2-5 『平野の戒律』
「――――有意義な会合になったこと、感謝するわ」
「いや、礼には及ばない。むしろ感謝を伝えねばならぬのは此方の方だ。【停滞】との戦いに、我が『帝都』も微力ながら協力を約束しよう」
「元々、来たる【天災】征伐の対価も決めあぐねていたところだったし、これで同盟は成った、と見ていいのかしら?」
「無論だ。神に敵う獣を討つために、お互い最善を尽くすとしようじゃないか」
トボトボと重い足取りでイルミナギカの居た部屋へと向かうツグの耳に、会話が聞こえてきた。片方はイルミナギカだろうが、もう片方は聞いたことのない男の声だ。どこか威厳というか、気品を感じる口調からも、やんごとなき相手なのだろう事は察しが付くが。
「では、また今度。【停滞】との戦いが無事に終わることを祈っている」
「ええ、貴方も息災で。次に会う日までは生きておいてね?」
そんな親しげな会話の後、足音が二人分、こちらに迫ってくるのがわかった。別にやましいことなどないはずなのに、ツグは咄嗟に適当な一室の戸を開け、隠れてしまう。ドアには丁寧なことに、中からの小さな覗き穴があったため、それで廊下の様子を窺った。
「……………………む」
と、ふと。男の方がツグの隠れた部屋の前でぴたりと足を止めると、覗き穴を見つめ返すようにその顔を向けた。明るい茶髪で、片目にゴツゴツした大仰な眼帯を着けている。その眼帯の奥から、何か得体の知れない威圧感を感じて、ツグはそっと覗き穴から目を離し、ドアから距離を取った。
偶然かどうかはわからないが、ツグの視線が外れたと同時に彼はドアを見つめるのをやめ、そのまま歩くのを再開した。
本当にやましいことなどないのに、心臓がバクバクいうのが止まらない。彼に見つめ返された瞬間は、まさに蛇に睨まれたカエルのように萎縮して動けなくなってしまった。
気晴らしにたまたま入った部屋の内装を見回すが、フォズ達が居た部屋とほとんど同じ客室のようだった。ベッドが無いので広く感じるが、今はこの静かな広さも恐怖に一役買っている気がする。
しばらくそのまま待ち続け、そろそろ帰ったろうと、ツグがゆっくりとドアを開けると――、
「随分と愉快な真似もできるのね。かくれんぼは満足?」
「ははは……、いや、体が勝手に動いちゃって……」
完全にドアの前で待っていた様子のイルミナギカが嗜虐的な笑みを浮かべ、コソコソとしゃがみ込むツグを見下ろしそう言った。
******
「……………………」
「ん、何かしら?」
「……いや、普段はちゃんとした格好なんだな、と」
口ごもるツグに、イルミナギカが首を傾げる。
現在彼女は、最初にツグを迎え入れた時と異なり、黒を基調としたカジュアルなドレスに身を包んでいる。いかにも令嬢が旧知の来客を歓迎するに相応しい格好と言えよう。こうして着飾る姿を見ると、最初は幼さすら感じた彼女の容姿にも、大人びた魔性が宿っているのだと思わされた。いやまあ、最初の布一枚の姿が異常だっただけだが。
今二人がいる場所も、花とベッドだけの奇怪な部屋ではなく、柔らかいソファの置かれた応接室である。どこからともなく現れたセージュがそっと差し出したカップに口を付けるイルミナギカに習い、ツグも手元の紅茶らしき飲み物を啜る。
「さっきの彼は、ここから少し離れた『帝都アステリオ』の頭よ。互いに互いの障害に対して援助し合う同盟を取り付けたところ。私たちの障害は【停滞】ね」
「帝都……。ってことは皇帝ってことですか?」
「文字通りのソレじゃ無いけれど、信用できる相手ではあるわ。そもそもこの【
「ブリーズ?」
「ええ。【風の国】、ブリーズ。便宜的に『国』となっているけれど、実体は『ラバーズ・スローン』や『アステリオ』のような小規模の共同体が乱立する群雄割拠の土地。敷かれたルールも一つだけの、無秩序で無造作な自由の世界。『平野の戒律』について、聞いたことはある?」
イルミナギカの口から出た『平野の戒律』という言葉。ツグは当然初耳なので素直に首を振ると、イルミナギカはすまし顔で片目をつむり、応接室の壁に掛けられた額縁を指差す。何やら文字が長々と書かれているが――、
「あ、すいません。僕、文字読めないです」
「…………。予想はしていたけど、本当に異界から来たのかしらね」
目を細めたイルミナギカは、しかし静かに額縁の中身を読み上げる。
「――――殺すことを許す」
「え?」
「奪うことを許す。侵すことを許す。守ることを許す。足掻くことを許す。救うことを許す。生きることも死ぬことも、遍く心の機微をも許す」
物騒な書き出しから始まり、イルミナギカの口から『平野の戒律』が紡がれる。しかし、これのどこが『戒律』なのかというツグの疑問は、次の一言で解消された。
「
「…………なるほど」
つまり、行動に責任は持て、ということか。単純だが、随分と厳しい話だ。
「勿論それだけじゃ社会は成り立たないから、私含め、どこの領地も独自の法は定めているけどね。それでも他国よりはずっと自由だと自負しているけれど」
「まあイルミナギカさんがガチガチに規則で縛るイメージはあんまりないですね」
何故って、当の本人があまりにも我が道を行く生き方をしているから。
「まあこんなところで、本題――貴方達の、特にツグ、貴方の処遇について、話しましょうか?」
雰囲気を一変させ、イルミナギカがカップを傾けながらにこりと笑う。空になった紅茶を注ぐセージュの沈黙も、どこか空気の重量に拍車をかけていた。
「と、その前に一つ、興味本位で聞いてみるとするけど……貴方は、自分がこれからどんな立場で扱われていくと思う?」
「……………………まあ、少し自惚れるなら、唯一無二の武器を持つ戦力、って感じでこの領地に留まることになるんじゃないですかね、とは」
「ふうん。まあ妥当ね。概ね正か――――」
「しかも、僕が白兵戦で使い物にならないと知れれば最悪、人間爆弾としても使えそうですからね。再利用のできる。いや、むしろ危険は伴うけど結局敵を殲滅しちゃえば蘇生はするわけですし端からその方が僕の自我も介入しなくて使いやすいし痛くない死に方さえ担保してくれるなら心象的には僕はそれでも」
「…………ちょっと待ちなさい」
自分の誇れる唯一と言っていいアピールポイントを早口で話すツグを、イルミナギカが手で制す。顔がやや険しい。
「…………さっきので吹っ切れたと思っていたけど、
「え、何ですか」
「何でも。……貴方の処遇は、そうね。戦力という認識で合っているけれど……そうね、厳密に言えば『決戦兵器』とでも言いましょうか」
随分と大仰な呼称が着いてきて、ツグは疑わしげに眉を顰める。そんなツグの前で、イルミナギカが黒い手袋を嵌めた人差し指を立てる。
「一、貴方の身柄は、今後『ラバーズ・スローン』に置くものとする。悪いようにはしないし、さっき貴方が言っていた『人間爆弾』なんて使い方もしないわ。私の要望に報いれば褒賞も与えるし、ある程度の教育も付けてあげましょう」
「…………なかなかの好待遇ですね?」
特に教育の話は眉唾だった。この世界の仕組みや歴史はまだしも、文字が読めないのは生活する上で不便この上ない。
「二」
次いでイルミナギカが、中指を立てる。
「ただし、人前で【死神】の力を使うのは基本的にダメ。私やセージュ、ヴァルクの許可か、使わないと貴方含めて人命が脅かされるような時だけにしなさい。力について誰彼構わず教えるのも禁止ね」
「……まあ、危ないですしね。了解」
「それだけが理由じゃないけど……まあ後で話すから良いわ。最後に、三。これはさっき、貴方の話を聞いて付け足したことだけど……」
薬指を立てたイルミナギカが、これまでの真剣な表情と打って変わって意地の悪い笑みを浮かべた。嫌な予感を感じながらも、ツグはどんな形でも体は張ってやると、覚悟を決め――――、
「――――是非、みんなと仲良くできる人間でいなさい? 特にフォズちゃんとは」
「……………………はい?」
付け足された場違いなその言葉に、ツグは肩透かしを食らったように間抜けな声を漏らした。
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