第3話 蠢く世界
街全体を守る仄白い防御壁は解かれ、薄青い空が占める。明るい雰囲気の中、大通りを多くの荷馬車が行き交う。大規模な隊商がアーチ状の門を通り抜けてきた。
パティは薄手の木綿のシャツに茶色の外套を引っ掛け、ズボン姿となって石畳の道を軽快に走る。長い隊列を横目にして脇道に入り込んだ。突き当たりを右に折れた。瞬時に銀色の甲冑を身に付けた重戦士に目が留まる。
パティは足音を忍ばせて近づく。重戦士の真後ろに付けると身を小さくした。左手の建物の中へ揃って入る。
ギルドに立ち入るとパティは背後から抜け出した。屈強な冒険者で賑わう中央の柱を避けて右手の隅へと急ぐ。
一本の柱の前で足を止めた。依頼の紙が大量に貼り出されていた。主な内容は雑用で固有の能力を必要としない物がほとんどであった。
農夫のような軽装の人々が依頼の内容を読み込む。その中にパティは紛れた。端から順に目を通していると、横手から甲高い声が飛んできた。
「パティ先輩!」
呼ばれた本人は少しげんなりした顔で視線を送る。中央の柱の近くで帽子の尖端が左右に揺られ、人混みを掻き分けるようにして接近を試みる。
現れたのは小柄な少女、デボラ・アーデンであった。黒いとんがり帽子を目深に被り、同色のマントで全身をすっぽりと覆っている。口元に笑みを浮かべると小走りでやってきた。
「こんなところで何をしているのですか?」
デボラはパティの正面に立ち、少し顔を上げた。両目は帽子で隠れている。
「まあ、仕事探しかな」
「ここって何の能力も持たない人達が集まるところですよね」
耳にした数人が同時に鋭い目を向けてきた。パティも対象に含まれていたので慌てて取り繕う。
「そ、そんなことないよ。草むしりや荷運びだって、それなりの能力はいるし」
「何を目指しているのですか? 炎は料理に使える程度の火力で、風とは名ばかりのそよ風でも先輩は魔法使いの端くれなのですよ」
「そこまで酷くないよ!」
「冒険の依頼は向こうですよ」
きょとんとした様子で中央の柱を指差す。言い逃れが難しい状況にパティは諦めの表情でデボラの耳に口を寄せる。
「昨晩は森の遺跡に行っていたの」
「天の綻び絡みですか」
「まあ、そうね。魔力の補給用の瓶を使い切って、それで帰ってきたのが今朝方だから魔法が使えなくて」
デボラは納得したように頭を上下に動かした。帽子の鍔がパティの顔を何度も叩く。
「魔力は夜、体内に蓄積されるので安静にしないといけませんよ。大体ですね、箒で天の綻びに到達した人はいません」
「ちょっと、声が大きいよ」
パティは周囲の目を気にしながら囁き掛ける。その声を無視してデボラの口は滑らかに動く。
「先輩の飛行能力は戦闘に不向きですが、伝令役にはなれます。魔法使いの定義が怪しいですが。やはり私のように攻撃に特化した方が活躍できます。重力使いはどこのパーティーに参加しても重宝されますよ」
自慢を交えながら
「本気で天の綻びを目指していたなんて思いもしませんでした。今時の子供でも」
「声が大きいんだって!」
パティは叫んだ。デボラのとんがり帽子の尖端を掴んで引っこ抜くと中央の人混みの中に投げ込んだ。
デボラの口が止まった。半開きの状態となり、琥珀色の目を丸くする。
「……え?」
事態を把握していないような声が漏れた。両手は頭の上を探る。徐々に速さが増して黒髪を掻き毟った。
「な、ない、帽子が! 何しやがりますか、この赤頭!」
「帽子はあっちね」
パティは素っ気ない顔で中央の人混みを指差した。デボラは前髪を引っ張って目を隠す。
「す、磨り潰してやるです、赤頭!」
「早くいかないと帽子が踏み潰されるよ?」
「あ、赤頭、覚えてやがれ、ですよ!」
怒りで震えるデボラが人波に消えた。
瞬間、パティは柱と向き合う。最初から目星を付けていたのか。依頼の紙を素早く引き剥がし、奥の受付に急いだ。にこやかな女性が依頼の内容と本人を見比べる。
「この依頼で、本当によろしいのでしょうか」
「いいから押して、早く早く!」
「わかりました。それでは承認の印を押します」
透き通る円筒形の物を依頼の紙に押し付けた。ぼんやりと光るギルドの名を見てパティは満足そうに頷いた。
「ありがとう!」
一言で依頼の紙を握り締めて踵を返す。人の少ないところを縫うように走った。青い目がデボラの姿を捉えた。涙目の状態で折れ曲がった帽子を被り直していた。
無視してパティが走り抜ける。
「逃がしません!」
強い声を振り払って尚も走る。
建物から出た直後、背後から怒号のような声が重なって聞こえてきた。巻き添えを恐れた者達が団結してデボラを取り押さえているようだった。
「あとはお願いね」
パティは片目を閉じて大通りに飛び出していった。
時間が止まる。パティは前傾姿勢で固定された。往来の人々も同様に彫像と化した。
銀髪の少年は黒い魔法服に身を包み、アーチ状の門に背を預けた姿でパティを眺めていた。その近くの空間が歪み、白いローブ姿の女性が現出した。
「マスター、お時間をよろしいでしょうか」
「接触はできたのか?」
「遮断されていて無理でした。中心のコアが壊れているか。またはマスターが不在の可能性があります」
女性は目を伏せた状態で滑らかに伝える。
「あちらの世界の距離でどれくらい離れている?」
「西南の方向に五十二キロあります」
少年の赤い眼にはっきりとした苛立ちが浮かぶ。無音の世界に石畳を踏む音が響いた。
「……別のルートを当たれ」
「
引き返そうとする女性を手で止めた。
「ガンマ、お前をあちらの世界に連れていくと、どうなる?」
「間違いなく発狂します」
「お前でも?」
「受肉は世界との隔絶を意味します。作られた肉体に宿る自身を肯定できず、自我が保てません」
「エステルの時と同じ結果になると」
目を合わせた状態で、はい、と揺るぎない一言を返した。
「記憶の書き換えは面倒だな」
赤い眼は溌溂としたパティの横顔に向けられた。
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