第2話

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 私こと凛華が目を覚ましたのは、昼も過ぎようとしていた頃だった。綺麗な窓からは真っ赤な夕日が差し込み……。と、そこで気づいた。はて、私の部屋の窓はこんなに綺麗だったろうかと。引っ越して来て以来掃除なんてしていないものだから、煙草の煤や埃で曇って見えていた筈だ。それが今や輝いてすら見える。

 どういう事だと思いつつ、背伸びをしながらゴミだらけの床に足を……ない。ゴミが。今まで全く見えずに忘れていた床の模様が、くっきりと見て取れる。そうか、私はこんな床の部屋に住んでいたのか。

 ゴミを避けながら歩く癖がついていたから、綺麗な地面というものはどうしても落ち着かない。まるで他人の家に来たようだ。ぺたぺたと何もない床を歩き玄関口に行ってみると、この状況の首謀者と共謀者に出会した。

「あっ、おはようございます。もう五時ですよ。どれだけ寝るんですか」

 そう言ってこちらを向いたのは。水色の髪をした熊耳の、片眼鏡をかけた少女。彼女の名前はタタタ。『いまじなり』であり、おそらく育ちが良い。今回の大掃除も彼女が昨日言い出した事である。彼女が朝から片付けていたであろうゴミの山は、全て袋の中に収まり玄関先に溜まっていた。

「気にすんな、そいつはロングスリーパーなんだよ」

 そういったのはタタタと一緒に片付けをしていたファーストだ。頭の両側に角が生えている事以外は、酒好き煙草好きの退廃的な女である。今もまさに、ゴミ袋を片手に煙草を吸っているところだった。

「ろんぐ……すりーぱー?」とタタタが首を傾げる。

「ああ、凛華みたいに滅茶苦茶長く寝る奴の事をそういうんだよ」

「へえ……」

 そう話しているふたりの姿は、少しずつ仲良くなっているようにみえた。タタタも昨日より気兼ねなく話せているようだし、ファーストもおなじ『いまじなり』仲間ができて嬉しいようだった。

「まさかこんなに綺麗になるとは、驚いた」私は思わず漏らす。「引っ越して以来だよ。こんなに綺麗な我が家を見るのは」

「私も初めてでしたよ。こんなに汚い部屋を見るのは」とタタタ。

 すっかり綺麗になった部屋を見て嬉しくなっていると、ふたりがなにやらひそひそと話しているのが聞こえた。

「おい、タタタ。あれしないと」

「ああ、そうでした……。あの、凛華さん」

 タタタがこちらを向いて神妙な顔をしている。

「何だろう」

ひと息つくと、彼女はこう言った。「買い出しに、いきましょう」


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 私は、タタタを少し内気な奴であると思っていた。が、その認識は間違っていた。あれよあれよという間に手を引かれ、強引に外へと出された。曰く、壊れたカップや灰皿、家具などを捨てた為買い直しに行くのだそうだ。「そんな金はない」と言いもしたが、掃除中に見つけたのだろう私の通帳を見せつけられ、言い逃れができなくなってしまった。あれは煙草と焼肉用の貯蓄だったのに、暫くは倹約を強いられそうだ。

 そんな訳で、私達三人(一人と二いまじなり)はホームセンターを目指して電車に揺られていた。変に都会から外れた場所に住んでいるせいで、家具のある店となるとそこそこの遠出をしなくてはならなかった。こんな時に車があれば便利なのだろうが、免許も車も持っていなかった。

「そういえば、私達って他の人には見えないんですよね」

 電車の吊り革に捕まりながらタタタが言う。電車はそこまで混んでおらず席にも座れたが、彼女は「揺れを堪能したい」と言い座らずにいた。私は疲れるので座った。ファーストも同様に私の隣へと腰を下ろしていた。

「もちろん。イマジナリーフレンドなのだから当然だろう」

「じゃあ、こんな人前で私達と話していて大丈夫ですか? その……独り言を言う変人みたいに思われません?」心なしか小声になっている。

「そんなの、今更さ。私はそういう扱いに慣れている」

「それってどういう……」

「ほら、もう着いたぞ」私は席を立つ。続いてファーストも。

 池袋駅。取り敢えず困ったならここに来れば良い。そういう安心感が、遠いというデメリットを補って私をここに運んだ。タタタの求めているものがなくて何店舗も連れ回されたのでは、たまったものではない。

「さて、買い出しを始めよう」


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 最初に向かったのはサンシャイン通り。東口を出て真っ直ぐ歩いていると、様々な店で賑わってくる。メイド喫茶の客引きやお笑いライブの宣伝、献血の看板を持った人などでごった返していた。私達はそれを全てスルーしながら、通りの一番奥にあるニトリをめざした。家具といえば一通りここで揃うだろう。

「さて、まず何を買うべきか教えてくれないか」

 私がそう聞くと、タタタはポケットから紙切れを出した。どうやら買うものをリスト化していたらしい。私なんてここ数年自分の名前すら書いていないというのに、人間よりも人間的な生活ができている『いまじなり』に少し嫉妬した。

「ええと、まずは小さいものから買っていきましょう。テーブルなどの大きな荷物は買い物の邪魔になりますから、最後です。灰皿とティーカップ、食器類から揃えましょう」

 そこまで聞いて、ふと嫌な予感がした。「待て」

「はい?」

「昨日まで使っていた灰皿はどうした」

「捨てました」

「ティーカップは?」

「捨てました」

「食器も……?」

「捨てました」

 愕然とした。まだ使えるものばかりだ。灰皿は少し劣化して穴が空いているだけだし、ティーカップに関しては取手が割れただけだ。どちらも普段使いには問題ないだろうに。

 と、そこまで思ったところで、タタタが私の心を読んだかのように言う。「そういう『まだ使える』の精神が部屋を汚す原因なんです。今日全部買い直して、綺麗な生活を始めましょう」

「まあ、綺麗になるならそれに越した事はねえよな」とファースト。

 君達の出費でないから勝手な事を言えるのだ、と内心ぼやきつつ目当てのコーナーを目指す。シンプルなデザインの家具が多く、選ぶ手間も省けそうだ。

「あっ、凛華さん。このカップとかどうでしょう? 形が気に入りました」

 タタタが白いカップをひとつ持って寄ってくる。それは今まで私が使っていたティーカップに近い形だった。

「私は飲み物が入れば何でも良い」とぶっきらぼうに言うと、タタタは首を大袈裟に振った。

「駄目ですよ。食器は命です。それぞれの食べ物や飲み物に適した食器があるんです。私の主人もよくそう言っていました」

「君の主人はたかだか五歳だかそこらだろう。私は大人だから効率を重視するんだ」

 タタタがさらに顔を近づける。「いいえ! 逆です。その『たかだか五歳』ですらわかる簡単な事もわからない凛華さんが子供なんです」

「……」

「私が選びますから、凛華さんは黙っていてください」

 そういうと、食器をあれこれ眺め、時には手に取って吟味する。どうやら、私が思った以上にタタタは世話焼きらしい。

 とんでもない同居人を招いてしまった、とため息をついていると、ふと周囲がざわついているのに気がついた。ひそひそと話す人は老若男女それぞれだが、皆一様にこちらを見ている。と、そこまで見て気づいた。私はどうして今まで気づかなかったのだろう。

「タタタ」と声をかける。「食器を置いて」

「どうしてですか」とタタタ。

「周りを見てみろ」と促す。写真を撮る者、何かの催しかと騒ぎ立てる者などが、周囲に固まっていた。「君は私以外から見えないんだ」

 それでも尚わからずに首を傾げているタタタに、更に言葉を繋げる。

「まだ分からないか。私以外から見たら、そのカップだけ浮いているんだ」

「あっ……」

 ようやくタタタも理解したようで、慌てた様子で食器を戻す。物を持てても、私以外からは浮いているようにしか見えない。これからは留意する必要がありそうだ。


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その後も買い物は続いた。食器を持つのは私で、それを指示し吟味するのはタタタ。あれでもないこれでもないと日用品を選別する姿は、まるで主婦のようだった。ファーストはすっかり飽きてしまったらしく、展示品のベッドの上で寝てしまった。

「そういえば、凛華さんは仕事とかされてるんですか?」

 タタタがテーブルを選びながら聞く。

「もちろん。でなければ今日だってこんなに散財できないだろう」

「親の仕送りかと思っていました」

「よしてくれ、これでも私はもう二四だ」

「えっ……」タタタが目を見開いて私を凝視する。「それ、本当ですか」

「嘘をついてどうする」

「いえ、疑っている訳ではないんですが……。てっきり一五くらいかと」

 歳下に見られるのはいつもの事だ。「よく言われるよ」

「それで、どんなお仕事を?」

「作曲だ」

「へえ、成る程、作曲ねえ……って、作曲! 凄いじゃないですか!」

 テーブルのカタログを読んでいたタタタが、今度は思い切りこちらに詰め寄ってくる。確かに珍しい職業ではあるが、そこまで驚く事もないだろうに。

「そうだ。作曲家だ。だから収入が不安定だし、毎月仕事が入るとも限らない。わかったらそろそろ会計に行こ……」

「それはそれ、です」ばっさりと切り捨てられた。「あとはテーブルだけなんですから。ほら、これを店員さんに言って買ってください」

 私は言われるがままにテーブルを買う。これで一通りレジに通せば、長い買い物もようやく終わりである。やっと帰れると考えると、一気に力が抜けていく。


 レジは多少混んでいたものの、閉店間近であった事と大荷物だからと店員が優先してくれたお陰で、比較的早くに済ませる事ができた。その間にタタタがファーストを起こしてきてくれた。

「ありがとうございました」

 店員の明るい声を背中に、店を出る。と同時にある問題に気づく。

「タタタよ」

「何でしょう」

「この全てを、私がひとりで持って帰れと……?」

 大量のダンボールの前に、私は絶望した。


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 結果から言ってしまえば、持ち帰ることはできた。店前で途方に暮れていた私に、特別に荷台を貸してくれたのだ。後日返しに行く事を約束し、私達は帰路についた。

 電車の中では終始無言で、誰も話さなかった。おそらく口に出さないだけで、相当疲れているのだろう。ファーストは寝ていただけなので知らないが。家に着いても、今日組み立てようとは誰も言い出さなかった。

「はぁ……」ため息が意図せず出る。人間、普段しない事をすれば疲れるものだ。それは私も例外ではなく、ベッドの上に横たわったまま動けずにいた。蛍光灯も替えていないから、部屋は月明かりだけで照らされていた。曇りのない窓だとここまで光が入ってくるものかと驚いた。

「取り敢えず今日は寝よう」そう独りごちた。疲れた肉体はベッドによく馴染み、沈むように眠りについた。


 一方ファーストは、今日買ってきた家具の入った段ボールに腰掛け、ハイライトを吸っていた。お気に入りの白いジッポで火をつけ、肺に溜め込む。深く吸って吐き出した煙は上へ上へと登り、天井にぶつかっては逃げるように霧散する。灰皿代わりに使っているウィスキーの瓶は、そろそろ吸い殻でいっぱいになろうとしていた。

「眠れねえ……」

 そう呟くのは午後十時半。彼女の夜は長いものになりそうだ。

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