いまじなり
ディンガー
第1話
イマジナリーフレンド。読んで字の如く、想像上の友達を指す言葉である。主に現実逃避の為に作られる、存在しない人形。
それは本来、あくまでも個人が想像しただけのものであり、他の誰にも見えない……筈だった。だから、
「ねえ、そこの君」
最初に声をかけられた時、呼ばれているのが私であると気付くこともできなかった。
∆∆∆
私は彷徨っていた。イマジナリーフレンドは一定期間を超えると、創造主からも見えなくなるらしい。私の主は小さな女の子だったが、日を追うごとに認識されなくなっていき、つい先週、まったく気づかれなくなってしまったのだ。試せる事は試したが、全て駄目だった。もうあの子は私を必要としていなかった。
しかし必要とされなくなっても、イマジナリーフレンドは消える訳ではなかった。ただ認識されなくなるだけであり、存在自体はこうしてとどまり続けている。誰にも今日あった事の話ができない。今日の夕食について語らう事もできない。少なくとも私にとっては、消えるよりも苦しい事だった。
さて今日は何をして時間を潰そうか。と考えていると。
「無視は傷つくな」
下からぎろりと覗かれ、小さな悲鳴をあげる。無骨な鉄フレームの眼鏡から覗くその疲れたような隈だらけの目は、確実に私を見ていた。
「えっ……私ですか」
「もちろん」
彼女は口角を上げた。しかしそれは笑顔というにはあまりに不気味で、普段から感情を表に出さない性格なのだろうという事は容易に想像できた。
池袋駅東口。一日あたりの乗降者数が世界三位という記録を誇る、都会の中の都会。今は平日の昼という事もあり比較的人通りは少ないが、それでも引っ切りなしに様々な人が往来している。が、その中でも彼女は異色の存在感を放っていた。焦茶色のベストに白いフリルのついたトップスは燻んだ赤色のリボンを目立たせている。身長はただでさえ小さい方なのに、皺の少ないスカートが砂時計の形のように大きく広がっており、彼女をより小さく見せていた。
そして何よりも異質なのがその顔だ。眼鏡の奥には目があるものの、全く感情が読み取れないものだった。顔立ちは可愛らしい少女であるが、目つきがあまりに大人びており、全体の印象をちぐはぐに演出していた。
私はどう接するべきかと考えていたが、口を先に開いたのは彼女の方だった。
「君、イマジナリーフレンドでしょ」
「ええ、まあ……でも、どうしてあなたは私が見えているんです?」
彼女は「なんでだろうねぇ」と軽く返し、流した。「少し前からなんだ」
私が意味もわからず戸惑っていると、突然視界に手が現れた。握手を求めているようだ。
「取り敢えずこんなところで立ち話も何だ、うちにおいでよ」
そう言って、彼女はまた無理に口角を上げた。
∆∆∆
彼女の事が怪しいと思わなかった訳ではない。寧ろ今でも裏があるのではないかと疑っているくらいだ。しかし、私を騙して何かの得があるとは思えないし、そもそも私はイマジナリーフレンド。創造主に作られただけの、誰にも見えない幻。そしてその創造主に捨てられた今、もう私に捨てるものは何もなかった。
どれだけ移動しただろう。電車で一時間程度、その後駅から歩いて三十分くらいだろうか。その間彼女は終始無言で、隈の濃い目でどこか遠くを見つめているようだった。私が見えなくなってしまったかと心配もしたが、時々目を合わせてくるのを見るに、ただ無口なだけだろう。
「ここだよ」
そう言って彼女は、ぼろぼろのアパートの前でこちらを向いた。二階建てのようで、怪しく点滅する蛍光灯が彼女を照らす。黒いストレートの髪は長く、暗くなり始めた街路の影となって溶けてしまいそうだ。
ぎしぎしと不安定に軋む階段を上り、二つ目の扉に鍵を差し込む。ぎぃ、と鳴きながらドアが口を開く。と、光が漏れる。明らかに一人暮らし専用のアパートに見えるから、最初は電気を消し忘れたのかと思ったが、
「ただいま」
と、彼女は言った。本当に私が入って良いのかと逡巡していると、「早く入って」と急かされてしまった。彼女の背中に隠れるようにして入る。
恐る恐る室内を見渡してみると。
「(煙草臭い……)」
およそ人間が住んでいるとは思えない程の散らかった部屋だった。これでもかと並んだ酒瓶や灰皿から溢れた煙草の吸い殻、封が空いて放置されている何か分からないものまでが、ぎっしりと詰め込まれていた。洗濯物は竿の下に散らばり、怪しげな輸入製品の箱の上には干からびた米が茶碗に入ったまま息絶えているのが見えた。
蛍光灯も埃を被って激しく明滅している中、部屋からふと声がした。
「おかえり。今日は遅かったじゃんか、どこ行ってたんだ? って、その後ろのは新入りか?」
辛うじてスペースの残っているベッドの上には、人間のような、しかし確実に人間ではないものがいた。一見すると高身長の女だが、黒髪が綺麗な頭の両側には、白い羊の角のようなものが生えている。それに、美女ではあるもののキャミソール一枚に短パンという季節外れな格好をしており、美しさよりもだらしなさが勝ってしまっていた。
「ああ、池袋にいたんだ」
「へえ、可愛いじゃん。名前は?」
「そういえば聞いていなかったね」
「だと思ったよ……。姉ちゃん、名前なんてーの?」
突然話を振られて、私は咄嗟に対応できなかった。「えっ、えっと……タタタです」と、迷いながらもそれだけ返した。タタタ。私が貰った名前だ。あの小さな主が、一生懸命考えてくれた、大切な大切な名前。
「いかにも『いまじなり』って感じの名前だな! まあ宜しくな! 俺はファースト。何が一番って訳でもないが、その女と出会ったのが某ファストフード店だったからだ。酷い名前だろ?」
蛍光灯が激しく明滅する。一瞬停電かと思ったが、すぐに持ち直す。
「ええと、まずその『いまじなり』っていうのは何ですか?」
ファーストが答える。
「ああ、ただのイマジナリーフレンドの略だ。俺が考えた」
「成る程……」
どうしよう、間が持たない。私の創造主は話すのが好きだったから、いつも聞いているだけでも良かった。楽しそうに話す事もあり、聞いていてこちらまで楽しくなっていたものだ。逆に言えば私の会話経験はそれが全てだから、こうして話が詰まってしまうとどう持ち堪えたら良いのかわからないのである。
「ああそうだ」私はぽん、と手を叩く。「あなた……ええと、ファーストさんは、名付け親が彼女……」
「凛華だ。りんか」
「その凛華さんが『ファースト』って名前をつけたって事は、ファーストさんは凛華さんが創造主なんですか?」
ファーストは笑いながら首を振る。「あんな創造主、俺は御免だね」
「ではどうして」
「どうしてあいつが名付けたか、だろ? 俺は名前が思い出せなかったんだよ。多分創造主に忘れられて、その時に存在ごと薄れたかなんだかで……って感じだろうさ。ま、もう元の主の顔なんざ覚えちゃあいねえ。どうでも良いさ」
「成る程……それで……」
「それでファースト、だ。酷い名前だと思ったさ。でも呼ばれてると、悪くないかもって思えてくるんだ。不思議なもんだよな」
彼女は照れたように笑いながら、自分の右の角を撫でる。
私はそんなファーストを見て、少し可愛いなと思ってしまう。最初こそ関わりたくないタイプだと思っていたが、少しだけ彼女の人となりが分かった気がした。
「その角、良いですね。なんか、人じゃない人って感じで」
少し油断して、ぽろりと溢してしまった言葉。その一言にファーストは睨みで返す。
「ああ?」
「あ、ごめんなさい。そういうつもりでは……」
「じゃねえよ。お前その耳でそれ言うか?」
私は返答に窮した。その耳? どれの事だ。
「ええと……耳、ですか」
と言うと、途端にファーストは何かに気づいたような顔をして、「ちょっと待ってろ」と残して、床を埋め尽くすように広がるゴミの山から何かを漁り始めた。ごそごそと動くゴミ達はまるで波のように流れ、渦巻き、別の場所に移動していった。
どれだけ経ったか、ファーストが「あった」と呟いた。持ち出してきたものは……。何だろうこれは。
「ファーストさん、これは……?」
「これは『鏡』ってんだ。自分の姿がわかるもんだ」
ああ、とふと思い出した。そういえば、私の主人が「お化粧するの」と言って鏡の前に立ち、顔にマニキュアを塗って一大事になった事があった。その様子を見ていたが、私はどこにも映っていなかったのだ。考えてみれば当然の事で、想像上の存在なのだから映る事などありえないのだ。
「でも私達はイマジナリーフレンドですよ。想像上の存在が……」
「まあ見てみなって」
ぐい、と鏡を顔の前に差し出される。
「えっ……」
「これがお前だ」
私は絶句した。これが私……? これが創造主の描いた私……?
「か、可愛い……」
薄い青髪のボブヘア、熊のような丸い耳、丸い片眼鏡、幼さを残した丸い顔。こんな顔をしていたなんて、今まで知ろうとすらしなかったのを後悔している。元々小さな女の子の想像から作られた存在なのだから可愛くない筈はないのだが、それにしても可愛い。
「おい、あんまり見惚れてんじゃねえぞ。気持ち悪い」
いつまでも鏡を見続ける私も見兼ねて、素早く取り上げられる。
「あっ……ああ……」
「でもまあ、これで俺が言いたい事はわかっただろ」
「ええと、何でしたっけ」
「お前なあ……」頭をぽりぽりと掻く。呆れているらしい。「熊みたいな耳があるだろ? お前も俺のこととやかく言える見た目してねえぞ」
「ああ」ようやく本筋を思い出した。そういえばそんな話だった。「でも、どうして鏡に私が映るんですか? 前は映らなかったのに」
「それはあいつの力だ。凛華のな。詳しくは知らんが、『いまじなり』達を見えるように出来るらしい」
「凄いですね」
「凄いだろ」
「ファーストさんではないです」
「……」
少し気を抜いて話せるようになってきたところで、お盆を持った凛華がやって来た。「仲良くしているようだね」
お盆の上には汚いティーカップがみっつ、中には得体の知れない液体が入っていた。元々白かったであろう容器はすっかり茶色の斑目になっており、内側には飲み物を長時間放置した跡のリングが虎模様のように残っていた。中身の液体に関しては、お茶にしては濃すぎるしコーヒーにしては薄すぎる、微妙な茶色をした何かだった。匂いから判断しようにも、ほのかな発酵臭がそれを邪魔する。ティーカップのうちひとつは、取手が歪に割れたままだった。
「これ……飲めるんですか?」
凛華に聞いてみる。しばらくの間があって、彼女は答えた。
「もちろん。私が近くにいる間は、重いものでなければ問題なく触って動かせる」
「そっちじゃなくて」いや、そっちも気になっていたのだが。「大丈夫です? 体調とか壊れません?」
「君に壊れる体はないだろう」
即答される。「あっ……」
横をちらりとみる。ファーストは何の抵抗もなく飲んでいるので、これがこの家の「普通」らしい。初めて飲む飲み物がこれというのは抵抗しかないが、意を決して少しだけ啜ってみる。
途端に、衝撃が走る。全身から出るはずのない冷や汗が出る感触があり、体が全力で拒否しているのがわかった。今まで味覚を使った事がなかったからどんな味かは形容できないが、これは飲んではいけないものだと直感した。
「あのっこれ……!」
私がこの何かもわからない飲み物を訴えようとしたところを、凛華が遮る。
「ああ、特製の『凛華スペシャルブレンド』だ。美味いだろう」
「は?」
思わず全力で睨んでしまう。
「あ……口に合わなかったろうか。すまない」少しだけ縮こまる凛華。「残しても構わないから」
「逆によく普通に飲んでいられますね! 味覚がないんですか?」
「まあまあ。慣れだよ、慣れ」とファースト。
「こんなものに慣れたくありません! ああ……初めて口にするものがこれだなんて……」
「なんか、ごめんな? うちの凛華が……」
「誰が『うちの凛華』だって?」
「細けえこたあ良いんだよ。排水溝に流そうぜ」
「うちの排水溝は詰まって久しいよ」
「あなた達、よく今まで生きてこれましたね……」
駄目だ、私と生活水準があまりにも違う。うちは一般的な家だと思っていたが、かなり恵まれた家庭だったのだなと考えを改める。
私が呆れていると、凛華が「そうだ」と話を切り出してきた。
「うちで暮らさないか? どうせ帰る場所もないのだろう」
また口角を無理にあげる。酷い顔だ。
「お断りしま……」
「まあ待て」凛華に遮られる。「週に一度、カフェに連れていってあげよう」
「それのどこが提案になっているんですか」
「私が近くにいれば物を持てる。そう、例えばフォークとか。私がよく行くカフェは確かモンブランが美味しいと評判で……」
「暮らします」今度は私が遮る番だった。
凛華は満足気に頷くと、やはり真顔のまま「宜しく」とだけ言った。
茶なのかコーヒーなのかわからない何かの匂いに包まれた、ゴミの上の家。暮らす相手は同じイマジナリーフレンドひとりと、それを実体化できる人間ひとり。これからどうなるのかという期待一パーセント、不安九九パーセントの生活が始まろうとしていた。
「ただし、私からも条件を出します」そういって、私は立ち上がって人差し指をふたりに向ける。両者ともきょとんとした顔でこちらを見ているが、構わずに続ける。
「部屋を! 片付けさせてください!」
そうドヤ顔で言ったが凛華とファーストはその顔を見る事ができなかった。部屋の明かりが突然消えたのだ。何も見えない。何事かと玄関口の方に移動して電気のスイッチを何度も切り替えるが、何も反応がない。私が戸惑っていると、「ああ、ついに切れたか……」と凛華の声がする。
私が呆れ疲れていると、徐にファーストが口を開く。
「取り敢えず、今日は寝よう。電気も消えたしな」
私が選んだ選択は、本当に正しかったろうか? それは今、知る術がない。
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