6 『夜戦』

「…………さてぇ」


 ほとんど沈みきった夕日を見ながら、【悪魔】は傍らの赤獅子を撫でる。

 あの少年を捜索に出したのは、ただ単純に人手が足りなかったから、などという理由ではない。そもそも、【悪魔】が魔獣を総動員しても見つけられなかった時点で、こちらから干渉するのは不可能なカラクリがあることは気付いていた。

 故に、遠隔で『唾液』を起動させ、あの人情溢れる少女を釣り、彼女がどうやって隠れているのかを特定しようと画策したのだが——、


「仲間がいるだけじゃなく……【隠者】の権能、とはねぇ。あのジジィ、引きこもってるくせに働き者すぎるぜぇ」


 【隠者】本人がそこにいるわけではなかろうが、借り物とはいえあの力を使っている間は、【悪魔】の方から手出しは出来ない。

 それがわかっただけでも、やはりあの少年を出したのは正解だった。


「まぁ、あいつにはまだまだ働いてもらうけどぉ」


 あの弱い少年を思い、カエルに寄りかかりながら、【悪魔】はニタニタと笑う。

 既にこの森には多数の魔獣が犇めいている。無論、彼の手勢だ。ここは自由の国、【風の国ブリーズ】。どんな横やりが入るかわからない以上、彼としても長期戦は望まない。

 突然、怪鳥が小さく鳴き、首を動かす。その方向に【悪魔】も面を被った顔を向けると、怪鳥に少し遅れて、強大な魔力が練られているのを感じた。


「さぁてぇ、なるほどねぇ……この感じだとあの魔力は攻撃ってより『目印』かなぁ。流石にこれ以上敵が増えるのは好ましくないよぉ――んじゃ、殺しに行こうかぁ。我が朋友たち」


 【悪魔】のその宣言に呼応するように、静かだった森が沸き立つ。四方八方で数多の魔獣が牙を剥き、嘶き、爪を鳴らし、吠える。

 ―――同時に、森の一角で巨大な火球が炸裂し、夜の闇に溶けようとしていた世界を一様に照らした。



******



「…………よし」

 フォズの手元で揺蕩う赤い光が、確かな形を持つ。

「ミリア、あと十秒」

「よっしゃ!」

 肥大化していく赤い光球を制御しながら、フォズがミリアの名を呼んだ。同時に、ミリアが足下に手を翳す。フォズに貰ったコートを羽織ったツグもまた、両手に別々の魔道具を構え、その時を待った。

 永遠にも似た少しの緊張が過ぎ、そして、

「『解錠』!」

「――『ライ・フィーラ』」

 

 世界が弾ける。視界の全てが暗転し、しかしすぐに半壊した森の景色へと切り替わった。戻ってきた、と認識した瞬間に、今度はフォズの火球が天へと昇り、炸裂。

 夜闇を吹き飛ばしたその超常的な光景に、ツグは目を奪われた。が、


「やることは、やらないと!」


 飛来してきたコウモリのような魔獣に向けて、右手に持った魔道具を翳す。紙切れにしか見えないその魔道具は、しかし表面から暴風を吐き出して、本来なら闇に紛れるはずだったであろうコウモリの群れを地に叩きつけた。

 フォズの『合図』、ミリアの『解錠』。その一瞬の隙に受ける襲撃を防ぐのが、ツグの役割だ。選んだ魔道具は左右の手どちらも消耗品なため無駄遣いはできないが、ここだけは出し惜しみせずに守らなければならない場面。

 次いで飛びかかってきた猿のような魔獣を三体、風圧でどうにか押し返したところで、フォズの声が聞こえた。


「よし、ありがとう。……離脱する」

「あたしも動ける!」

「了解!」


 光が照らす森の中を、二人の少女と一人の少年が駆けていく。


「そりゃ、うりゃ、せいやっ!」

「『フィーラ』。……『リーズ』!」


 ミリアが手に持った杖から雷撃を乱射し、フォズが炎と氷塊を四方に放つ。ツグも手に持った魔道具を構え続けるが、二人が的確に魔獣に対処しているので、今のところは魔道具も温存したい。いやはや、他力本願で本当に情けない限りだが。


「!」


 このまま脱出できるか、と好調に進むツグの背筋に、ピリと嫌な感覚が走った。

 それは経験則か、極限状態で研ぎ澄まされた第六感の成せる技か。どちらにせよ、ツグはその嫌な予感に心当たりがあった。むしろそれに備えて、ああして火球を使って場を明るくしたといっても過言ではない。

 振り返り、予想通り何も居ない空間に僅かな歪みを見て、ツグは端的にこう叫んだ。


「来た!」


 左手に持つステッキで、地面を強く叩く。瞬間、地面が盛大に隆起し、落ちていた枝葉が宙に浮いた。――だが、宙を舞うのはそれだけではない。

 見えない何かが、浮いた土塊を踏みつけ、空中を二転三転、ツグの喉元へと飛び込んでくる。だが、見えない敵は、存在さえ認知していれば見かけほどの脅威ではない。

 右手の紙切れを、強く目の前に翳す。空気の密度が瞬間的に飛躍し、だがしかし、迫り来る透明な敵――赤獅子を押し返しきれない。


「なら、使い潰す!」


 翳した紙を、ぐしゃりと握る。指の隙間から緑の光が瞬き、強大な風圧が再び生じた。透明化が解除され、今度こそ数メートルほど後ろに飛んだ赤獅子は、少しバランスを崩したように着地し――、


「――――爆ぜて」


 赤獅子の着地点だけをじっと観察していた、フォズの声が小さく響く。少し遠くで、太陽のように長らく鎮座していた『合図』の巨大な火球が、一層強く煌めき―――隙を見せた赤獅子へと向かって、濃密な炎が放射された。



******



 この夜戦を迎えるに当たって、特に大きな障害として挙がったのは、透明になれる赤獅子の存在だった。

 フォズもミリアも、もちろんツグも、接近戦の心得はあまりない。不意打ちを食らってしまえば、瓦解どころか即座に全滅する可能性すらあった。

 故に――フォズの『合図』の日照的な性質を聞いたツグはこう提案した。


「道中の魔獣の処理と、透明なやつのトドメは二人にお願いしたい。ただ、トドメに至るための足止めは僕がどうにかする。あいつは透明なだけで、完全に見えないわけじゃない。存在を知ってて、場が明るければどうにか対処してみせる」


 ミリアから提示された、ツグでも使える魔道具――その全てが消耗品かつ殺傷力に欠けたものであったためだ。火力は足りず、さらに回数制限付きのツグであれば、何体湧いて出るかわからない有象無象の魔獣に専念するよりも、厄介な相手に狙いを絞った方が勝率も上がると踏んだ。

 問題は――、


「【悪魔】が同じタイプの魔獣を大量に連れてたらかなりお手上げなのと、もしその足止めで魔道具を吐ききったら僕は完全にお荷物になることだな……」

「後者はともかく、前者は心配しなくて大丈夫だと思う。それ、多分普通の魔獣じゃなくて【悪魔】が自分で生み出した魔獣だから」

「その心は?」

「透明化なんて高等な魔法、普通の魔獣じゃ使えない。私もミリアの道具に頼って魔力絞ってようやく使える魔法だし。一体とは限らないけど、歴史上の【悪魔】の心臓持ちの記録からしても、手作りの魔獣は居ても大した数じゃない」

「それは安心した。……まあどのみち、何体も居たら勝ち目なさそうだから考えるだけ無駄か」

「でも」

「ん?」


 丁寧に補足をくれていたフォズが、『合図』の魔法を編んでいる途中の両手に目をやり、申し訳なさそうに口を開いた。


「私は、この『合図』で魔力を結構持ってかれちゃうから、その魔獣を仕留めきれる強力な魔法までは難しいかも。でも、そんな厄介な魔獣は確実に仕留めておきたい―――だから」


 そして一瞬、いつもの落ち着いた表情とは少しギャップを感じさせる、悪戯っぽい笑みを浮かべたかと思えば、


「だからこれ、そのままぶつけてみようか?」


 赤色の光をこねくりまわしながら、笑顔でそんな事を言い出した。


******

 

 『合図』は煌々と炎を吐き出し、赤獅子の体を端から端まで焦がさんと這い回る。


「……やりすぎたかな」

「うん、まあ……確かにこうなることは考えてなかったな……」


 その業火は赤獅子だけでなく、倒れた木々をも包み込み始め、徐々に延焼していっている。フォズの談で、この森に人が住んでいる形跡は見当たらなかったそうだが、それでもこの光景には、『やっちまった』という感情をもたらした。

 そして、敵を倒した代償に、フォズの生み出した火球が、力を失ったように光を失う。世界を再び夜の闇が包み、炎に包まれて悶える赤獅子の姿がより鮮明に視界に映った。生々しい苦痛の咆哮に、フォズとミリアが思わず顔を僅かに顰める。

 しかしツグは、その獣の苦鳴を意に介さず、使いきった紙切れを捨て、ステッキを握り直した。


「……とりあえず、一番邪魔そうなやつは片付いたな」

「あはは……キミ、結構容赦ないね?」

「容赦ないのはフォズだろ……」

「……反省も祝杯も後で。今は、逃げるのが優先」

 

 顔を逸らして、フォズが早歩きで進み出す。

 おそらく今ので完全に、森の魔獣全てがツグたちの居場所に気が付いただろう。ツグにもこの、大地を隆起させるステッキしか残っていない。フォズの魔力もそろそろ底を付く。ここからは回避を優先して――、


「――おいおいおいぃ、どこへ行くんだぁぃぃぃぃぃいい?」

「……ああもう、まだ序盤なのに中ボスも大ボスも勢揃いかよ」


 声が聞こえたのは、前方でも頭上でもなく、背後。

 炎がのた打つ焦土の中から、動かない赤獅子の躯を引きずって、悪魔面――【悪魔】が顔を出す。身に纏う襤褸は煤にまみれているが、【悪魔】が炎によってダメージを受けた様子は見られない。指の先すら襤褸で隠しているため、断言はできないが、喋る姿は至って健常そうだ。むしろ――


赤獅子こいつをこんなにしてくれちゃってさぁ……君、弱くて何にも持ってないくせに度胸と判断は一丁前だねぇ。嫌な嫌な嫌な人種だなぁ!」


 隠しきれない苛立ちを乗せて、【悪魔】が喚く。警戒しながら後ずさるツグを指さして、手遊びをしながら言葉を続けた。


「最初は君、役割さえこなせばちゃぁんと約束通り報酬も出すつもりだったんだぜぇ? でもぉ、でもぉ、でもぉ……あれぇ?」


 ツグを面の奥から睨みながら言葉を並べていた【悪魔】が、突然口ごもった。


「……『唾液』が効かないぃ?」

「あの毒なら、あたしが治したよ、多分」

「……………………治したぁ?」


 【悪魔】が、今度はミリアに視線を移し、間の抜けた声を漏らす。その反応は打って変わって、単純な怒りよりも困惑の色が強いものだった。


「……治すとか、そういうもののはずじゃぁないはずなんだけどぉ、まぁ、実際効かないしぃ……。――もう君ら全員、殺して仕舞いにしようかぁ」


 そう凄んだ【悪魔】を前に、三人は何が来るかと身構える。彼のそばに魔獣の姿は見られないが、二体目の透明化がいないとも限らない。全方位に、間断のない警戒を張り巡らせ――、


「――――『ペンタ』。やれ」

「――――え」


 それは、緻密な警戒を嘲笑うような、圧倒的な暴力だった。きっと、今が夜でなければ、あるいは『合図』による日照がまだ続いていれば、ツグたちは気付けていたかもしれない。自分たちの頭上に、巨大な影が降ってきていることを。


 ――『ペンタ』と呼ばれた怪鳥が、かつては椅子のように変形させていた足を何十倍にも肥大化させて、純然たる質量の暴力となってツグたちの頭上に落下してきた。

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