなく、ツグが見せた内面が、あまりにもウィレイズに酷似していたのだ。自慢の叔母はあそこまで振り切れてこそいなかったが、その身に宿した強大な力を、世界のために使うことを尊び、また、その余波で傷つくことも多かった。
率直に言って、フォズはツグという人間に、危うさを感じずにはいられない。
何がどう危ういのかは、フォズにも上手く説明はできないが、このままツグを戦わせ続けたら、絶対にどこかの
そしてフォズ自身も、戦うべきなのか否か、決断をしきれずにいる。いや、心情としては戦う気満々なのだが。
「……………………【停滞】」
その存在に感じる、妙な胸騒ぎ。
直に目の当たりにしたこともないのに、とても嫌な予感がする。ミリアは「フォズの勘はよく当たる!」とよく褒めてくれるが、ここまで根拠のない不安では、明かしても要らない心労をかけるだけだろうと、胸の内に留めてはいるが。
「浮かない顔ね」
「…………イル様?」
ふと背後から声がかかる。フォズが驚きと共に振り返ると、上気した頬と薄めの寝衣を纏ったイルミナギカだった。
「お風呂上がったわよ。疲れてる様子だし、ミリアちゃんもゆっくりしてきて頂戴。……あ、フォズちゃんが望むなら、私が背中を流し」
「結構です。……じゃあ、せっかくだしゆっくりさせてもらいますね」
「行こう! フォズ」
イルミナギカの言葉をスパッと両断し、フォズが煮え切らない心を抑え、椅子を立つ。部屋を出る直前、また懲りずに床に突っ伏しているツグの姿が――悔しそうな瞳を浮かべながらも、口元に一瞬猟奇的な笑みを浮かべた姿が、目に入った。
「……………………」
敗北を屈辱と考えない目だ。何度転がされても、何度手酷く鞭打たれても、最後に敵の心臓を抉れば僕の勝ちなんだとでも言いたげな目だった。その部分だけは、完璧主義のウィレイズとは正反対で。
見ていることに気付いたのか、ふと目が合ったツグの視線から逃げるように、フォズはミリアの手を引いて部屋を後にした。
******
「…………イルミナギカさんって」
「あの子と同じで、イル様で良いわよ。長いでしょう?」
「さらっと様付けを誘導……。…………イル様って、なんかフォズにめちゃくちゃ甘いですね?」
「だって、良い子でしょう? 至極」
「それは確かに」
「かわいいでしょう? 至極」
「…………それも、確かに」
異性との交友関係に欠けた不慣れな部分を全開にしたツグに、イルミナギカはくすりと笑う。その後ろで、ヴァルクが木刀を壁に掛けるのが見えた。
「今日はひとまずこんなものだな。お前の癖は大体わかった」
「明日は三発躱してみせるよ」
「士気が高いのは良いことだ。鍛え甲斐がある。……ああそうだ、イルミナギカ。『帝都』とはどうなった?」
「完璧。流石に本人や近衛は来ないけど、ある程度の人員と魔道具は用立ててもらえることになったわよ」
「それは重畳。後で擦り合わせがしたい。時間空いたら呼びつけてくれ」
「承知したわ」
打てば響くようなスムーズなやりとりに、ツグは思わず感心してしまう。ヴァルクはさも部下であるといった言い方をしていたが、この会話のテンションを見る限りだと、この二人の関係性もよくわからない。
「ツグも、男性用の浴場は今誰もいないから入ってきなさい。明日の朝は少し早く起きてもらうことになるわ。――――ああ、そうだ」
「ん?」
煤の着いた膝を払いながら立ち上がるツグを、イルミナギカが呼び止めた。声のトーンだけでにやついているのがわかる。怖かったので振り向かないままいると、息がかかるような至近距離で耳元に囁かれた。
「――――疲れただろうし、私もフォズちゃんにはフラれちゃったし…………特別に背中、流してあげてもいいわよ?」
「…………え?」
******
「…………………………………………………………………」
一人で使うには広すぎる浴場に、静寂がぽつんと鎮座している。
全身の力を抜き、両腕をだらんと垂らしたツグ。その木刀で打たれた体をほどよい力加減で擦られると、その熟練の手管に思わずため息が漏れた。
いっそ、このまま身も心も全てを委ねてしまいたい、と。そう思ってしまう度に、後ろを振り返っては何とか正気に戻っていた。
「………………………………」
ツグの背中を、床から生えた人間大のヒトの腕が、細やかな手つきで洗っていく。
別に、背中を流してあげる、というイルミナギカの言葉を真に受けていたわけではないが、何というかこう、持ち上げて持ち上げて落とされた気分が凄い。
「何が腹立つって、気持ちいいんだよな…………」
肌を傷付けない、しかし弱すぎもしない絶妙な力加減。正直、この腕の形をした異物に慣れを感じてしまっている自分が嫌だな、と少し感じる。
「…………しかし、激動の二日間だったな」
思えば、ツグがこの世界に来てから丸二日と経っていないのだ。その間に三度死んだだなんて、過去の自分が聞いたら信じもしないだろう。
カエルに毒され、赤獅子を殺し、怪鳥に潰され、赤獅子に喉を噛み千切られ――、
そして今度は【停滞】。神に匹敵する厄災ときた。
「うわ、波瀾万丈もいいとこだな」
己の足跡を順繰りに辿っていると、不意に疲れがどっと押し寄せて来た。まずい。浴槽で寝るのは危険だとわかっているのに――、
「………………ぐぅ」
******
――――同刻。イルミナギカの館から五十キロほど離れたある小さな集落にて。
その集落は、辺境も辺境。イルミナギカでも辛うじて存在を認識している程度の、僻地に位置する閉じた集落。故に、社会情勢といった情報は何も入ってこない。無論、【停滞】のことも含め。
「……………………ん」
ある少年が、肌寒さに目を覚ました。思わず尿意を覚え、眠い目を擦りながら、集落民の共用スペースに位置する厠へと歩を進める。
「お兄ちゃん?」
「ん、ごめん。起こしちゃった? ちょっとおしっこ。気にしないで」
「なんか、寒いね……。あたしも行く。外、暗いし」
そんな他愛のない会話を交え、立て付けの悪い家の戸をどうにか開ける。開けた。開けたけども。
「「え?」」
声が重なった。そのことに対する感慨は無い。それどころでは、ないから。
――――白い靄に包まれた世界。至る地面に巨大な霜が立ち、家の屋根からは氷柱が垂れ、それを認識すると同時に、目を剥くほどの寒さが兄妹の全身を劈いた。足が震えすらもしない。そんな生理反射すら起こらないほどに、その冷気は隔絶していた。
まるで、世界が停止したような光景。そんななかで、どんどん凍り付く脳にどうにか熱を送り、少年は今できる最良の行いを選んだ。
「逃げろ!」
「っ!? おに―――」
少年に肩を押され、身を苛む寒さから一瞬だけ解放される少女。その戸惑う瞳が、必死の形相で自分の肩を叩く兄へと向けられ――――次の瞬間、兄の首元に巨大な氷塊が叩きつけられるのを見た。
「ひ」
切断はしなかった。出血すらなかった。
文字通り氷に槌を叩きつけたように、少年の頭が粉々に砕け散ったのを見て、少女は集落の端へ端へと駆け出した。
恐怖で心が竦む。冷気で体が悴む。それでも、生きるために走って走って、かしゃ、と変な音がして。
「あ……」
自分の左腕が肩から砕かれる光景と、白い靄の奥で蠢く巨大な影を目の当たりにして、少女はもうそれ以上動けなかった。
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