世界を壊す

黒羽カラス

第1話 疑問と神様

 窓のカーテンは開けられていた。柔らかい月光が部屋を仄かに照らす。ベッドでは赤毛の少女、パティ・ホーンが仰向けの姿で目を閉じていた。寝息は全く聞こえて来ない。

 何の前触れもなく、瞼を開けた。上体を起こすと掛けていた毛布がずり落ちる。寝間着ではなかった。黒い薄手のシャツに同色のベストを合わせていた。

 パティは素早い動作で床に下り、くるりと回ってベッド下に手を突っ込んだ。ゆったりとした布地のショルダーバッグとグレーのマントを引っ張り出す。バッグは肩に斜め掛けにして、その場でマントを羽織った。

 青い瞳は周囲の気配を探る。穿いていたチェック柄のスカートが微かに揺れた。

 にんまり笑うと黒光りする革のシューズを履いて速やかに窓辺に立った。窓の左右に手を当てて中央を押し開く。

 最初に顔だけを外に出した。石畳の道は静けさの中にあった。巡回する者の姿は見えない。

 パティは窓枠に足を掛けた。一気に身体を引き上げて薄暗い底に向かって垂直に落ちていく。肩に触れる程度の赤い髪は炎のように逆立ち、マントが大きく翻る。

 石畳に激突する寸前、短い呪文を発した。落下の速度が急激に弱まり、狭い通路に一陣の風が吹き抜ける。

 無事に降り立ったパティは即座に一方へと走り出す。石造りの家々の連なりが独特なうねりを生んだ。左右に身体を揺さぶられるようにして進んでいくと開けた場所が見えてきた。円形の中心部には噴水が設置されていた。水音が足音を消すので遠慮なく走り抜けた。

 前方に巨大なアーチ状の扉が現れた。街全体を包む仄白い防御壁と同じ色をしていた。その手前にある大通りには少し慎重になった。人影がいないことを十二分に確認して鋭い飛び出しを見せる。

 走る速度を緩めずに呪文を呟き、アーチ状の扉に突っ込んで見事に激突した。ゴウンと鈍い音がして頭が後方に弾かれる。

「あだだだ」

 その場にしゃがみ込むと額を必死になって擦った。痛みが引いたところでゆっくりと後ろを振り返る。誰もいないことに安堵の息が漏れた。

「それにしても……」

 悲し気な表情で両手を開いた。どの指にも指輪が嵌められていなかった。肩に掛けていたバッグを石畳に置いて中を漁る。目にした瞬間、仰け反るような格好で大きく口を開けて無言の歓喜に身を震わせた。

 見つけた指輪を右手の人差し指に嵌める。呪文を口にすると金色の台座に収まった小粒の石に瑠璃色の光が灯った。

 パティは立ち上がるとアーチ状の門に突っ込んだ。何の抵抗もなく、外へと出られた。役目を終えた指輪はひっそりと眠りに就いた。

 一度、夜空を見上げる。青い双眸そうぼうに決意を滲ませた。

「慎重に、ね」

 備え付けのフードを頭に被せた。くぐもった声で詠唱を始めるとマントが白く発光して全身が揺らめき、霧散するように掻き消えた。

 魔法都市ロッティンガルから伸びた石畳の道は三方に分かれている。左は平原を抜けて山脈へと至る。中央は交易路となっていた。

 走る足音は右の森を目指す。生い茂る木々で形成された穴へ迷いなく突っ込んだ。程良く開いた枝葉の隙間から淡い明かりが入り込み、石畳はぼんやりと光って見える。

 石畳の終点が見えてきた。丸い円形の場所を取り囲むように太い石柱が立っていた。数本は半ばから折れていて古い時代を思わせる。

 パティは駆け込むと姿を現した。被っていたフードを後ろに追いやり、赤い髪を靡かせて尚も走る。溌剌とした表情で一本の石柱に回り込み、立て掛けてあったほうきを手にした。

 パティは文様が描かれた中心に立った。肩に掛けたバッグに手を突っ込み、青い瓶を取り出す。片手で栓を開けて一気に飲み干した。空瓶は色を失い、砂塵となって消え去った。

 パティは箒に跨ると密やかに呪文を口にする。

「そんな瓶で魔力を補充しても意味はないよ」

 声の近さに驚いて振り返る。

 銀髪の小柄な人物は友人に挨拶するかのように軽く手を挙げた。黒い魔法服の袖が下がり、細くて白い手首が露わになった。

「……あなたは誰ですか」

 パティは箒に跨った状態で後ずさる。色白に反し、両眼は血で洗ったように赤く濡れていた。

「君みたいに怪しい者ではないよ」

「わ、わたしは全然、怪しくないです! ちょっと夜中に、その、遺跡を掃除したくなっただけですから!」

「箒に跨った姿で掃除をするなんて興味深いね」

 銀髪の人物は近くの石柱に背中を預けた。腕を組んだ姿で微笑む。

「好きなだけ掃除をすればいいよ」

「え、この姿で?」

 パティは腰が引けた。目を合わせられない状態で狼狽える。

「もしかして本物の不審者なのかな」

「ち、違いますよ! 見られていると緊張するので……だ、だから人気のない夜中にするんです! こんな風に!」

 パティは箒を股に挟んだ状態で掃除を始めた。夜中に泣き笑いの顔で懸命に尻を振る。捲れそうになるスカートを片手で押さえながら痴態を演じた。

 銀髪の人物は組んでいた腕を解いた。

「冗談が過ぎたようだ。もういいよ。悪かったね」

「酷いですよぉ。もう少し早く止めてくださいよぉ」

 箒を股に挟んだ姿で不満を零す。青い目が少し潤んでいた。

 銀髪の人物は楽しそうに笑うと人差し指を立てた。

「君は本気で天を目指しているのだね」

「もちろん。明るい時は無いのに暗くなると見えてくる。あの、天の綻びはなんだろうって」

「君が想像している答えを訊いてもいいかな」

 恋人の耳元で囁くような声を出した。赤い目は貴石きせきのような輝きを帯びる。

 もじもじしながらパティは重い口を開いた。

「……あの綻びは他の世界の一部が見えている状態のような。わからないんですけど、おかしいですか?」

「そんなことはない。切っ掛けになった出来事でもあったのかな」

「そうなんです! コップからミルクを溢れさせた時に、頭の中にピコーンって音が鳴り響きました!」

「面白い頭だね」

「そうですよね! あれ、ちょっと待ってくださいよ。面白い頭は褒め言葉じゃないような……」

 パティの渋い表情を笑顔で押し切る。

「話の続きを聞かせて欲しいな」

「いいですけど。コップをわたし達のいる世界とします。勢いよく注いだミルクが上昇して、限界を超えて溢れ出しました。零れたミルクはどこにいったと思います?」

 問い掛けたあと、凛々しい目となって夜空を見上げる。

「わたしたちの世界がコップの中なら、天の綻びは溢れた別の世界ってなりませんか?」

「そういう考え方もできるかもしれないね。でも、はずれだよ」

「はい?」

 パティは怒ったような目で小首を傾げる。相手は涼しげな顔で受け止めた。

「あー、そういうことですか。なるほど、あなたの意図がわかりましたよ。街の人に頼まれましたね。夜中にこっそりと街を抜け出すのですから。まあ、多少の危険はありますよ。引き止める気持ちはわかりますが、いつかはあの頂きに」

「無理だよ。魔力を奪う層が空を覆っているからね」

「またまたー、その手には乗りませんよ。文献にそのような記述はどこにもありません。そろそろ正体を明かしてもいいんじゃないですか?」

「僕は街とは関係ない。ただの通りすがりの神様だよ」

 銀髪の人物はにこやかに神様を名乗った。

 パティは後方に跳んだ。着地と同時に突き出した掌を相手に向ける。

「あなたは狂信者ですか! おかしなことをしたら火炙ひあぶりにしますからね!」

「僕は正直に名乗っただけだよ。君が望むなら天の綻びに連れていってあげるけど、どうする?」

「そ、そんな、急に話を振られても。でも、出来るのなら……行ってみたいかなー、なんて、ん!?」

 パティは自分の右の足首に目を落とす。いつの間にか光の輪が嵌っていた。一部が鎖状に伸びて銀髪の自称神様の右手に握られていた。

「箒とバッグを落とさないようにしてね」

「え、この状態でえええ!」

 神様は呪文を唱えずに飛んだ。瞬く間にパティは逆さまに吊し上げられた。

 大気を穿つ音が耳をつんざく。質量を伴った暴風に全身を好き勝手に殴られた。スカートは風圧に抗えず、無様に下着を曝け出した。手で押さえる余裕もない。箒を抱き締めることに全精力を注いだ。

 神様は停止した。光の鎖は強固な姿勢を貫き、決して撓むことはなかった。

「着いたよ」

 視線を落として語り掛ける。パティの反応は微弱で唸るような声を漏らした。

「イチゴだね」

「わあああ!」

 神様の一言で瞬時に覚醒した。片手で懸命にスカートを押さえ付ける。

「箒に跨って飛んでみたら」

「そ、そうでした!」

 逆さまの状態でパティは呪文を口にした。直後に泣き声に変わる。

「魔力がなくて無理ですぅ」

「理由はわかるよね」

「そ、それは、もう。魔力を奪う層のせいですよね! 神様の言葉を疑ったわたしが大馬鹿者でした!」

 神様の口角が上がり、満足そうな表情となった。

「よくできました」

 二人を繋ぐ鎖の光が強さを増す。パティの全身を包み込み、ゆっくりと身体が回転して立位の状態で安定した。

「ここは、どこ?」

 パティは改めて現状と向き合う。

 無限の黒に塗り潰された空間が広がる。その中に歪な形の光が点々と浮かぶ。無意味な数字や記号が発光して漂っているようだった。

「ここが天の綻びだよ。見た通り、何もないところだよ」

「天の綻び……」

 パティは項垂れた。遙か下に青み掛かった球体が見える。

「あれは?」

「君達の世界だよ。そろそろ戻ろうか」

 一回の瞬きで眼下に遺跡が迫る。二人はふわりと足先から着地した。

 パティは鎖から解放された。前に倒れそうになる身体を箒で支える。柄を持った手に力が入らず、ズルズルと滑ってへたり込んでしまった。

 パティは夜空を見上げた。苦々しい表情で愚痴を零す。

「……夢が……わたしの希望が、粉々じゃないですか……」

「君が望んだからね」

「なんてね、って付け足そうとしたのに」

「そうなんだ。悪かったね」

 神様は朗らかな顔で返す。パティの唇が不自然に尖った。

「その顔、全然悪いと思ってないんですけど」

「元々の顔だから仕方がない。でも、君は面白いね」

「君じゃないですー。わたしはパティ・ホーンですー」

 間延びした語尾で反論した。乱れた髪に手櫛を入れて、全く、と苦笑いの一言で立ち上がった。

「今日は疲れました。飛んで帰ります」

 大きな溜息を吐いてバッグの中を漁る。急に手付きが荒くなった。

「……どうして? 魔力回復用の瓶が、ここに予備で、あれ、なんで?」

「魔力を奪う層に触れた時に消失したよ」

「待ってくださいよ! 全部ですか! あれって割と高いんですよ!」

「そうみたいだね」

 パティの激しい身振りが証明していた。

「僕も引き上げるよ。今後ともよろしくね。イチゴ柄のパティちゃん」

 神様は笑顔のまま忽然と消えた。

 残されたパティは涙目で全身を震わせる。その顔は苺のような色に染まっていた。

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