第2話 師匠

 空全体が白み始める。森の彼方から怪鳥の鳴く声が聞こえてきた。

 街のアーチ状の門には依然として仄白い防御壁が張られていた。その手前、パティは締め出しを食らった子供のような格好で座っている。立てた両膝の上で腕を組み、最後に額を置いて浅い眠りの中にいた。傍らの箒は防御壁に立て掛けた。

 開門の時間が訪れて防御壁は消失。箒は一方に傾き、乾いた音を立てた。

 簡素な目覚ましでパティは瞬時に頭を上げた。寝ぼけ眼で周囲を見回す。倒れていた箒を見つけて納得の表情となった。

「急がないと」

 箒を拾い上げて走り出す。眠い目を擦り、生欠伸を噛み殺して家路を急いだ。早朝の時間帯が幸いした。誰にも見咎みとがめられることなく戻ってきた。

 パティは木製の扉の前に立った。把手に怖々と手を伸ばし、途中で引っ込めた。縋るような目を斜め上に向ける。窓は開けっ放しの状態になっていた。

 素早く箒に跨り、抑えた調子で呪文を唱える。靴底が僅かに浮いて瞬時に落ちた。

「回復してないかぁ」

 再び扉と向き合う。覚悟を決めた目で把手を掴み、引っ張ると何の抵抗もなく開いた。満面の笑みは瞬時に驚愕に取って代わられた。

 ふわふわとした栗色の髪を上半身に纏った人物が腕組みをした状態で立ちはだかる。寝間着ではなかった。ゆったりした水色のワンピースを着用。生来の糸目が絶え間ない笑みを湛えていた。

「お師匠様、お、おはようございます。朝の掃除が終わりました」

 パティは持っていた箒を見せ付ける。強張った笑みで掃き掃除の真似をした。

師匠と呼ばれた女性、エステル・ネイピアは僅かに顔を下げた。

「そのマントは掃除に役立ちますか」

「恥ずかしがり屋なもので、えへへ」

「肩に掛けたバッグにも意味はあるのかしら。もしかして住み込みの修業が辛くなって夜逃げでもするつもりでした?」

 エステルの両目が僅かに開く。覗いた黄金色の輝きは厳格な竜を思わせた。

「と、とんでもないです! 優しくて優秀なお師匠様の下で魔法を学べて、わたしは幸せ者です!」

「そうですか。家賃の支払いが近いので勘違いしました。今日も頑張ってお仕事に励んでくださいね」

「あのー、そのことですが……ギルドの仕事、お休みとかには」

「なりませんね」

 糸目に戻ったエステルは一言で切り捨てた。

「お仕事は修業の一環ですから。まずは朝食にしましょう」

 エステルは腕組みを解いてすっと前に出た。開いた扉を速やかに閉めようとする。慌てたパティは隙間に半身を捻じ込んだ。

「あ、あの、わたしも入れてください」

「パティには専用の出入口があるでしょう」

 斜め上の開いた窓を指差して微笑む。観念したパティは即座に頭を下げた。

「ごめんなさい! ウソをいていました」

「おかえりなさい」

 エステルは柔らかい笑みでパティを迎え入れた。

 本人は反省したかのようにしおらしい態度でホールを歩く。手前の扉が半分程、開いていた。それとなく視線を上げる。丸いテーブルの上には各種の皿が載せられていた。

 急に足が速くなる。エステルの目が離れた瞬間、階段を駆け上がり、自室に箒を投げ込んだ。階下に向かおうとして靴底を鳴らし、横手の洗面所で手を洗った。

 濡れた両手を振りながら階下に戻り、香しい匂いのする部屋に飛び込んでいった。

 二人は丸いテーブルに向かい合って座る。中央のバスケットには焼き立てのパンが黄金色こがねいろの山を作る。各々の前には木目の美しい平皿が置かれ、燻製された肉に三種類の野草が添えられていた。

「それではいただきます」

 エステルは焼き立てのパンに手を伸ばす。パティは掠め取るように三個を鷲掴みにした。自身の小皿に素早く二個を確保。手にした一個は直に齧り付く。

「あらあら」

 エステルは微笑み、一個のパンを手に取った。小皿に置いて野草に目を向ける。

パティは二個目のパンを掴んだ。指で一部を引き千切り、緑色のスープに浸して口の中に放り込む。何回か繰り返したあと、野草で肉を挟み、手掴みで食べた。

「そろそろ事情を訊かせて貰ってもいいかしら」

 スープを飲み終えたエステルが視線を上げた。パティは木製のフォークに突き刺した腸詰の肉を豪快に口に収める。一口の影響で頬の一部が出っ張った。貪欲な胃袋は満足せず、最後のパンを口の中に押し込んだ。

 笑顔で口を動かす。幸せな一時に突如として熱風が吹き付けた。

「深夜の徘徊はいかいについて訊いているのですが」

 エステルの立てた指先には拳大の禍々しい炎が渦を巻いている。

「パティさん、私の声は聞こえていますか」

 立てた指を僅かに倒した。渦巻く丸い炎が燃え移ったかのようにパティの赤い髪を熱風が激しく揺らす。脅威に晒された本人は横手のコップを掴み、ミルクと一緒に口の中の物を飲み下した。

「お、お待たせしました!」

「理解が早くて助かります」

 指先の炎は急速に縮まり、何事もなかったかのようにパティに手を差し向けて話を促す。

「えっと、ですね。わたしが昨日の晩に」

「昨日だけですか」

 優しい声音で鋭い指摘が入る。パティは強張った笑みで鼻先を掻いた。

「夜毎、通っていたのは森の遺跡でして」

 パティは言葉を区切り、エステルの様子を窺う。微笑みの状態は変わらない。

「そこで箒に跨って……天の綻びを目指していました」

「天の綻びですか」

 エステルは姿勢を正した。軽く顎先に指を当てる。頭の中で思考を巡らしているかのように軽く口を引き結ぶ。

「とにかく興味があって。でも、そこは真っ暗な夜が広がっていて……わたしが想像していたのと違いました……」

「天の綻びに到達したのですか?」

「ええっと、ですね」

 途端に目が泳ぐ。焦りが染み出す顔で大きな身振りを見せた。

「もう、凄く高くて。でも、頑張りました!」

「……私は天の綻びを目指したことはありませんが、およその高さくらいはわかります」

 エステルはテーブルに両肘を突いて指を組み合わせた。その上に顎先をそっと乗せる。

 無言の威圧を受けながらもパティは懸命に口を動かす。

「そ、その、未熟者のわたしには、もちろん、とんでもない困難が待ち受けていまして。用意した瓶を、グイッといって、その、魔力を補給しながら飛びました……」

 エステルは口出しすることなく同じ姿勢で話を聞いている。穏やかな表情に険は見られない。パティは緊張した面持ちで軽く息を吐いた。

「……わたしの力では到達が無理なので、神様の力を借りました」

「神様、ですか」

「はい、神様です」

 パティは揺らぎのない声で言った。

 エステルの目が僅かに開く。ほんの一瞬で微笑みに変わった。落ち着いた様子で組み合わせていた指を解いた。

「それでは食器を片づけましょう」

「え、神様の話を信じるんですか!?」

「作り話なのですか」

「ち、違いますよ」

「それでしたら問題はないですよね」

 エステルは空になった食器を重ねた。

「まあ、そうですね」

 不満が残る口振りで立ち上がる。エステルに倣って自身の食器を運んだ。

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