2-7 『邂逅』

「…………むーむむ」

「知らない文字を覚えるのって、結構しんどいな……」


 小さな机を囲む二人が、揃ってしかめっ面でため息を吐いた。

 片方は言わずと知れたツグ。とりあえず書きまでは行かなくともせめて読みくらいはと、異世界文字の勉強の真っ最中である。

 そして、その向かいで教鞭を執るのがフォズであった。


「まさか、人に文字を教える機会が来るとは思わなかった。……難しい」


 この世界の言語は、一種類に統一されているのだと、講義の前にフォズはそう語った。地域によって多少のなまりこそあるが、五大国―――【火の国フィレム】、【水の国シャーレイグ】、【風の国ブリーズ】、【土の国ドゥラン】、【光の国リヒタルーチェ】の人間の国だけで無く、数年前まで五大国と戦争すらしていた魔族の坩堝、【闇の国ギルハイト】でも同じ文字、言語が使われているのだという。

 原初の魔法使いであり全世界の王でもあったウェルト神とやらによって流布されたというが、ともあれこの世界には基本的に、語学という概念が存在しない。

 元の世界では英語の学習にそこそこ苦しめられたツグの苦労もそうだが、教える側のフォズも眉間に皺を寄せては不慣れな語学教育に手詰まっている様子だった。


「まあでも、文法は日本語と同じだから気が楽ではあるな……」


 話し言葉がそうであるのだから当然ではあるが、主語→目的語→動詞といった塩梅で進むので、とっつきやすくはあるのだろう。文字も、見たことの無い形なだけで漢字ほどの複雑さは備えていない。


「…………何? これ」


 フォズがツグの手元の紙の一点を指差す。手慰みにツグがこの世界で耳にした言葉を、日本語で記した落書きスペースだ。


「僕の地元の文字だよ。これが『フォズ』で、これが『ヴァルク』で……」

「違う。それもそうだけど……このグチャグチャの模様、文字なの?」


 フォズが「正気か?」とでも言いたげに指差したのは、ツグのやや汚い筆跡で綴られた漢字達だ。


「これは漢字っていう……なんだろう、表意文字って言って伝わるかな。この文字自体が意味を持ってて、その集合でさらに意味を表現するというか……。例えばこれ、『死』っていう意味の文字と『神』っていう意味の文字が集まって、『死神』って読むんだけど、」

「…………何となくはわかった気がする。だからといってこんなに複雑なのはどうかと思うけど」

「仰るとおりです……」


 その文字自体が意味を持つ文字を、表意文字。

 その文字自体は意味を持たず、音だけを持つ文字を、表音文字。

 前者は漢字、後者はひらがなやアルファベットに該当するが、この世界の文字はその混合といった感じだ。『私』や『あなた』など、汎用性のある単語だけは単体の表意文字が存在し、その他は表音文字の集合で意味を表している、といった風な。


「……これは、どんな意味のカンジなの?」

「…………『結晶』か」


 フォズの指先が、『結晶』で止まる。


「『晶』の方は……何だっけな。正確なのがあった気がするけど……思い出せない。でも、これ単体でも『結晶』って意味が成立するような意味なんじゃ?」

「…………なんか適当じゃない?」

「ごめん……。で、『結』の方だけど――――」


 こっちは明確にイメージできると、ツグは意気揚々と口を開く。


「結ぶ、繋ぐ……終わりにする、そういう意味。多分『結晶』に関しては前者の意味が使われてると思うけど……『終わりにする』の意味も含めて、個人的には凄く綺麗な漢字だと思う」


 そんなツグの説明に、フォズが一瞬目を見開き、ほうっと息を漏らす。その刹那にどんな感慨を覚えたのかわからないが、次にフォズが発した言葉は、ツグの想像しないもので――、


「実は、イル様に文字以外のことも色々教えてやってくれって言われてるんだけど」

「そりゃ至れり尽くせりで助かるけど、良いのか?」

「元々私から引き受けたことだから。……でも、代わりに」

「ん?」

「あなたの故郷の話、たまに聞かせてくれると嬉しい」

「――――っ」


 そう言ってはにかむフォズに、僅かに心臓が脈打ったのは気のせいか。

 そんな曖昧な笑顔を前に、ツグは無言でただ頷いた。


******


 『ラバーズ・スローン』でのツグの一日は、ここ三日間は規則的に回っている。

 それなりの早起きをし、朝食を食べたら勉強の開始。ヴァルクとセージュ、イルミナギカは普段かなりの激務をこなしているらしく、代わりに暇を持て余しているフォズとミリアがツグに付いている形だ。合間合間で雑用を言いつけられながらもそのまま昼食を食べ、自習と運動を飽きる度に一人でサイクルを回す。夕方になればヴァルクとの鍛錬があり、夜は基本的に頼まれた雑用を請け負ったり自由時間を取っている、という感じだ。

 スケジュールに関して、先方から厳密に指定されているわけではないが、当然スマホやゲームは無いし、文字が満足に読めないツグでは読書も覚束ないしと、正直他にやることがないので、結果このような健全な生活になっていた。来る戦いに備えなくてはならないのもそうだが、単純に勉強や鍛錬がちょっと楽しい、というのもある。

 むしろ、【停滞】との戦いに対して、満足に手助けを出来ていないのが、ツグとしては心苦しくもあった。


「…………すまん、起きてるか?」


 と、そんな生活を三日続け、四日目の早朝。ツグの部屋の戸を叩いたのは、いつも勉強を教えに来るフォズではなく、暇だからと遊びに来たミリアでもなく、普段この時間に目にすることは稀なヴァルクだった。


「起きてる、けど……」

 

 眠い目を擦り、ツグが部屋の戸を開ける。今は何時なのかと、ベッドの脇に置かれた小さな時計を見ると、まだ朝の三時だ。


「突然で悪いが、出かける準備をしてくれ。防寒対策だけは忘れずにな。簡単な朝食なら用意してきたから、それを食べたら出るぞ」

「構わないけど、随分と急な話だな? 何が――」


 訝しげにするツグに、ヴァルクが何でも無いことのように要件を伝えた。


「ここ二日、消息を絶っていた【停滞】がようやく姿を現した。どういう魔法かはわからんが、また姿を消す前に被害状況の確認と……あわよくば、威力偵察くらいはしたい。戦は敵を知るところから、だ」


******


 肌寒さに身を震わせながら、ツグは羽織ったコートの前をぎゅっと閉じる。

 思えば、この屋敷から出るのは初めてだ。『ラバーズ・スローン』はこの屋敷以外に数個の村や集落を擁していると聞いたが、それも直に見たことはなかった。


「場所は地図で言うとこの辺りだ。とくに誰も欲しがらない、誰の領土でもない痩せた土地だから、ここなら派手にぶちかましても文句は言われないだろう」


 地図を指差しながら、ヴァルクがそう言う。

 ――――【停滞】との戦いにおける鍵は【死神】の心臓であると、イルミナギカから直々に言われたのを思い出す。

 何でも、魔法による氷のシールドや、正体不明の超硬化などで、まともな攻撃はほとんど通らないのだと。故に当たれば何でも切り裂く【死神】の心臓は重要であり、そうなのであればツグも敵を直に見ておくに越したことはないだろう。

 とはいえ――――、


「僕がヘマって死んだときの保険とかってある?」

「あるにはあるが、正直使いたくない。だから慎重に動け。今回は敵を知るのが目的だ。何せ新進気鋭の神獣。どんな隠し球を何個持っているか、知れたもんじゃない」


 とりあえず、ツグが死んだ際に暴走する未来を避ける算段はあるようだ。端から無駄死にする気はなかったが。


「……霜が張っている。近いな」


 感じる冷気の格が一つ上がったのを知覚すると同時に、ヴァルクから警鐘が飛ぶ。そのまま背中合わせになり、周囲を警戒しながら進んでいった。特に生物の気配は見受けられないが、張った霜と木々から垂れる氷柱はその数をどんどん増していき、ツグが借り物の革の手袋越しでも指の悴みに耐えかねた、その時だった。


「っ! 木陰に退け! こっちだ!」


 ヴァルクの檄が飛ぶ。それに対し、ツグは戸惑いを覚える失策を犯さず、言われるままに指差された木の幹の陰へと滑り込み――――、


「……………………これは、キツいな」


 次の瞬間、白く色づいた冷気の嵐が痩せた大地を舐め、細った木々をなぎ倒しながらツグ達へと迫るのが見えた。ツグ達の大木も、持ちこたえたのは数秒で、幹が凍結、粉砕されるのが聞こえる。白い靄が周囲に立ちこめ、それが肌を掠める度に針で刺すような冷感が襲った。

 直撃するギリギリでヴァルクがツグを抱え、跳躍。風魔法ウィーデの応用で数十メートルの高さに飛んだ二人は、ようやく少し離れた場所に位置するその威容を目の当たりにした。

 成程。確かにあれは『神に敵う獣』だ。あの存在感に比べれば、【悪魔】の眷属など大した障害ではなかったのだとすら思える。


 ――――全身に氷を纏ったクラゲのような怪物が、周辺一帯を一瞬で銀世界に変えた超出力を、宙を舞うヴァルクとツグへと、何でもないことのように間髪入れず放出した。


 

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