第3話

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「凛華さん、起きてください!」

 目覚まし時計はかけない主義であるが、やたらとうるさい声に起こされた。

 薄目で時計を見てみれば、針は九の位置にいる。外が明るい事を考えるに、今は午前九時だ。

「やめてくれ。私はこんな時間に起きれる生き物じゃあな……」

「いいから起きてください! 今日は池袋に荷台を返しに行くんでしょう? それから今日こそ行って貰いますよ!」

 やけにタタタの調子が高い。これ以上はどうしても寝れないらしいと観念し、寝惚け眼を擦る。

「行くって、どこへ」

 よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりの表情が彼女の顔に浮かぶ。ぱあっ、と笑顔になり、言った。

「もちろん、カフェにです!」

 片眼鏡についたチェーンが、勢いよく揺れた。


 私はまた強引に連れられ、池袋へと来ていた。荷台をがらがらと押しながらサンシャイン通りを進む。ファーストがその上に乗って遊んでいる。彼女にはこなくても良いと言ったが、カフェに行くなら俺も行くと言い出し、今に至る。全く、『いまじなり』は気楽なものだ。

「そういえば、ファーストさんと凛華さんはいつ知り合ったんですか?」タタタが私の隣を歩きながら聞く。

「俺とこいつか? まあ先月くらいだよな。あれは雷の激しい日だった……。俺が氾濫した多摩川で溺れそうになっているところを」

「助けてない」

「……六本木のシャレオツなバーで一晩を共に」

「過ごしてない」

 ファーストはすぐに適当な事を言う。私はため息をひとつ吐いてから、言う。

「……ただの偶然だ。帰り道にばったり出会ったんだ。そしたら着いてきてしまって、今に至る」

 タタタは「へえ」と言って、興味深そうに話を聞いていた。そうだ、ここは少し意地悪をしてやろう。

「今ではこうして私にちょっかいを出す余裕もできたらしいが、初めて会った時の事を覚えているか、ファースト?」

 するとみるみるうちにファーストの顔が曇っていく。何を言おうとしているのか、気がついたようだ。タタタは何があったのか気になっているらしく、興味ありげにこちらを見ていた。

「やめろ……」

「やめるものか。こいつは誰とも話せない心細さで泣いていたんだ。ファストフード店の隅っこでね。今でも鮮明に覚えているよ」

「うわああ! やめろ! もう良い!」

 ファーストが耳を塞ぐ。その仕草が少し可愛らしく見えてしまった。


 そうこうしている間に、ニトリへ着いた。大きな入り口の前でどうしようかと迷っていると、昨日の店員が現れて、荷台を回収してくれた。感謝を伝えて、私は言う。

「さて、帰ろうか」

 と、その瞬間に不満そうな顔をしたのはタタタだった。「ちょっと! カフェの約束を忘れたなんて言わせませんよ」

 私は答える。「もちろん忘れていないとも。ただ、そのカフェというのはうちの近くなんだ。まあ着いて来れば分かるだろう」そう言って、私はまた駅の方へと歩いていった。タタタは若干不服そうであったものの、渋々ついてくるようだ。


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 そうしてまた電車で揺られること約一時間。移動した時間の割に滞在した時間が短いと、少し損をした気分になる。が、今日はやらなければいけない事がある。手短に済ませたいが、どう転ぶかは運次第だ。

 駅に着くと、家への道をまっすぐ歩く。タタタは怪訝そうな顔で見ているが、私は構わず歩く。もう昼ではあるが、太陽の眩しさとは裏腹に寒さが目立つ。寒さ対策は十分にしているつもりであったが、これは認識を改めねばならない。もう少し厚着をしてくるべきだったと後悔する。

 それから歩く事数分。

「ここだ」

 私が指し示した先には、小さな個人経営のカフェがあった。


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 落ち着いた少し薄暗い店内に、木製のカウンター。統一された雰囲気は、個人経営ならではの温もりを感じさせてくれる。そんな中、

「いらっしゃいませ……って、朱霊さん! こんな早くに来るなんて。またデスマーチですか?」

 出迎えてくれたのはドアベルの心地いい音、控えめに流れるディキシージャズ、一瞬で蕩けてしまいそうな絶妙な温度のエアコン、仄かに香るコーヒー豆の匂い、そして少しうるさいウェイトレスだった。

「いや、今日は余裕のある納品だ。そちらも少し作業するが、実はひとり『いまじなり』が増えて、そいつがカフェに行きたいと言って聞かないんだ」

「なるほど。では今日は三名様ですね! お好きな席にどうぞ! どうせ誰も来ないんで!」

 そう言うと、彼女はカウンターに入る。「今日は何にします? あ、いまじなりちゃん達はメニューそこにあるからね!」

 タタタが耳打ちしてくる。「あの店員さんは私達が見えているんですか?」

「いや、見えていない。ただ、ファーストの事情を話したら信じてくれた唯一の人だ。ここでは物を動かしても大丈夫だ」

「まあ勝手に動くフォークと消える食べ物をみたら信じざるを得ないといいますか……。でも見えないし聞こえないので、ご注文は凛華さん伝でお願いしますね! 筆談でも良いですよ」

 それを聞くや否や、ふたりはメニューを開く。写真が載っているタイプのメニューなので、実物を見た事のないタタタでも「これは美味しそう」「これも……」などと言いながら迷っている。ファーストは殆ど迷わずにショートケーキを選んだ。

「ファーストさん、それは美味しいんですか?」

「ああ、この中で一番美味しい。だってメニューの一番上にあるんだからな」

 自信満々にファーストが言う。ランキング表じゃああるまいし、そんな訳はないだろう。確かにスタンダードなのだろうけれど……。と思うが、口には出さずにおく。

「凛華さんはどれにします?」タタタが聞いてくる。

「私はモンブランにしよう」

「朱霊さんいつもそれですねー」とウェイトレス。うるさい、私はこれが好きなんだ。

 タタタは迷った挙句、ファーストと同じショートケーキにした。初めてなら良い選択とも言えるだろう。

「ウェイトレスさん、ブレンド三つと、モンブラン一つ、ショートケーキ二つを」

「かしこまりましたー! 少々お待ちくださいね」

 そう言い残して、ウェイトレスは厨房へ戻る。このカフェは個人経営だが、実際働いているのもひとりである。そのため、彼女がウェイトレスと料理を兼任している。それでも回ってしまう程には客が来ないという事でもあるが、かえって私達には好都合だった。現にこうして『いまじなり』達を連れてカフェに来れているのだから、それなりに気に入っている穴場なのだ。

 楽しみのあまり少し落ち着かない様子のタタタを眺めて数分、ウェイトレスがトレーを持って来る。上には綺麗なカップに入った香ばしいコーヒーと、見た目から直に食欲を訴えるようなケーキが載っていた。

 タタタは堪らない、といった様子で目を輝かせた。食べている姿を目にした事はあれど、自分が口にしたことはなかったのだから、嬉しいだろうというのは想像に難くなかった。

「凛華さん! これ! 食べても良いんですか! 私が!」

 興奮冷めやらぬ状態で聞いてくる。私が「もちろん」と答えると、フォークを片手に食べ始める。一口食べると、今までにないくらいの笑顔でその幸せを教えてくれた。

「どうです、気に入ってくれてます? 新しいいまじなりちゃん」

 ウェイトレスがカウンターからひょっこりと顔を出し聞いてくる。

「満足そうな顔をして食べているよ」と答えると、小さくガッツポーズをして厨房へ戻っていった。

 この顔を見せたら、あのウェイトレスは飛んで喜ぶだろうに、見せられないのがどうしても惜しく感じてしまう。

「私もいただこう」

 モンブランをフォークで小さく切り取り、口に運ぶ。上品な甘味と溶けるような食感のそれは、まさに幸福を体現していた。食べる幸せ。それがこのカフェのケーキだ。

 タタタを見ると、変わらず美味しそうに食べていた。「タタタ」と声をかけてみる。

 彼女はごくり、と口の中の物を飲み込んでから答える。「はい、なんでしょう」

「そのコーヒーと一緒に食べてみると良い。苦味と一緒になるとさらに美味しくなるんだ」

 タタタは怪訝そうにコーヒーを眺める。一度「凛華スペシャルブレンド」が口に合わなかったから警戒しているのだろう。それでも恐る恐る口をつける。

 警戒の顔が解けるまで、そう時間はかからなかった。

「お、おおおおおお!」

 タタタが驚きと幸福の交じった表情を見せる。「これは……罪深いです」

 その後完食までそう時間はかからなかった。あとはコーヒーを飲みながら少し話して帰ろう。

「どうです、いまじなりちゃん。喜んでもらえました?」

 ウェイトレスがハンカチで手を拭きながらやってくる。洗い物をしていたのだろう。

「ああ、とても美味しかったと。この幸せそうな顔を見せられないのが悔やまれるよ」

「見たいなあ! いまじなりちゃん! 喜んでもらえて何よりです!」

「今日はありがとう。美味しかったよ」

「あの、大丈夫です? さっき納品するって言ってたような……」

「あっ……」忘れていた。今日は「それ」があるのだった。

「皆、少しだけ待っていてほしい。数十分で済む」それだけ残して、背中の服の中からノートパソコンとヘッドホンを取り出す。

「えっ、今どこから出しました⁉︎」とタタタが驚いているが、それは置いておいて。パソコンを開いてDAW(作曲ソフト)を起動する。

「今から少しだけ作業をする」

 それだけ言うと、私は作業を始めた。今回の納品は編曲だ。一度音を置いたら、次々に音が展開されていく快感は、何にも変え難いものだ。すぐに集中する事ができた。


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「ふう……。納品完了、と」

 私がmp3データをアップローダ経由で納品したのは、作業開始から二十分程度の事だった。ある程度事前に作業しておいたおかげで、そこまで時間もかからずに納品できた。

 ふと後ろから視線を感じ見てみると、タタタが目を輝かせていた。

「凄い! 何してるかもわからなかったですが、早くて、なんかこう……すごかったです!」

 興奮した様子で私に言う。普段、というよりファーストがうちに来るまではひとりで作業ばかりしていたから、こうして褒められると……少し照れる。

 私は少し俯いて「ありがとう」とだけ返し、何も開かれていないパソコンのデスクトップへ視線を戻す。クライアントが早速確認してくれたようで、通知がひとつポップアップしていた。早速確認してみると……。

「ここのクライアントはいつも仕事が早いな。もう支払いが来た」

「あの……見ても良いですか」おずおずとタタタが聞いてくる。別段隠すようなものでもないので、支払いの額が映った画面を開いて見せる。

「いちじゅうひゃく……って、ええ! こ、こんなに……」

 それは私達が半月余裕を持って暮らせる程度の額だったが、彼女は驚きを隠せないらしい。何度も目を左右させては桁を数えている。

「まあ、今回は短納期の依頼だったから。納期が短ければ短い程、クライアントの金払いも良くなるんだ」と私は言う。実際、相場よりも大分上乗せされた金額を送ってくれている。ここの金払いはとても良いから、私のお得意様と言っても良いだろう。

「さて、そろそろ帰ろうか……と、ファーストはどうした」

「ああ、ファーストさんなら……」と、タタタが指差した先には、カウンターの上に横たわって寝るファーストがいた。

「あの馬鹿……」私は思わずこめかみを押さえた。

 ノートパソコンとヘッドホンを背中に仕舞い、ファーストを雑に叩き起こす。「終わったからそろそろ帰るぞ」

「あ……ああ、終わったか。帰るか……」と伸びながら起き上がるファースト。無造作に延びた髪がだらりと垂れる。

「あ、お帰りですか?」

 また厨房からウェイトレスがひょっこりと顔を出す。私が頷くと、出入り口の前にあるレジを打って金額を出してくる。カフェにしては良心的な価格で、本当にこれでやっていけるのかと疑問に思うくらいだ。だから、私は金銭に余裕がある時は多めに渡すようにしている。これからも営業して欲しい、と思っているからだ。

「釣りはいらない」と言って一万円札を渡し、ウェイトレスの顔も見ずに店を出る。

「毎度ありがとうございますー!」というカフェらしからぬ声を背中に受けながら、ドアを閉める。納品した後の気分は晴れやかなもので、つい一服したくなる。

「ファースト」

「何だよ」

「煙草を持っているだろうか」

 そう聞くと、ファーストはしばらくポケットをまさぐった後、「ほらよ」とハイライトとジッポを無造作に手向ける。寝転がってばかりいるからか、煙草は少しだけ折れ曲がっていた。

 田舎か都会か、どちらかと言えば田舎。そんな住宅街にぽつりと建つ小さなカフェ。少しずつ寒くなってきて、息と煙草の煙の見分けがつかなくなる季節。上を見上げれば赤い街路樹も少しずつその葉を落として冬の準備をしている。少し折れたハイライトを口に咥え、白いジッポで火を灯す。肺を暖かい空気で満たしては吐き出すのを繰り返す。そんな日常がいつまでも続けばいいのに、なんてセンチメンタルに浸る余裕すらある。

「どうだった、初めてのカフェは」と煙草片手に聞いてみる。

「最高でした! また来週も連れてきてくれるんですよね! 楽しみにしています!」と青髪の片眼鏡が楽しそうに揺れる。それを見て笑顔になる角の生えただらしない格好の女。

 こんな日も、たまには悪くないのかもしれないな。と思った。早起きは三文の徳というが、あながち間違いでもないらしい。


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 家に戻ったのは三時を少し過ぎたくらいの事だった。まだ時間に余裕があるが、何をしよう。と考えていると、タタタがこちらをじいっと見つめていた。

「何か忘れていませんか」

 そう聞かれたが、思い当たる節はない。カフェに行く約束は果たして荷台は返したのだから、もうやる事はないはずだ。ついでに納品も終わったのだから、今日はずっと酒でも飲みながらごろごろしたいものだ。

「特に心当たりはない」

 そう答えると、タタタはいよいよ我慢ならないといった様子で、私の手を引いてキッチンへ連れる。

「タタタ、どうした……って、ああ」

 キッチンで目にしたのは、昨日買った家具などが入った、おびただしい数の段ボールであった。まさか、とは思ったが、タタタはどうやら本気らしい。

「凛華さん、今日はこれを全部箱出ししましょう」

 笑顔でそう言った。

「でも明日でも荷物は逃げない……」

「凛華さん?」

 タタタは笑顔だった。が、その目は笑っておらず、身の危険すら感じる程の気迫だった。

「箱出し、しましょうね?」

「はい……」

 私はそう言うしかなかった。

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